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とっておきの恋

作者: 遊木愉生






土曜日の夜、イタリアンを提供する賑わう店内で、目の前に座る矢野遥菜は嬉しそうに左手の薬指にはまる指輪を見せて何か言ってほしそうにしていたが、期待とは逆で、何も聞いてこないので、痺れを切らして自ら報告せざるを得なかった。


「私、結婚する!」


「あ、そうなの。おめでとう」


檜山ゆかりはそう言って目の前にあるビールを飲む。


「遥菜が結婚か。おめでとう」と言ったのは隣に座る榎田平吉。


「なに、2人とも!愛想なさすぎ。まぁその反応は予想してたけどさ」


遥菜は膨れっ面で2人を睨んだ。


「いや、だってさ。おめでとう、じゃん。それ以外ないでしょうに」


ゆかりがそう言うと平吉も頷く。


「確かにそうだけどさ、つまんないの。普通さ、いつ?どんな人?新しい名字は?仕事は何してるの?とかさ、聞くでしょ。まったく。あんたたちは本当に変わってるよ」


「遥菜はそういう私たちの事が好きなんでしょ?」


「腐れ縁よ」とまんざらでもなさそうに小さく微笑む。


─変わってる、か。


よくそう言われるのだが、ゆかりには何がどう変わっているのかが分からない。

そもそも遥菜の相手の事など全くどうでもいい。

それを聞き出す人は、見知らぬ人間の正体を知ってどうするつもりなのかがさっぱり分からない。

優劣をつけて楽しむのだろうか。


─そうだとすれば、そっちの方がよっぽど変わってる。


「招待状送るからね。出席してくれるでしょ?」


「勿論だ」と平吉。

「勿論」とゆかりも答える。


3人は高校からの友人である。

青春を共に過ごした。

大学で離れ離れになったものの、喧嘩する事もお互いを不信に思う事もなくのんびりとした関係が30歳になった今でも続いている。


「ねぇ。2人はどうなの?結婚しないの?」


「結婚は相手がいて成立するものでしょ。私には相手が不足してる」


「右に同じ」とフライしたパスタをぽりぽりと食べる平吉が言う。


「そんなの努力すれば見つかるよ。2人とも見た目は劣ってないんだから」


「見た目はってどういう意味だよ」とパスタの欠片を遥菜に投げた。


「ね、ゆかり。結婚する気あるの?」


「うーん。あるよ。いつかはね。でも分からない」


「会社は?通勤電車の中に素敵な人がいたりしないの?」


「いないね。会社には出来の悪い上司と愚痴を溢してばっかの奴しかいない。通勤電車だってオヤジか学生しか乗ってないし。そもそも、周りには若い子が沢山いるのに、アラサーの私なんて相手にしないよ」


