妻が悪女に変わる時3
大広間には既に貴族たちが集まり、国王夫妻の登場を待つだけだった。
アルバートも正妃を連れて、父とその正妃より先に会場に姿を現していた。側妃たちは親族が付き添う形で各々勝手に来ているが、国王夫妻より後になることだけは避けて参加している。
この国のほとんどの貴族と滞在している他国の貴族が集まり、少なくても1000人以上が大広間に詰め込められていた。
王家が主催している今回の催しの開催趣旨は王太子の王女たちの健やかな成長を祈るもので、娘たちの合同誕生会に父親のアルバートとしては本人たちがわかっていないような誕生祝をする必要について首を傾げていた。
アルバートは国王が立つ段の一段下の定位置に向かいながら、人だかりができている一角に興味を引かれた。これだけの人数がいると、人だかりがいくつもあるのはおかしくない。人気のある貴族の周りには人だかりができるものだ。しかし、その一角の人だかりは尋常ではなかった。
結婚適齢期の令嬢たちが若くて見栄えのいい高位貴族に群がっているかのような異様な熱気がそこにある。
アルバートはこのように取り囲まれている人物について推測しようとしたが、取り囲んでいるのが令嬢にしては白っぽい色のスカートは見えず、どうも男だけのようだった。
社交界の華と呼ばれている貴婦人とその崇拝者たちにしては、国王夫妻が登場していないとはいえ、このような正式な場所では非常識すぎる。このような格式の高い場において、親族や夫、婚約者以外の男性と一緒にいることは、ホストに対する侮辱にも相当する。
あくまでこの夜会は王家が主催していて、貴族たちは忠誠の証としてそれに参加しているのだ。別の意味での社交は会場である大広間以外でこっそりと行うものであって、この場ではそれぞれの家の代表である自覚ぐらいは最低限持っていなければいけない。
だからこそ、紹介されていない相手と話してはいけない、身分の下の者が上の者に話しかけるなどの身分に関するマナーには常よりもうるさい。そのようなマナーを破れば、つまみ出されても文句が言えないのが正式な場の決まり事である。
明るい髪の間からチラリとアルバートの目に入ったのは、特徴的な色の巻き毛。
父の傍にいる筈のハルスタッド伯爵が何故ここに?
国王夫妻の入場までに会場入りしておかなければいけないのは招待客だけだ。
ハルスタッド伯爵家も一応は招待されているが、当主は国王の後ろに付き従っている。嫡男はまだ子どもで夜会には参加できず、夫や息子のエスコートがない伯爵夫人は実家の親族と共に参加している筈だ。
それなのに、会場には黒い巻き毛の人物がいる。
顔まで見えない為に誰なのかアルバートが確認できないまま、国王夫妻の来場が告げられる。
国王夫妻よりも高いところに立つのは不敬な為、アルバートは正妃を連れて段の下で父と王妃が入場し、玉座に就くのを待つ。
参加者たちは頭を垂れて、国王夫妻の入場を待った。
入場してきた国王夫妻が最上段にある玉座へと段を上る後に付いてアルバートと正妃が定位置である玉座の一段下まで上がる。
一段高くなっているところからは先程の人だかりもよく見える。その中心にいる黒い巻き毛は二つ。一つはハルスタッド伯爵であるアーガイル。それより低い位置にあるもう一つはアルバートの側妃のリーンリアナのものだった。
離宮で暮らしているハルスタッド一族の女たちはどのような機会ですら、出席しなくても許されている。それは王女を嫁がせることで2代限りの保障を他国に与える為だ。ハルスタッド一族の女たちを見初めて娶れば、孫王女までハルスタッド一族となり、孫王女と孫王子の従兄弟同士が番えば、また2代ハルスタッド一族の血を引く王女が生まれてくる。つまり、3代混血が続けばハルスタッド一族の特徴がなくなる法則からいえば、他国にハルスタッド一族の人物が嫁げば、この国の外交手段が失われるのを避ける為にハルスタッド一族の女は社交界に出なくともよいのだ。
父からハルスタッド一族の女たちの使い方を知らされるまで、アルバートはそのことを知らなかった。
王族の側妃たちの中には公式行事にすら出席しない者がいる、その程度の認識だった。
何故、リーンリアナがここにいる?!
