妻の姉を愛する夫
子どもが生まれてくるのが待ち遠しくてアルバートは何も手に付かなかった。代わりに、妻が産気づいたと聞いて、絨毯が擦り切れるほど部屋の中を歩き回ってその時を待っていた。
彼女と同じ黒い巻き毛の子ども。ハルスタッド一族の女から生まれる子どもと孫はその一族の特徴を持つ。
自分と同じ色の髪には生まれなくても、彼女と同じ髪の色に生まれる子どもが生まれる前から愛しくてたまらない。
彼女と同じ黒い巻き毛をした自分の子ども。
それを考えただけで胸がいっぱいになる。
「アルバート殿下、王子が生まれました」
「王子か!」
王子の誕生にアルバートの心は跳ねる。正妃はまだ子どもを産んでいなかった。
彼女と同じ髪をした息子が王になる!
まるで彼女への思いの強さを表すかのようで、アルバートにはそのことが何よりも重要だった。
飛び込んできた侍女が生まれたことを告げに来るまで何時間も待たされたアルバートは、いてもたってもいられずにそのままハルスタッド一族の女用の離宮に向かう。
アルバートの妻が住むハルスタッド一族の女用の離宮は、そこに住む女たちの夫を除いては男子禁制だ。医師であろうと、重病でない限り口伝えでの診察となり、立ち入りを禁じられている。
リーンリアナのお産で現在はアルバート自身も立ち入りを禁じられていた。
離宮に向かう道すがら、アルバートはハルスタッド一族の男たちとすれ違った。彼らはアルバートに気付いて道の端に寄って顔を伏せてアルバートが通り過ぎるのを待つ。
ハルスタッド一族の男は文字通り王の手足となって仕事をする。どの臣下よりも忠誠心が強く、裏切る心配がない為に王も彼らを重用している。それは代々の王に本家の娘を嫁がせている彼らは王家の外戚でもあるが、驕り高ぶったところはないからだ。
アルバートもまたハルスタッド一族の本家から妻を娶っていた。それがリーンリアナだ。
ハルスタッド一族にあるただ一つの問題は、彼らが20年も仕えられないということだけ。10年も勤めればあとは次第に引退していくのだ。
アルバートはその時、ハルスタッド一族の男たちの一人が何かを抱えていることに頓着しなかった。
ただひたすら、ハルスタッド一族である妻の産んだ王子に会うことで頭がいっぱいだった。
慣れた足取りでハルスタッド一族の女用の離宮へと急ぐ。
ハルスタッド一族の女用の離宮は中庭を囲むように建てられた四角い建物だ。廊下も窓も中庭のある内側にしかなく、入る為には女騎士の守る門を通る必要がある。それ以外に離宮の出入り口はない。
アルバートは女騎士の守る門を通り、妻の部屋へと向かった。
離宮は不気味なほど静まり返っていた。アルバート以外の王族に嫁いだハルスタッド一族の女たちがまるで息を潜めているかのようだった。
しかし、浮かれていたアルバートは気付かなかった。
それほど浮かれていた。
彼女と同じ色をした髪の王となるべき息子の誕生に。
リーンリアナの寝室にはそこの主が寝台でぼんやりと横になっていた。
「子どもはどこだ? 王子だったのだろう?」
アルバートは姿ない子どものことを尋ねた。
「子ども? こんな時間に来られて、何をおっしゃっておられるのですか?」
まだ特徴的な黒い巻き毛が汗で顔に張り付け、疲労感を漂わせているリーンリアナは力ない声で言う。
昼をすぎたばかりのこの時間、アルバートは政務に就いている。しかし、今はいつもとは違う。
ハルスタッド一族である妻が王子を産んだのだ。彼女と同じ黒い巻き毛の息子を。
「王子はどこにいるのだ?」
「王子など生まれておりません」
リーンリアナは無表情のまま答える。
侍女は王子だったと告げたのに、妻は王子ではないと言う。
「王子が生まれたのは知っている。どこにいるのだ?」
彼女と同じ黒い巻き毛の息子と対面したいアルバートは苛立ちながら、もう一度尋ねる。
「私はハルスタッド一族の女。王女しか産みません」
頑なにリーンリアナは王子を産んだことを認めない。
リーンリアナには姉妹が三人と跡継ぎである弟が一人いる。