ゆかりはテーブルに置かれたばかりのピザを頬張った。


─うん。美味い。


「今はこのピザに恋をしてるの」


「じゃあ、平吉は?」とゆかりを無視する。


「ん?俺はね。どうでもいいよ。流れに任せる。うん、美味いな」


平吉もピザを食べる。


「ああ、もう。2人とも本当に暢気ね。まだ30歳だからって言ってたら後悔するよ」


「遥菜も30歳じゃん。もっともっと歳上の人に言われると信憑性あるけどね」


「手っ取り早く2人が付き合えば?」と遥菜。


ゆかりと平吉はお互いを見た。

その視線が柔らかくぶつかり、やがてそれは輝きを纏いながら熱く絡みあい──などと色恋に繋がるわけがない。


ゆかりと平吉はお互いを見て笑い声をあげた。


「何言いだすのよ、遥菜!おかしくなったの!」


「変わっているのはお前だぜ!わはは!」


「ちょ、ちょっと!そんなに笑わなくてもいいじゃない」と何故か遥菜が戸惑う。


「嫌だよ!こんなに口の周りにチーズ付けたやつなんて。ほら、拭きなよ。汚いんだから」


ゆかりは紙ナプキンを渡してやると平吉はそれを受け取って適当に口を拭いた。


「だって、ほら!良い感じじゃない!」と遥菜が2人を交互に指差す。


「あのね、昔からこうだったじゃない。今更こんなのどうってことないよ。これ以上の関係なんて考えるだけで虫酸が走るってもんよ。ねぇ?平吉もそうでしょう?」


ゆかりが平吉の頬を軽く突っついた。


「あはは。そうだよ。考えたくもない。ゆかりは優しいけれど、それ以上はないよね」


「おい。その言葉、平吉から聞くと腹が立つ」


ゆかりは突っつくのをやめて頬をつねると、平吉は何だか嬉しそうにイタタタと顔を歪める。


─そんな事を言うのは百万年早いわよ。


仕上げにぼさぼさの髪をもっとぼさぼさにしている2人を遥菜は呆れた様子で見ていた。





遥菜の終電が迫っていたので、店を出て彼女はすぐに帰って行った。


開放的な夏が過ぎ去った、暑さもない夜のこの空気が1年で一番好きだ。

心地よい風が首筋や腕を撫で、冬では考えられない程の薄い生地の服や髪を靡かせる。

時折吹く強い風に心が踊る。


何かが始まりそうな、そんな予感。


「じゃ、私も帰るわ」


そう言って振り返ると目があったのに、直ぐ視線を反らして平吉はタクシーを拾った。


「送ってくよ」


「走れば終電間に合いそうだし大丈夫」


「走って間に合わなかったらどうするのさ。一緒に乗ってきなよ。タクシー代は気にしなくていいから」


それは美味しい話だ。

それに酒が入るとどうしても眠くなってしまうゆかりは同乗者がいてくれて少し安心する。


タクシーに揺られていると、案の定眠ってしまったようで、気が付いたらベッドの上におり、布団までかけられていた。


時計を確認すれば、午前3時をまわったところだ。


どうやってここまで辿り着いたのだろうと考えるより先にベッド横にある炬燵机に目が行く。


『後から何だかんだ言われるのが迷惑だからメモを残すね。案の定お前がタクシーで眠ったから、俺がここまで運んだ。鍵を出すために鞄をいじったけど怒る権利はお前にはないぞ。いくらゆかりだからと云っても女性ひとりの部屋を開けっ放しにするわけにはいかないから、鍵はかけて俺が預かってる。ポストに入れるわけにいかないからね。じゃ、起きたら連絡して。鍵返すから。平吉』


「しまったぁ!」と片手に顔を埋める。


「まったく、もう」と携帯電話を取り出して平吉を呼び出そうとして手を止めた。


今は午前3時。

いくらなんでも非常識だ。

それになんだか悔しい。

平吉の言う通りに動くのが悔しい。


ゆかりは携帯電話をベッドに投げ、さっきのメモをゴミ箱へ放り入れた。


「ナイス!」


いつもはこんなに上手く入らない。

酔っ払った方が感覚が研ぎ澄まされるのだろうか。



─お酒飲めば、苦手な恋愛も上手くいくのかな。





目が覚めるとカーテンの隙間から光が射していた。

ゴミを放り入れた直後に眠ってしまったらしく、ベッドと炬燵机の間で突っ伏すように眠っていた。


ベッドの上にある時計で正確な時間を確認しようと上半身を起こして驚いた。

心臓は飛び出すような事はないのだが、それが現実に起こるのではないかと思う程に驚いた。


つい「うわぁ!」と声を上げてしまう。


胡座をかいた平吉は読んでいた漫画から視線をゆかりに移して「お、は、よ。お寝坊さん。もうお昼だよ」とニヤリと笑った。


「ちょ、ちょっと!平吉、何で此処にいるのよ!」


ゆかりは飛び起きて平吉に詰め寄った。


─何で入って来れんのよ!