アルバートは愕然とした思いで自分の黒髪の側妃を見、その傍らにいる側妃の父親がいる筈の王の後ろに目を遣る。そこには別のハルスタッド一族の男と護衛騎士が立っていた。
この場面で発言できる唯一の王が口出しをしないので、アルバートは黙って会が進んでいくのを見ているしかない。
王族から順に国王夫妻とアルバートと正妃に挨拶をしていき、公爵、侯爵、伯爵と続く。伯爵の一番手として呼ばれたのは、宰相を務めるウルスタッド伯爵とその正妻。二番手はいつもは王の背後に控えて呼ばれることのないハルスタッド伯爵とその正妻。それにリーンリアナ。
「我がハルスタッド伯爵家はお孫様の健やかなるご成長をお祈りいたします」
「あい、わかった。ハルスタッドの日頃の忠義とその言葉、確かに受け取った」
ハルスタッド伯爵夫妻の挨拶は他の貴族たちと何ら変わるところはなく、リーンリアナの分も一緒に述べられたのだと誰もが思っていた。これから演じる人々以外は。
「このような場所に出てくるとは珍しいな、レディ・リーンリアナ」
王からの言葉にリーンリアナは小さく淑女の礼をとると、嫣然と微笑む。笑み一つで細波のように感嘆の声が広がる。
「はい。陛下と王太子殿下にどうしても申し上げたく、参りました」
ハルスタッド伯爵は三女の漏れている魅了の力を自分の魅了の力で誘導する形で操り、誰もが王とリーンリアナの会話に注目せずにはいられぬように拡散させていた。
元々、注目は挨拶に参加しないハルスタッド伯爵と世にも珍しいハルスタッド一族の女に集まっていたのを更に多くの人間を惹き付け、目を離せなくしたのだ。
「陛下は先日の離宮の不審者侵入事件はお耳に入っておりませんでしょうか?」
その言葉にどよめきが起こる。リーンリアナのいう離宮の不審者侵入事件は、駆けつけた騎士たちやその後処理の関係で多くの人間が携わることになった。それに王族に嫁いだある一族の女たちが住む離宮に関しては同性しか出入りできないだけに貴族たちの興味を引き、事件自体は誰もが知るところになっていた。
その事件のことで話があるというので、その場にいた者たちは王がどんな反応をするのか注意深く待った。
アルバートはそのことを持ち出したリーンリアナの意図がわからなかった。
その件はリカルドが呼んだ近衛騎士団が侵入者を拘束し、今も言づてを送った人物の調査をしている。事件自体、アルバートの妃の誰かによる悪戯と見なされていた。アルバートが望んで妃にした相手がいないとはいえ、王太子の側妃になるような有力な貴族の令嬢たちを安易に犯人扱いはできない。犯行に関与している明確な証拠が見つからるまでは調査は慎重に行うしかなかった。
それに処罰ができるかどうかも怪しい点も、アルバートたちが気にしているところだ。
犯行を計画したのは有力貴族出身の令嬢もリーンリアナが伯爵家出身だということで、他の令嬢たちと同様に軽く考えていたのかもしれないがハルスタッド一族の女は侮っていい相手ではない。アルバートすら気付かなかったとはいえ、この国の外交手段として人質でもあるハルスタッド一族の女に対するこの攻撃は自国を滅ぼす行為といえる。加えてハルスタッド一族からの報復も避けられない。そのどちらかの危険性にも気付かないことは、貴族としては致命的な欠点だ。
王族であるアルバートだから許されていることで、王族でなければ娶ることがほとんどないハルスタッド一族の女の夫になった貴族なら笑顔で病死させられていることだろう。
あの事件がなかったかのように過ごしていたリーンリアナが、ここでこのような騒ぎを起こすとはアルバートには予想もしていなかった。寝耳に水の出来事でアルバートは驚くより他ない。
「ああ。あの事件か。そなたの愛人が捕まったという話だったな」
その新事実に王族の妃たちの中には嗤笑を浮かべている者もいる。アルバートは自分の妃の中にもそういう表情を浮かべた者がいたのを目にした。
あれが犯人か?
