星を砕く人
そこには大地がありました。
荒々しく砕いたような岩石の塊だけが見渡す限り、そこにありました。
長い長い凍てついた時間が過ぎた後、やがて一柱の神が訪れたのです。
遠い遠い星からわずかに届く光の中、殺風景で寂寥感しかないその光景に、しかしふわりと微笑んだと言います。
高い高い空の上に佇んで、思索しているかようにも見えるその姿のままで。
神の力を振るい、大地を削りました。
深く深く地の奥まで掻き回して、山を成して谷を織ります、何度も、何度も繰り返して。
それは今に連綿と続く大きな熱の流れを地の底に生みだし、怒れる大地は表に熱を噴き散らすのです。
赤い、禍々しく赤い溶岩が山肌を伝い落ち大地が侵食されていくのをしばらく見守った神様は、再び力を振るいます。
遙か遙かな空の彼方から落ちてきたのは、数多の氷塊です。
激しい地響きと衝撃と熱で氷塊が砕け散り、地表は噴煙と火炎と灰塵と水蒸気の坩堝となり飲み込まれていきます。
幾千の昼と夜が過ぎ行きて、いつしか静謐が世界を包みこんで、混沌が役目を終え退いた時現れたのは。
どこまでも広がる真っ青な空と輝く太陽だったのです。
「神様ってちょっと大雑把すぎない?」
生意気そうな顔で少し口を尖らせて、男の子が文句を言う。確か十歳ぐらいでしたね。
「天地創生の神話に対する感想がそれですか? まあ神様を敬えとは言いませんけど、もし居られなければ今こうして話してる私たちは存在しないのですよ?」
私と少年がこうして話しているのも、おなかが空くのも、日が落ちるまで無心に遊ぶことも、昨日向う脛を打って泣いたのも、全て全て、始まりがあったから。
ええ、私は泣いていませんけどね。
「じゃあ微笑んだってのは誰が見たのさ」
「誰も見ていませんよ。でもきっと微笑んだんじゃないかしら。見たら目が潰れてると思いますけど」
「おーぼーだよー」
と最後の言葉は彼よりもう少し幼い女の子。
うん、最近覚えた言葉は使いたいよね。
「おーぼーなんじゃなくて、神様はそういうものなんですよ」
見合ってくすくすと笑いあう二人を見ながら思い出します。
私も子供のときってこんな会話すら楽しくて笑ってたなあ。
少年と少女、兄妹の頭に手をのせて、空を見上げてみます。
ねえ神様、きっとそうでしょう?
こういったなにもかもを、愛してらしたのでしょう?
緩く目を閉じて、かすかに浮かんだ笑みはそのままに。
もう少し時間もらいますね。私が幼いころ教えてもらった始まりのお話を、子供たちに伝えるまでは。
神様が砕いて練って溶かして固めたこの世界には、力がありました。
力とは何なのか、今に至るまで誰にもわかってはいないのですが。
形にすることができたならきっと魔法とも奇跡とも呼ばれるそれは、神話、寓話、お伽話、そういったものでしか見ることがありません。
術なら、あるのです。
魔術と呼ばれるそれは、火打石を使わずに火を起こすことも、空気を動かして他に影響を与えることもできます。
それは理だから。一定の法則に従って手順を踏めば、身に眠る魔力を吸い上げて結果に変換してくれます。
もちろん足りていれば、ですけど。
でも人の身に眠る魔力なんて、多少の違いはあれど知れています。
どんな大魔術使いと言われる人でもそれは変わらなくて。だからそういう人は、力ある宝石を求めるのですよ。
その身に力を宿した大地の精錬物を、例えば杖に、例えば装飾品に、いくつも埋め込んで自身の補助にするのです。
それでも奇跡は起こせません。
海を割るのも星を墜とすのも森を焼き尽くす炎も大地を砕くのも、そんなことは夢物語です。
魔術は理の代行に過ぎないのですから。
ただ強く強く願い望み希み求める純粋な感情が、奇跡のように帰着する。
それは誰にも成しえるわけではありません。
だから望みや感情は魔法を生み出す要素ではないと、それが今の定説になっているのです。
魔術のように洗練されてもおらず、力は源泉にして全て。
でもそうじゃないんです。
そもそもが違うんですよ。
少なくとも私が知ってる魔法は、奇跡は、都合のいい結果を手に入れるためにあるわけじゃありません。
命を懸ける思いがあればできるのかと言えば、そんなのでもなくて。