アルバートはハルスタッド一族は女性が生まれやすい家系なのだろう、侍女が性別を間違えただけなのだろうと思った。
「では、王女はどこにいる? 生まれたのであろう?」
「私は子どもなど産んでおりません」
やつれた顔をしたまま、リーンリアナは硬い声で言う。
しかし、アルバートはリーンリアナの中で子どもが育っていく様を見ていた。生まれてくるのが嬉しくて、子どもがリーンリアナの中で暴れているのも確かに見ていた。
リーンリアナの腹を蹴った音や振動も確認している。
「お前は妊娠していたのであろう? なら、その胎の子はどこに行ったのだ?」
「私は子どもなど産んでおりません。ハルスタッド一族の女からは王女しか生まれないことをご存じなかったのでしょうか? リーンセーラお姉様も王女しかお産みになっていらっしゃらなかったでしょう」
「・・・!」
そう言われてアルバートは気付いた。
彼女もまた王女しか産んでいないことに。
この離宮に住むのはリーンリアナだけではなく、その姉たち、叔母たちもいる。全員、王族に嫁ぎ、王女を産んでいた。
王女しか産んでいなかった。
その中でリーンリアナが彼女の名を挙げたと言うことは、妻に自分の想いは知られている。
「ハルスタッド一族の女からは王女しか生まれませんの。他国に嫁ぐのに必要な王女を産む為にしか、必要とされておりません。それがハルスタッド一族の本家に生まれた私の務め」
黒い巻き毛を持たぬ姉妹や従妹たちの中には未だに婚約していない者もいるというのに、ハルスタッド一族の血を引く姉妹や従妹たちが次々と縁談をまとめ、嫁いでいくのをアルバートが見ていなかったわけではない。
だが、王女を産む為だけに嫁いできたのだと言い切るリーンリアナの姿にアルバートはまた一つ気付いた。
アルバートは妻であるリーンリアナのことを見ていなかった。
妻を通して彼女の姉を見ていた。父親の妻であるリーンセーラを。
リーンリアナがアルバートに嫁いで既に何年も経っている。
他の妻も娶っていた。
それでも尚、父親の妻であるリーンセーラに心を寄せている。
それをリーンリアナは知っている。
そのことがアルバートに言いようのない気持ちを起こさせた。
ハルスタッド一族の女用の離宮に住んでいるのは全員、リーンリアナと近しい血縁ばかり。アルバートの想い人もそこにいる。
いつからリーンリアナはアルバートの想いを知っていたのだろう?
どのくらいの間、リーンリアナは夫の心を奪った姉と何のわだかまりもなく付き合っていたのだろう?
何のわだかまりもない?
そんな付き合い方ができるはずがない。それはアルバートが一番知っていることだった。
王を父として慕いながらも、彼女の夫であることにどれほど嫉妬したことか。
リーンリアナと数歳しか違わない彼女を父は妻として迎えていることにどれほど怒りを持ったのか。それも、彼女はハルスタッド一族の二人目の妻だ。
父の好色さをどれほど軽蔑したか。
彼女も父親と同じ年齢の、叔母の夫に嫁がされて嘆いているとばかり思っていた。
「御用がなければ、お仕事もたくさんおありでしょうから、お戻りになられてください」
リーンリアナは冷めた目でアルバートを見ていた。
「・・・」
アルバートは腹立ちまぎれの言葉が出そうになるのを堪えた。
向き合おうとしてこなかった妻のその視線が厳しい現実を語っている。
彼女たち姉妹と王族の男たちの歳の差が離れすぎていたから、リーンセーラを父が娶るしかなかった。アルバートがリーンセーラと同い歳なら、リーンセーラはアルバートに嫁げた可能性はないとは言い切れなかった。
しかし、リーンセーラはリーンリアナの上の姉で、アルバートと弟たちは歳が離れていた。歳の近い三姉妹を同じ男に嫁がせるわけにはいかないので、王と王弟、そしてアルバートの順で姉妹を娶ることになった。
すべての不幸と幸運はアルバートがリーンセーラと出会ったのは、リーンセーラが王に嫁いだ後だったこと。
アルバートはその時のことを昨日のことのようによくおぼえている。