犯人と思しき側妃を注視するアルバートをよそに、リーンリアナは国王に悲し気に首を振ってみせる。
「残念ながら、その不審者は私の愛人などではございません。それにあの日は陛下がお越しになっておられなくて幸いでしたわ。陛下のお命を狙った可能性がございましたもの」
リーンリアナの話を聞いて、王は憂慮すべき事態だと言いたげな表情を浮かべる。他の貴族たちも、王の命を狙った慮外者がいたという考えに息を飲んだ。
処罰のしようがない妃同士の嫌がらせから一気に一族にまで累が及ぶ国王暗殺事件という重罪事件に変じたのだ。
驚くなというほうがおかしい。
だが、嫌がらせの首謀者の特定も諫める術もないと思っていたアルバートはこれで無罪放免にできなくなったことに気付いた。
それと共に、リーンセーラが毒に倒れた事件で首謀者父娘が死を賜り、離宮の侍女たちが総入れ替えされたのはハルスタッド一族の女が狙われたからではなく、その夫である王族――国王暗殺事件にも発展する事件でもあると判断されたのだと悟った。
ハルスタッド一族の女をこの国の外交に使う王女の母体として保護し、それに危害を加える者に対しては国王暗殺の罪を着せて排除する。この罪ならどのような身分――実際、アルバートと婚約していた公爵令嬢はそれで命を落とした――であろうと、他国から嫁いできていようが幽閉以上の罰を与えることができる。
「ほう。レディ・リーンリアナはそのように感じたのか」
「当然ですわ。私の顔すら知らずに離宮内をさまよっている人物が愛人だなんて、おかしな話ではございませんか。本当に私の愛人なら私の顔を知っているでしょうし、私の部屋まで来れた筈ですわ。離宮の女騎士たちを眠らせてまでして引き入れておいて、たどり着けずに捕まえさせる意味がございませんもの」
顔も知らない人物に誘われてその愛人になるとすれば、よほどの変わり者だ。
それが誘われたにもかかわらず、愛人の部屋を教えてもらっていないとなると双方の同意が得られたものではないということになる。途中で気が変わったとしても、逢引する場所ぐらいは教える筈だ。心変わりをしてすっぽかすのはわかるが、待ち合わせる場所すら教えないというのは、その時点で犯罪のような後ろ暗いところに関わってくる。
王太子の側妃の愛人など後ろ暗いものでしかないのは確かだが、それを捕まえさせて自分の評判を落とすことがわからないほど、リーンリアナが馬鹿だと思われていたのか。
それとも、愛人の噂でリーンリアナの評判を落とすだけでいいと思ったのか。
これを企てた犯人の浅はかさが露呈される。
「そうか。その者はそなたの愛人ではなく、余の命を狙った者ということか」
王が自身の命が狙われたと受け取ったことで数名が顔色を失くした。自分たちがしでかした嫌がらせの危険性にようやく気付いたらしい。
そんな緊張感漂う会話に入り込んできたのは近衛騎士団の団長であるユング・ホルボーン。今回の事件の捜査の責任者だ。
「陛下。発言をよろしいでしょうか?」
「なんだ、ユング」
「それがそうとも限らないのです。取り調べた結果、捕らえられた人物はただの女好きで、愛人を誘う言づてを黒髪の王女たちの母親がいる離宮の住人からもらったと言うことでその機会に飛び付いただけでして。陛下のお命を狙う動機がどこにもないのです」
ユングの報告でどこかしらで安堵する吐息がした。
「では、その件はアルバートの妃たちがレディ・リーンリアナへの嫉妬から起こした事件というわけか」
アルバートの隣に立つ正妃の優美な形の唇の端が心外だとばかりにピクリと動く。
親族たちに連れられている側妃たちの反応は自分が疑われていることに驚く者、怯える者、馬鹿らしいとばかりに正妃と同じ反応を返す者、三者三様だった。
「そうとも言いきれません。今回の事件を囮に、陛下に害をなす輩が忍びこんでいた可能性を否定することができませんので。運良く、陛下がお越しになられず、警備の者が発見されたおかげで何事も起こらなかったのかと」
「成程。誰が何を狙ったのかわからないというわけだな?」
「陛下を弑して国を混乱させるつもりだったか。それとも、玉座に手をかけたかったのか」
「余としては親族を疑いたくない。のう、リカルド。その日、余が死んでいれば真っ先に疑われたのは離宮にいたそちだ」
事件当日、離宮に滞在していた王の末弟リカルドは首を横に振る。
「滅相もない。陛下がお出でなら、私は盾となったことでしょう」
「リカルド。余もお前がそのようなことをするとは思っていない。だが、余の亡き後、玉座に着く人間で利益を得る人間はいる。それが血の繋がった相手ではないことを祈りたい。ユング、言づてと騎士たちに薬を盛った人物が判明するまで調査は続けるように」
