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 今日は久々に学校に登校できた日だったが、結局2時間目までしか出席できずにあとは放課後まで保健室で寝ていた。ただの立ち眩みだと思ったら熱まであったので保健室から出してもらえなかったのだ。


 暗く影を落とした部屋の中で、昨日の診察の時に、とにかく栄養状態がかなり悪いから何か食べるようにと言われていた事を思い出す。


(具合悪くて食べられないとゆーのに)


 食べたら吐くのが分かっててそれでもなおかつ人は食べようと思えるのか?という重要な命題が与えられたようだった。無理である、との回答を弾きだし、溜息をつく。息は、薄い闇に吸い込まれて消えていった。食べて吐いたら、体力が落ちるではないか。なけなしの体力をこれ以上削ってまで食事を摂取したいと思わない。体調がいい時は少しは食べているのだから。


 真っ暗な部屋にいると気が滅入るから電気くらい点けなさい、と太一郎に言われているが、ここで電気を点けたらもっと気が滅入るのだ。なぜなら明るみに出ないで欲しい場所まで問答無用で照らし出されてしまうから。万年床になってる色の変わってしまった薄っぺらい布団とか、あまり片付いていない台所とか。見るからに衛生的にいいものではなく、それを見るこちらの精神衛生的にもよろしくないのでいつも一人の時は電気は点けていない。

 発熱のために苦しい呼吸を繰り返した。学校で測ったら37度8分だった。平熱は35度だいなので38度近くもあったらかなりキツいものがある。

 身体の芯から凍えるような寒さに、布団を引っ張ってきて身体に巻き付けた。防寒具としてはあまりに頼りない薄さだったが、ないよりはマシだろうとの考えだ。ひゅーひゅーと笛が鳴るような喘鳴。発作的な咳がでてくる。喘息は、薬を使うことによって症状がでないようにするのが原則なのだと医者はいつも言っているのだが、現実はそううまくはいかない。ステロイドの飲み薬も長期間続けると感染症を起こす危険性があるのであまり処方してもらえない。


 結局夕飯は食べずに夕食後の薬を飲んで横になって寝たり覚めたりを何度も繰り返しているうちに夜になったので寝る前の薬を飲んだ。すでに食事よりも薬の摂取量の方が多い気がする。


 そして浅い眠りについていると、ガタリ、とドアの開く音がして、貴一はびくりと肩を振わせる。ドアの向こうから姿を見せたのは、金髪に染めた髪の毛を乱れさせて高そうなストールを纏った女性だった。貴一の母親の、数日ぶりの帰宅だ。

 帰ってくるなり沓脱ぎで足をもつれさせて、転倒しかけたので慌てて貴一は抱え起こそうと玄関に歩み寄り、腕を伸ばす。

 近くに寄った途端に、母親の身体の至る所からアルコールの匂いがして軽く眉をひそめる。


 貴一の能力を一番恐れている母親は、こんな泥酔状態でなければ家に入る勇気がでないようなのだ。だからといって貴一を置いてどこか遠くに行くのも呪われそうで怖いらしい。別に貴一の能力は人を呪って害を与えるものではないのだが、それでも母親は怖いらしい。


「ちょっと、母さん。歩いてよ。布団すぐそこだから」


 慢性栄養失調状態の貴一と、食生活は偏っていつつも店で客と一緒に飲み食いしているホステスとでは体格的にかなり差が出てしまっている。ただでさえ具合が悪いのに、自分よりもウエイトの重い酔っ払いを担いで歩くなんて真似はできない。腕を静かに引っ張って促すのが精一杯だ。男としては情けない限りだが……。


 なんとか布団の上に転がってくれた母親を前にして、貴一は何度も咳き込んだ。ゆっくりと立ち上がって、何日かぶりに電気をつけると、肌の露出が多く扇情的な服を身に纏った母親が薄い布団にだらしなく寝そべっているのが黄色い光の中に浮かび上がった。厚化粧は少しとれかけていてあまり見てて楽しいものではない。


「みず」


 子供のように腕を虚空に彷徨わせるように伸ばして呟く母親に、分かった、と答えてキッチンに向かった。狭いアパートなので、キッチンまで何歩もしないところがせめてもの救いだ。少しの移動が身体に堪える。

 息を切らせて水を汲んで母親の伸ばした手に持たせてやると、起き上がってゴクゴクと飲み干した。水商売をやっている母親が、仕事用の厚いメイクをしたまま寝ようとするので、「顔を洗いなよ」と揺り起こす。なんでこんなことを自分が言わなければいけないんだろう、と思いもするが、このまま寝せてしまうと明日の朝になってからびっくりしてヒステリーを起こしてしまう可能性がある。この情緒不安定な母親は、一度それで過呼吸を起こしたりして大変だったこともある。その轍は踏みたくない。

 キッチンと部屋を再度往復して、水をまた飲ませる。


 腕をひき、いやいやをする母親を立ち上がらせてキッチンへと向かわせる。蛇口を勢いよく捻ると、顔を洗うように促す。フラフラと動く母親の肩を支えるのはハッキリ言って重労働だ。


(フラフラしてるのはこっちだっての)


