5
敦実家は小さな古いアパートの二階だ。壁は、今日の天気をそのままうつしたように黒ずんでいる。かなり年季が入っているが、あまり手入れされていない感じだ。
「そういえばあやつを家に送って行く時も、途中で、ここまででいいって帰されていたので詳しい場所までは知らなかった」
「ボロアパートだからな。ここに人間の品格とゆーものが現れてるぞ!! オレ様とは大違いだ!!」
「キノコの家は立派なのか?」
「見たら卒倒するぞ」
きらーん、とキノコの目に邪悪な光が灯った。
まことは二人を無視して階段を上る。鉄独特の金属音。ちょっと乱暴に歩くとすごい音が鳴ることに、この建物の歴史を感じる。
「置いていくなんてひどいぞおおおおおお!!!!!! さっさと行くな!! 先頭はオレ様だ!!!」
とキノコがひときわ大きな音を立てて走ってきた。後ろからはおまけみたいに吉本がついてくる。
あまり気にせずに、敦実家のチャイムを1回押した。ピンポーン、というタイプじゃなくて、ブザー音みたいな音がするタイプなので、チャイムというよりブザーと言った方が正しいか。
しばししても物音ひとつしない。
これは一番いいパターンなのでは?とにわかにまことの心が沸き立った。
念のためにもう一度ブザーを押す。
「なんだ。誰もいないのか?」
じゃあ帰るか、と吉本が言って敦実家を後ろにして歩きかけたのでまこともそれについていく。
――――と、
「ちょっとちょっと!!! 何してんの!!」
キノコがブザーを連打していた。子供か。
「いや、だって寝てて気づいてないだけなのかもしれないだろ?」
「だとしても、もしそうだとしたら、せっかく寝てる所を邪魔してまで……」
言い合ってる間に、ガチャリとドアが開く。
「うっさいわね!!!! 今何時だと思ってるの!? せっかく寝てるんだから邪魔しないでよね!!!」
ドアが開いて、部屋の住人が顔を出す前に怒鳴り声が家の中から勢いよく飛び出てきた。
まだ昼の12時前だが何か文句でもあるのであろうか……、と吉本が呟くが、本人に向かって言う度胸はないらしい。
罵声の次に出てきたのが、部屋の主だった。金髪の長い髪の毛を振り乱してこちらを睨み付けていた。殺されそうな眼力に、キノコはすっかり萎縮してしまっていてまことの後ろに隠れていた。
まことの感想は、意外に若い、というものだった。何歳くらいなんだろうか?
「あんたたち誰?」
しっかりと全員に敵意を込めた視線を送りつけた後に、ようやくお怒りが解けて理性が戻ったようだった。
「あ、私たち、貴一くんの同級生なんですが、貴一くんは家にいますか? 昨日具合悪そうだったので、気になって……」
「貴一の同級生? 初めて見たわね。貴一ならいないわよ。どっか行ったんじゃない?」
「どこに行ったか分かりますか?」
「さあね」
「……そうですか」
話がなんとなく途切れた。いないならこれ以上この家に用はない。
ありがとうございました、と言って帰ろうとしたところで、貴一の母親が後ろから声をかけた。
「あいつに関わろうなんていい度胸してるね、あんたたちも」
え? とまことたちが振り向くと、金髪女性はドアの外に出て煙草に火をつけていた。
また少し晴れ間が大きく見えてきた。女性はそれを眩しそうに目を眇めて見上げ、煙草をゆっくりと吸いはじめた。少し明るいところで見た金髪がやけにきれいに見えた。
言っている言葉の内容とは裏腹に。
「あんな化物と学校の外でまで付き合おうなんて、いい度胸してるというか、物好きというか」
「ばけ……もの?」
言われてる言葉の内容はまったく理解できなかったが、いい内容のものではないことは容易に察せる。
「ずっとあいつに心を読まれて、それでもよく平気でいられるね、って話」
「心? なんの話ですか?」
「あれ? あんたたち、知らないの? 貴一のヤツ、言ってないのかな。まぁ言ったら誰も近くに寄って来なくなるからね。さすがのあいつもやっとそれくらいは学習したってことか」
言って、大きな声で笑う。彼女の、何かを馬鹿にしたような下品な笑い方が、まことの苛立ちを更に刺激する。
「心を読むってなんですか? テレパシーですか? 大の大人が何言ってるんですか馬鹿馬鹿しい」
超能力なんて馬鹿な事を言ってるのも腹が立ったが、初めて会う人の前で自分の息子の事をここまで悪し様に言える事にも腹が立った。身体の血液が沸騰しそうなほどに沸いている。
「帰ろう、まこと」
吉本がまことの肩を叩いて腕を引く。キノコはすっかりおびえてしまっている。
「化物とか、いったい……」
「まこと!」
吉本の声に、まことは口を閉ざした。そうだ。あんな妄想癖のある金髪女の言葉に耳を貸す事もないし、何かを言うこともない。そして、もうここには来ない。
懸命に気持ちを宥めるが、煙草の煙が鼻につくたびに怒りが膨らむ。これからは喫煙者の近くに寄るたびにこの事を思い出すかもしれない、と心の端で思う。
吉本に促されて帰ろうとしていた時に、再び後ろから声がかけられる。
「どうしようもない化物よ。あの子が四歳の誕生日の時さ、ケーキに四本の蝋燭を立ててやったの。火をつけて、普通は消すでしょ? でもあいつには肺活量がなかったからどんなに頑張っても火は消せなくて、まぁでもそれは仕方のないことだとは思ったのよ。思うことにした」
耳なんて貸す必要はないと分かっていつつも、足を止めてしまった。
「でも同時にあたしは思ったわけ。ああほんとにめんどくさい。これからこういう当たり前の行事をするたびに、当たり前じゃない結果になって。こんなはずじゃなかったのに。ってすごく思ったのよ。何度も。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?