不合理で不条理で、望んでも望まなくても、どこまでも残酷に理由もなく、できる人はできるしできない人はできない。
私はできるんです。できてしまうんです。
それはそういうもので、きっと神様が世界を守るために残した力で、それ以外に現出するのはおまけみたいなものだと私は思っているんです。
「お姉ちゃん、まほー使えるんだ?」
私を見つめる男の子と女の子の、きらきらと無邪気な瞳。
あれ、いつの間にか子供たちが増えてきましたね。
一対の瞳は二つだけじゃなくなり、それは見ているだけで自然に笑みが浮かんでしまいます。
「ええ、できますよ。私はそれほど器用にはできませんけどね。お話が終わったら少し歌でも歌ってみましょうか」
神様はこの世界が好きだったのでしょうね。
大小様々な岩の塊だけが埋め尽くしていたこの大地を。
水を恵み海を作り、熱を与え空気を作り、ついには太陽になって青い空と星の瞬く夜をお作りになるほどに。
植物の緑と花が鮮やかに地を埋め尽くし、動物が生命を織りなし、私たちが文明と意志を継いでいく、その様をご覧になりたかったんじゃないかと思っています。
大きく広がる草原と、ところどころにある岩山。
定住牧畜民と遊牧民が交流する小さな集落がこの辺りの風景。
やや小高い丘の上、守り木と呼ばれる大きな木の下に集まり。
話している少年少女たちは、その最年少の担い手たち。
この先も変わらず続いていくであろう集落の在り様と、都会の眩しい暮らしを取り込んでいく変容とを。
好奇心に満ち溢れていながら、どこか神妙な顔つきで話に耳を傾ける子供たちが愛しい。
私たちが生きていく中で、困難は幾多もあるでしょう。大切な人を失って悲嘆に暮れることも、信じた人に裏切られて絶望に打ちひしがれることもあると思います。
それでも明日はやってきます、何度でも、何度でも繰り返し。
どれだけ今日に雨が降ったとしても、いつかは止みます。
終わりなく日常は続くんです。だとしたらきっと、いえ、必ず雨は上がります。
終わらない雨はないんです。きっと明日は晴れだと、言える日が来ます。
人は一人では生きられないから。
食べて生きるだけで、それは誰かが一生懸命作ったものだし、心に誰かが思い浮かんだなら、それはその人が心の中にいるっていうことです。
どこかに誰かがいます。
だからどんな辛いことに出会ってしまっても、落ち着いたら思い出してください。
一人じゃありませんから。神様はそんなふうに人をお造りにはなっていませんから、また周りの人と手を取り合ってください。
雨が上がった日の笑顔を、また芽吹く希望を、大切にしてください。
それを見続けることは私には叶いませんけれど、どうか次代に紡いでいってほしいと願います。
「出て行っちゃうの? やだ! もっと話聞きたいの!」
泣きべそをかくのは最年少の女の子。確かまだ五歳ぐらいでしたか。
野生の獣から集落を守って、父親が亡くなったと聞いています。
「人は出会いと別れを繰り返すものですよ。言葉を交わした人がいなくなるのは悲しいけれど、忘れなければ、その人は君の胸にいますから」
「ここにいてよ! 僕もうすぐ大人になるから、僕が守るから出て行かないで傍にいてよ!!」
この子はもう十四歳、来年成人になるのでしたね。
下卑た思いのないまっすぐな感情は存外悪くないものですね。くすぐったくて、とても眩しい。
それに応えてあげられないのはちょっと申し訳なくも思います。そう遠くない未来に消えてしまう私は、誰も受け入れるわけにはいかないのですけど。
「出会うことも、離れていくことも、理由があるんだと思ってみるのはどうですか?
運命なんて私は信じていませんし必然だとも思いませんけど、それに自分なりの意味を見つけることはできると思っています。
だって誰かと話すということは、誰かの空気を感じるってことは、自分の中にそれが入ってくるってことですよ。
たとえどんなに小さくても、どこかお互いに影響を与えてると思いたいじゃないですか。
それ以上に、共に生きる人を大切にしないといけないとも思いますけどね」
そう、例えば具体的に言うと君の隣に座る幼馴染の女の子。例えてないけれど胸の内なので許してもらいましょう。
ほんの少し、痛みを堪えてうつむいた横顔を、君は見てないでしょう?