「御意。今回の犯罪では王家に忠誠を誓う騎士に薬を盛るなど、反逆罪に問われることを安易に考えている犯行から、指示を出したのがどのような身分であっても特定致します」
王はリーンリアナと招待客を呼ぶ係に頷いて話が終わったことを知らせる。
ハルスタッド伯爵一行は優雅な礼をして王の御前を退いた。
王太子の寵愛を争った為に王の命を狙ったと見なされた妃が内心焦っていたことを、今回演じた人々とその茶番に気付いた人々だけが知っていた。
マリーの伝手を使って社交界の華と呼ばれている女性に離宮の中庭の門まで来てもらったリーンリアナだが、そこで話される内容は大きな衝撃を与えられるようなものだった。
まずはドレスが必要だからとお気に入りのドレスを事前に渡して見てもらったのだが、「このような安物では問題になりませんわ。あなたは伯爵家のご令嬢で王太子殿下の側妃なのですのよ」と、叱られてしまった。
姉や叔母たちも同じようなものを着ているし、ハルスタッドの館に住む一族の女たちも同じ布で作ったドレスを身に付けている。一族の男たちの服も館の中で女たちが作っているので、どこがどう問題なのかリーンリアナにはわからなかった。
その上、侍女や女騎士たちも子爵以下の家柄であることが多く、自分たちと同じかやや劣る品質の布で作られたドレスを誰も気にしていなかった。
そこで、刺繍よりも裁縫が得意な侍女が外から持ってこられた極上の布を使ってドレスを作り、刺繍が得意な別の侍女がそれに図柄を刺していく。
リーンリアナの戦いの場である王家主催の催しの場ではダンスが必須だとも言われたが、リーンリアナはダンスなど習ったことがなかった。「学校に入学する前に少しくらいは習ったことがあるのではなくて?」と言われても、「申し訳ございません」としか言えない。
ダンスを踊れるようになるのは困難かと思いきや、侍女の中にダンスだけはできる人物がいて、男役で踊ることもできたのでダンスのステップを一つは身に付けることができた。
あとは会の流れやマナーを侍女や女騎士たちと一緒に聞き、それを何度も繰り返し練習して自然にお辞儀をしたり、話せるようにしていった。
「何故、このようなことも知らないのかしら? あなたの家庭教師は何を教えていらっしゃったの?」とまで言われてしまったリーンリアナは恥ずかしくてたまらなかった。
そこで侍女や女騎士たちに家庭教師に教えてもらっていた内容を話せば話すほど、リーンリアナは社交界に出ないことを念頭に育てられていることがわかった。そして、音楽など、場合によっては相手を煩わす芸事からも遠ざけられ、ほぼ中流階級の実用的な教育を受けていたことが判明した。
そんなリーンリアナを社交界の華にすべく、急遽、それぞれの得意分野で侍女や女騎士たちは頑張った。
王宮の他の部署の侍女たちからは離宮付ということで馬鹿にされていた普通科の落ちこぼれ女生徒たちは意地でもリーンリアナを社交界の華にしようと必死になった。
だが、最大の難関は王家主催の催しにリーンリアナを連れて行く人物だ。
夫であるアルバートは正妃を連れて行くしかなく、リーンリアナが頼れるのは父親であるアーガイルか母方の親族しかいない。しかし、リーンリアナたち姉妹は両親とは親しくない上に、母方がどこの家かも知らない。叔母たちもそれについては詳しくない。一番下の叔母ですら、兄の妻の実家がどこか教えてもらっていない始末。
結局、父親を頼るしかなく、「自分の矜持を守る為にこんなことをしていいと思っているのか!」と怒られるのを覚悟で門越しに打ち明けてみれば、あっさり承諾されてしまった。
侍女の手を経てアーガイルから渡された台本を見て、リーンリアナも侍女たちも自分たちが行うことが「国王暗殺未遂事件の責任追及」というとんでもないことになっていて慄いた。
それは国王とハルスタッド伯爵にとって図に乗りすぎた妃たちへの見せしめの弾劾だった。王弟リカルドはこれで離宮への風当たりが強くなるのではと避けたいと思っていた事態が、こうしてリーンリアナたちを利用して行われることになったのだ。
ただ、リーンリアナは「私の顔も知らないのに誘いにのって愛人になろうとした人間も、そんな手紙を出した人間も許せない。私の愛人になりたいなら、顔を見せてあげるるから、それから考えて欲しいわ」と自棄を起こしているのかいないのかよくわからない理由で、大勢の前に姿を現わそうと考えたにすぎない。
それを侍女たちが聞いて夫の寵を巡る「正妻と側室の戦い」やら「妻と愛人の戦い」やらで、女としてどちらが上か客観的に見せつけるほうが、本人に言うより効果的だと伝授した結果が王家主催の催しへの参加だったというのに、物事は本当にうまくいかないものだ。