 洗い終えてすっぴんになった母親の顔からタオルで水分を拭き取る。また布団に移動させて寝かせると、貴一もぐったりと足を投げ出した。ひゅーひゅーという笛のような音から、ぜいぜいという重たい喘鳴に変わっている。浅い呼吸で痰の絡んだ咳を何度もした。やばい苦しいどうしよう、という思考が頭を駆け巡る。心臓が狂ったように音を立てて動いているのも苦しいの一因だ。このまま時間が経ったらある時突然止まってしまうんじゃないかと思ってしまう。


 ぴぴっと電子音が鳴ったので体温計を取り出す。最初に脇に挟んだ時には銀色の部分が、いっそ痛いほどに冷たかったという所で嫌な予感はしていた。


 39度ジャスト。


 学校で測った時よりも上がっていた。

 左胸をあやすように手を当てて立ち上がり、もう身体に染みこんでしまっている「なるべくゆっくりと」の動作で冷蔵庫から坐薬を取り出した。いっそここで挿してしまいたいという衝動に抗いながらトイレに向かった。咳が出るたびに動作が中断されるのがうざったい。

 トイレから出た所で再びぐったりと座り込んだ。具合の悪い時に身体が縦になっていると頭と地面との高度差を感じて辛いのだが、横になって気管支を締め付けるのはそれこそ自殺行為だった。


「きーち、服」

「……へいへい。あと5分ほど待ってください」

「ふく!」


 酔っ払いの命令には逆らえない。家に帰ってくる日があらかじめ分かっていたら、きちんと準備をしていたのに、と内心で愚痴りつつめまいをこらえて立ち上がる。


(熱はもうすっかり下がった。坐薬を挿した瞬間に下がったに違いない)


 心の中でそう念じながら母親の脱衣を手伝う。一応腕が上にあがっているのは、脱がせやすいようにしているつもりなのだろうかこの酔っ払いは。お茶目で許されるのは、体調がよくて体力のある時だけだ。

 アルコールと香水の匂いに顔を背けたくなるのを我慢し、身体をひっくり返してワンピースの背中のファスナーを下ろした。次に腕だ、と思ってうんざりする。もうこの動作だけでも息が上がって死にそうだった。なんとかして腕を袖から引き抜いた所で完全に力が尽き果てた。


(無理がありすぎる……)


 当然だがどう考えても熱は下がっていない。彼女はもうほとんど寝てしまっているので、協力を仰げない。身体に力が入らないのでしばらく肩で息をして横たわっていたが、激しく咳き込んだので横になっていられなくなった。スイッチが入ってしまったかのように咳の発作が治まらない。サイアクだった。苦しくて息を継ぐこともできないので、痙攣を起こしてるかのような咳になっている。


 ☆ ☆


 今日はそもそも学校に行った時点からあまりツキが向いてなかった。小テストがあったのだ。


 いや、小テスト自体は本来なら恐るるに足りなかった。ラッキーな事に、タダで家庭教師を引き受けてくれる人物がいる上に、彼は医学部を首席で卒業するほどの学力の持ち主だったから、学校にはあまり行ってなくても勉強自体は追いついているのだ。定期考査で常にトップを維持できているのも彼のおかげだった。

 しかし不運なことにその日の小テストは社会で、しかもたまたま家でやっていなかった場所が出題されていたのだ。貴一は記憶力は特に悪い訳ではないが、暗記する作業は好きではない典型的な理系なのだ。

 もちろんできなかった事を誰も、先生さえも決して責めたりはしなかった。当たり前だ。学校に満足に行けてない生徒が、定期考査でトップの成績を維持し続けてる事だけでも充分に賞賛に値されるべきことだったから。


 ただ一つだけ。

 視線を感じてちらりと斜め前を見ると、こちらを向いてる男子中学生がいた。黒縁の眼鏡をかけた、キノコ頭の男だ。あのキノコの形はわざとなのだろうかと思うがあまり考えないようにして、目を逸らす。


(うざい……)


 目が合った瞬間に、彼は勝ち誇った表情でこちらを見ていた。社会科の先生はトップ5の名前だけを読み上げていたが、彼は3位だった。ちなみに、採点されて教室全体がどよめいている中で隣でそよ風ひとつ吹いてないようなたたずまいの村山伊吹むらやまいぶきは2位だった。


 終業のチャイムが鳴ると、吉本春彦よしもとはるひこ若葉わかばまことが二人揃ってこちらにやってきた。本当に仲の良い幼なじみだ。実は許嫁なのではないだろうかとこっそり思うほどだ。