『こんなはずじゃなかったの? ぼく、めんどくさい?』
って。もちろんあたしは口になんて出してなかったわよ。でもそれがすごく印象的だったの。なんでそんなことが分かったんだろう?って。でもその後すぐに分かったわ。もうサイアクだった。心を全部読まれてる事に気づいた時には全部が遅かった。誰彼構わず、あたしの心の声とか他の人の心の声とかガンガンしゃべるの。通訳気取りでもしてるみたいに見えたわ。みんな、化物を見る目で見始めた。あたしの事もよ? どんなにあたしはあんな化け物とは違うって言っても聞いてもらえなかった。あたしの生活はすべてあいつにぶっ壊されたわ」
一気にしゃべると、手にしてた煙草はすっかり小さくなってしまっていた。新しい煙草に火をつけて、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「早死にするって医者から聞いてたからさ、早く死んでくれ、ってずっと思ってた。ほんとにさっさと死んでくれればいいのに」
その台詞を耳にした瞬間、怒るとかそういうのよりももっと早く、まことの右手が閃いた。次の瞬間、金髪女の左頬に激突するはずだった右手は、吉本によって阻まれた。右手首を掴まれて、右の手のひらは行き場を失って、仕方ないからその場で硬く拳を握った。やめとけ、と小声で言われた。涙が出そうだった。奥歯をきつく噛みしめる。
「あんたたちもすぐに分かるわよ」
少し驚いた顔をしていた金髪女は、そう言って、また下品な高笑いをしていた。
☆ ☆
とりあえず動悸時の頓服の薬を飲んだ。身一つででてきたとはいえ、簡単な薬はポケットに入れてあるのだ。それから一呼吸置いて問いかける。
「んで、センパイはいったいどうしちゃったの?」
伊吹はベンチの隣に腰掛けて、持ってた救急セットを丁寧に仕舞ってポーチのジッパーをゆっくりと閉める。息吹の行動は何もかもがスローリーだ。このペースが貴一はとても好きだった。
やっぱいいよなぁ、と思いながら息吹の言葉を待つ。
公園では、小さな子供たちがわいわいと遊んでいる。その向こうで、ママさんたちがおしゃべりに興じていた。雲の合間から覗いている太陽の光が、そんな子供たちを包み込むように照らしていた。
「……センパイ、いなくなっちゃったの」
「へ? いないって?」
「家に……帰ってないって昨日お母さんから電話が来て」
「あらま」
それきりまた俯いて黙り込んでしまった。
「じゃあそのセンパイを探してるんだ」
一度言葉を区切って、ゆっくりと息を吸った。
「アテっつーか、いそうな場所とか分かるの?」
ふるふると顔を横に振る。
「うーん、それじゃあなぁ、手伝いようもないなぁ。どうしたもんか」
ふいに、ぐすっと鼻をすする音が聞こえてきた。
(え?)
まさかこのパターンは……、と思い、相手に気取られないように彼女の顔を覗き見る。
なんと、やはり涙を流していた。
おいおいおい、困った困った困った。恐らく今まで生きてきた中で困った事ランキングをごぼう抜きにして入賞した気分だった。泣いてる少女に対する免疫もなければ、対処法も知らない。
「……ま……まあ俺も手伝うからさ、きっと見つかるって」
とうとう声に出して泣かれてしまった。
――――と、計ったようなタイミングで救世主が現れた。
「何女の子泣かしてるんだコラ」
救世主に責められた。ふと見たら、救世主はキノコの頭をしていた。おかしい救世主とは困った時にさっと現れてなんかササっと解決して礼はいらないとばかりに去っていく人種じゃなかったのか。こいつは去らなさそうだしお礼に関してはなんかとんでもないものを要求されそうな予感がする。
などということを一瞬で考えた。
見れば、後ろには吉本とまこともいた。ここに自分がいるのをなぜ知ってるのか?という謎もあるが、もうひとつ。
「てかおまえら学校は?」