出会いは大切で、見過ごすのはもったいない。私もそう思っているけれど。
手の届く範囲の幸せを守ることは、もっと大切なんですよ。
お伽話の勇者様なんて、いらないのです。
毎日の食事が美味しいと思える、ただ他愛もない会話が幸せだと感じられる日常は、小さなその手の届く範囲を守る力が繋がって、成り立っているんです。
「世界はとても大きい。けれど、自分の足元とそれを支えてくれる隣人がいてはじめて立っていられることを忘れないでほしいかな」
だから私は根無し草なんです。
ちらっと顔を見合わせたもうすぐ成人する二人に、聞こえない程度の声でつぶやきます。
誰とも繋がっていないのは私。いえ……違いますね。いつか私が消えたときに悲しむ人がいることが怖くて。
繋がらないようにしたのは私です。
そんな私の言葉でも、先人から伝え聞いた言い伝えと合わせてなら聞いてもらえる。
誰と繋がってもいなくても、せめて自分の生きていた痕跡だけは残したいと。
ふと気づくと日もかなり落ち、青い空は朱に染まっています。
「さて、私はもう少しここにいますけど、今日はそろそろ解散にしましょう。
帰り道で転んだりしないでね。
明日もここで待ってますから、家のことが終わって時間がある人は、気が向いたら来てください。
無理やズルをしたら駄目ですよ」
「ええー一緒に帰ろうよー」
帰る。そんな何気なく無意識で発せられただろう言葉も、私には胸にしまい込んでおく宝物です。
私の帰る場所はもうないけれど、ここを帰る場所だと言ってくれる人がいるのは幸せ。
その手は取れないけれど、心を強く支えてくれます。
「こんな夕焼けの後は、夜闇の紺と夕焼けの名残が強く混ざり合ってとてもきれいなんですよ。
だからそれを見てから戻ります。
でも君たちはそろそろ帰りなさい、親御さんに心配かけると夕ご飯が遠くなりますよ」
数舜、きゃあきゃあと悲鳴にも似た笑い声に包まれて。
「お姉ちゃんおやすみなさい、また明日」
そんないくつかのやり取りの後、やがて丘に静寂が訪れる。
だんだんと遠ざかり、夕闇に消えていく子供たちの背と笑いさざめく声を見送って。
ころんと短い草の上に寝転べば、地平から満天の星が煌く天蓋までを見ることができます。
地平の燃えるような赤も少し色を落としてくすみ、反対側から訪れる夜の色に侵食されて混ざり合いこの一瞬だけしか見られない不思議な空の色。
私にはあと何回見られるでしょう。数回? 数十回? でも百回はないでしょう、天気は気まぐれですから。
もう幾日か過ごしたら、名残惜しいけどここを立つことにしましょうか。
後ろ髪を引かれる思いはあるけれど、それが執着に変わってしまう前に。
ああ、歌を歌う約束、忘れてましたね。
出ていく前にはやっておかなくちゃ。
穏かにゆるやかに流れる時間が気持ちいいこの集落がどうかずっと続きますようにと。
初めて集落を訪れてからの、雨の日も、いがみ合った日も、陽に包まれた日も、全てを胸の中にしまい込んで、あっという間にここを立つ日がやってきました。
丘の上の守り木を訪れるのもこれが最後になってしまいました。
歌を歌い終わったら、朝のうちに馬車に乗りこまないといけません。町に向かう足がなくなりますからね。
また次の機会はありますけど数週間は先になってしまいます。
子供たちに聞かせるのを躊躇ったわけではないのですが、結局今まで歌えませんでした。
誰もいない朝の光に包まれた守り木の下に横座りして。
目を閉じて旋律を思い出します。
そう、優しい歌がいいな。
ほんのりと包まれるような幸せな暖かい歌に、祝福の気持ちをのせましょう。
花が咲き鳥が囀り緑が萌える、豊かな穣りが訪れますように。
旋律を奏でる音もなく誰に見られることもなくただ一人私の喉が吐き出す歌声に力を込めて。
色とりどりの美しく鮮やかな花が咲きますように。
蜜を求める虫と鳥たちの囀る声が絶えませんように。
野に生きる獣たちも奪い奪われ与え与えられる命の環。
冬になれば薪となり春になれば若葉が芽生え夏になれば栄養を溜め秋になれば実をつける緑の繁栄の環が途絶えませんように。
高く、低く、風に溶けて広がっていく歌声。その響きに籠った力が、届いた先で小さな力になりますように。
どうか、と願う。
祈りを叶えるような存在は居ないけれど、願うことは自由ですから。
そんな長く歌っていたわけでもないけれど、額からは汗が一筋。
心地よい感覚で、ずっと身を委ねていたい。
自分が確認する機会はないでしょうけど、きっとここは今よりは豊かな土地になる。
歌にのって広がった力はそういうものだから。
自分の力じゃなくて、ただ貰う力のあまりを伝え広げるだけなんですけど。