「珍しいこともあるものだな。貴一がランク外だとは驚きだ。登校してきたこととどちらを驚くべきか非常に悩みどころであるぞ」

「好きな方に驚いといて」

「いいのいいの。参加することに意義があるんだから!」


 学級委員のような台詞を大まじめに言うのがまことクオリティ、などと考えていると、キノコ頭がこちらにやってきた。


「ふふふ。どうだ。さすがのキサマもオレには敵わないようだな!」

「……馬鹿がきた…」

「なんだとぉキサマ! トップ5に名前すら挙がらなかったキサマに馬鹿とか言われる筋合いはない!」


 テストのたびに律儀に構ってくる彼は、定期考査では貴一の上にいったことは一度もない。たかが小テストで1回勝ったからといってなんなんだろう。

 貴一はひたすら無視を決め込んで、帰ってきた小テストの用紙を隅々まで眺めていた。


「こら、何を背中を向けておる! こっちを向いてオレ様に跪け!」

「なんで跪かなければいけないのであろうか」


 春彦が、キノコの言ってる事を真に受けて悩んでいる。この短時間で彼はどれだけの悩みを抱えたのだろうかと思うと少しだけ可愛そうになるが、内容は馬鹿馬鹿しいので放っておく。そして全然関係ない人物に声をかけた。


「ねえ村山さん。この問題さ、どうして俺のこれが間違ってるの?」


 いつも通りの姿勢で机の上で両手を絡めている少女がびくりと大げさに肩を振わせて、恐る恐るといった表情でこちらに顔を向けた。彼女から見たら、貴一の背後にはキノコ頭で黒縁眼鏡の男がいて、その隣に春彦とまことが肩を並べている。三人ともどちらかというとかしましいグループに属する人なので、臆しているのだろう。獣の群れに襲われた小動物の目をしている。たっぷり一分ほど無言が続いた。貴一以外の三人は、明らかに居心地の悪そうな顔をしている。


「分かる?」


 再度聞くと、伊吹は震える指で文章の一部を指さした。「徳川吉宗の活躍した時代または年代とやったことを書きなさい」という問題だ。その答えの一部。


『九時型御定書の制定、目安箱などの設置などの享保の改革』


 一瞬の間を置いて、四人は同時に馬鹿笑いした。正しくは公事方御定書。

「このオレでも間違わないような所で間違っておったのか……」

「……オレ様のライバルともあろーものがあああ!!」

 黒縁眼鏡のキノコ頭が答案用紙を破ろうとしたので慌てて止めた。

「破んなよ。そうか。ここだけが何度見ても間違いが分からなかったんだけど……。なんでこんな漢字書いたんだろう……」

 伊吹はまたいつもの姿勢に戻ったが、耳まで真っ赤になっていた。

「もっと精進するがいい! 馬鹿めが!」

「キノコさー、」

「キノコ言うな!!! オレの名前は西陣織虎之助にしじんおりとらのすけだ!!」

「覚えづらいんだよお前の名前。学校あんま来ないからどうでもいいヤツの名前なんていちいち覚えてらんないし、その上にその聞くからに覚えづらそうな名前。キノコで充分じゃん。伝わるじゃん」

「生涯のライバルに対してどうでもいいとは聞き捨てならん! そこへならえ!」

「伝わっちゃう現実がきっと直視できないのよねぇ。キノコさんは」

「そのけったいな髪型を直せば済む話であるということに気づかないのだろうか。一応頭はいいはずなんだが」

「成績優秀な人が本当の意味で優秀であるとは限らない例よね」

「そここら! 何を勝手な話で盛り上がってるんだ!」


 そこに至って、貴一はこめかみを押さえた。何かを言いたかった気がしたが、なんだかもう面倒になってきた。

 隣の、身じろぎ一つしない少女に意識を向ける。ほんの数十センチ先の席ではこんなにうるさくしているのに、一ミリも動いていないように見える。息をしていないのではないかと思ってしまうほどだ。


「カメコ、綺麗になったね。雨であんなに汚れてたのに」


 こくりと首を縦に動かして、拭いたから、とはにかんだ笑顔で言ってきた。

 この間の誕生日会はどうだったかと問いかけたところで自称西陣織虎之助ことキノコが貴一に怒鳴りつけてきた。


「だから聞いてるのか!? オレ様に負けを認めるのか!?」

「悪い。全然話聞いてなかったから話の流れが分からない」

「キサマあああ!!!」

「だいたいさぁ、小テストで1回俺よりも上位になったくらいでどうしてそんなに威張れんの? 悔しかったら今度の期末試験で俺よりも高得点とってみろって話だよな」


 喋りすぎて少し咳がでた。そしてキノコは傷ついたようだった。キサマああああ覚えていろおおおおお、という悪役が去り際に言う決まり文句を言って廊下に飛び出していった。


「あいつは高血圧なんじゃないだろうか。俺にも分けて欲しいくらいだ」

「そのうち脳の血管切れるかもね」

「一つ気がかりな事が……。最後の貴一の台詞で焚き付けられたキノコは、今度のテストでいい点数とっても悪い点数とってももっとうるさい事になる予感がするのだが、気のせいであればよいのだが」


 また悩みが増えたらしい。

「もうどうでもいいよ」


 休み時間を謳歌している生徒達の頭の向こうで、雲ひとつなく澄み渡った青い空が広がっているのが見える。


 そしてその次の国語の授業で当てられて立ち上がった拍子に立ち眩みを起こして倒れてしまい、いつもの如くまことに保健室に連行されていった。

「ちょっと立ち眩んだだけだから大丈夫なのに」

 という台詞は、顔色の悪さを理由に却下されてしまった。


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