もしも時間が許されていたら、先人のようにもっとうまく調律できたのでしょうか。
……益体もない、墜星を砕くには十分すぎる。
それはそう遠くない未来に起こる災厄。
もっと、もっと力自体が力を伝えていくほどに強く、強く籠められたらそれでいいのです。
その先は私には用意されていないから。
次の代に伝えながら、その時までを必死に生きましょう。
誰かに、何かに出会ったことを大切にして、生きた痕を残しましょう。
思い出とかにはならなくていいから、いつか誰かに聞いた言葉になって残ればいいな。
二十歳と少ししか生きられないなんて、あんまりだと思うのです。
私だってうら若き乙女ですよ。
集落から少し離れた所に馬車が到着したのが、丘の上からはっきり見えた。
それに向かいながら、つまらないことを考えているなあと思う。
まあ、あまり美人とは言えない顔立ちですし、人を魅了するような会話もできませんし。
人の中に在れば、埋もれてしまう没個性。それが私です。
あるのはちょっと変わったこの声と、望んだわけじゃないけどいつの間にか使えてしまったこの力だけ。
私が子供たちに聞かせていたお話は、私が先人から伝え聞いたもの。
選別するかのように先人から紡がれたお話は、私の中に井戸を作った。
井戸は力に繋がっていて、汲みあげれば溢れ出す様に現出させることができるのです。
私以外にも、もしかしたら同じような人がいるのかもしれない、名前も知らない先人以外には出会ったことはないけれど。
いたらいいな、少しは寂しくない気がします。
それと同時に、申し訳なくも思います。
私がこれまでにお話を聞かせてきた子供たちの中に、私と同じような存在が現れるかもしれない。
神様が愛しただろう世界の終わりを、回避できる力を受け取ってしまう人が。
それでもお話をやめようと思えないのは、繋げなければ私で終わってしまうかもしれないから。
だからしょうがないのです。
例え災厄の日に誰にも知られることなく自分がいなくなるのだとしても。
私は歌い続けますし、伝え続けるのです。
自身の紡いだ物語とともに。
まあ、白馬の騎士様に憧れるのもやめられないのですが。
まだ二十歳にはなっていませんから、もうしばらく夢を見てもいいですよね?
「すみません、隣町までお願いします」
馬車にたどりついたので声をかけ、お金を払う。
ここを出て到着まで約一週間。のんびりペースのようだけど、急ぐわけでもない。
うつりゆく光景を楽しみながら進むのが正しい旅の方法といえるでしょう。
がたごとと、体を揺する振動と同期する車輪の音が始まる。
それに合わせて聞こえてきたのは、複数の子供の声。
「お姉ちゃーん!」
はっ、と窓の外を見ると、昨日まで守り木に集まっていた子供たちがこちらに駆け寄って来ていた。
「お歌、ちゃんと聞こえたよ!
いっぱい、いっぱい聞こえたから!
がんばらなくちゃって、力が湧いてきたから!
約束、守ってくれてありがとう!」
「いろんなことを教えてくれてありがとうございました!
その! 大切なものとかまだわからないけど、守れるようにがんばっていきますから!
絶対、絶対また来てくださいね!」
「大雑把な神様の話、もっと聞きたいんだ!
来てくれなかったら妹と一緒に追っかけて行くからな!」
まだ大きくはない体で全力で駆けて。荒い息を整えることもせず投げかけられる声、声、声。
私は手を振り返す、そこしか動かなくなったかのように。
「見送りに来てくれてありがとう!
きっと、きっとまたみんなに会いに来るから!
だから、それまで元気でいてね!
じゃないとお姉さん許さないからね!!」
声を限りに叫ぶ、少しずつ速度の乗った馬車が子供たちとの距離を遠くにしてしまうから。
届かないかもしれないけれど、届けと、ただ私の声だけに願いを込めて叫んだ。
私を乗せた馬車はごとごとと荒れた道を進む。
もう見ることはないかもしれないとか、次はないだとか、そんなことはどうでもよかった。
どう周りの環境が変わっても、自分の立ち位置が変わっても、つまるところ私は私でしかなくて。
変わったことも変わってない部分もすべて私。
だからきっと私はまたここに来ます。
花が咲き乱れ、鳥が舞い、肥えた動物と笑顔こぼれる人たちで溢れているはずの、この集落に。
そう望むのは自由だから。
それから二年と少し経った頃、世界中に流星が降り注いだ。
それはとても美しく、幾晩も夜空を彩り、目を凝らせば昼間も見えたという。
ラウレッタという名の女性が再び集落を訪う事があったのか、記録には残されていない。
魔力というよりは、分類できない純粋な力を表現したかったのですが、創作は難しいのです。