「メモ読んだんでしょ?」とゴミ箱を指差す。


─嗚呼。そうだった。そうだよ。忘れてた。


「ほら、鍵。机に置いてあるよ」


「うう。ありがとう」とぼそりと言う。


「ええ?聞こえませんよぅ?」


こちらに耳を向け手を当てる姿に腹が立ったので大きく息を吸い込んだ。


「おいおい、何するつもり?耳元で大声は反則だぞ」


平吉はベッドから下りると上着を着た。


「お腹空いた。何か食べに行こうよ」


「なに主導権握ってんのよ」とゆかりも立ち上がる。


「いいじゃない。ちょうど昼時だしさ。奢るよ」


「奢る?怪しいわね。どうせなら鍵を預かっていたんだからその貸しを昼食で返せ、の方がしっくりくるけど」


「その貸しはいつか返してもらうよ。その時まで大切にとっておく事にしたんだ」


「その時までってどの時」


「その時にならないと分からない。さぁ早く仕度して。髪はボサボサだし、化粧も──」


「うるさいっ」


「さぁさぁ」と平吉が軽く手を叩く。


「だから何であんたに指図されなきゃならないのよ。私、用意しなきゃいけないから今すぐなんて無理だよ」


「待てるよ。だから、さっさと準備をして」


平吉が再びベッドに腰掛けたので、仕方なく出かける用意をした。

シャワーを浴びて軽く化粧をするのに30分ほどかかったが、平吉はずっと同じ場所で漫画を読んでいた。




昼食は、昨晩3人で食事をした店の近くにある定食屋に入った。


ゆかりは親子丼、平吉はゆかりの反対を押しきってカレーうどんを頼んだ。

品物が来るのを待っていると「仕事楽しい?」と唐突に聞かれた。


「楽しくはないよ。やりたい事じゃないし。かといってやりたい事なんてないから派遣やってるって感じかな。スキルなんてないし、この年じゃ転職も難しいでしょ。平吉はどうなの?」


「そうだな。俺は楽しいよ。ウェブデザインはやりたい事だし。失敗したりするけどやり甲斐あるから。給料もそこそこ貰えるしね。ゆかりはこのまま今の所でやっていくの?」


「そうだね。さっきも言ったけど、転職は難しいよ。昨日の会話の続きになるけど、結婚みたいに大きな転機がない限り辞められないよ。生活あるし」


とは言ってもこの先ずっと派遣社員でいる事が不安であることに変わりはない。

いつ契約を切られるか分からない恐ろしさが常にひっそりと背後について歩く。

いくら時給が良いからと言っても独り暮らしをしていれば金銭での問題は出てくる。

正社員で働いている方が安定しているし、いつ契約を切られるかと戦々恐々とする事もない。


そんな現実的な事を考えていると注文した物が運ばれてきたので2人は食事を始めた。


「遥菜みたいに結婚しないのか?」


「だから、相手がいないのにどうやって結婚するのよ。これ昨日も話したよね」


「そうじゃなくて、結婚する気だよ。相手がいればしたい?」


それは今までも考えなかったことはない。

付き合えば自然と結婚願望が芽生えてくるものなのだろうか。

好きではない相手でも?

告白されても好きじゃなかったら断ってきた結果がこれだ。

後悔はしていない。

好きでもない人間と恋人になるのは勘弁してほしい。

ありえない。

だから結婚なんて真剣に考えた事がない。


「そう、だね。したいね。結婚」


そう言ってみると何だか本当にしたくなってきた。

そういう所はとても単純なのだ。


「じゃあ自分から探さないと。ゆかり可愛いんだしさ、すぐに見つかるんじゃない?」


「だから、何で平吉に言われなきゃならないのよ。服にカレー付けたあんたに」


平吉は「うはぁ」と言ってシャツに付いたカレーをおしぼりで拭いた。


「だから言ったじゃない。カレーうどんは止めときなって。こうなること分かってんだから」


悲しそうに口角を下げる平吉。


「平吉も見つけなさいよ。その染みを抜いてくれるような素敵な女性をさ」


「クリーニング屋のおばさんかな」


「そう。それは素敵だね」


「まずはお互い近くの人物に目を向ける事が必要なんだよ。会社の同僚とか近所のスーパーとか駅やバス停。こうやって考えると色々ありそうなのにね」


先程のカレーの染みをけろりと忘れた平吉は食事を再開した。


ゆかりは周辺に居る男性達を思い浮かべた。


そう考えると居なくはないがハッとした。


─だから、何で平吉の言葉に乗せられてるのよ。


店を出てから平吉が何処か行こうかと言ったが、冷蔵庫の中に何も入っていないのでそれを断り、スーパーに寄って適当に食材を購入してから帰宅した。






翌朝、出勤途中の車内で試しに辺りを見回してみたが好みの男性はいない。

だからと言って車両を変える気はないのでいつも通り本を読むことにした。

会社に向かって歩いている時もなるべく周囲を見てみたが、近所に専門学校があるため学生の姿ばかりが目につく。

きっと自分は恋愛体質ではないのだろうな、と思う。

好みの男性を目にしても、それ以上の関係を望むことは滅多にない。

だからと言って、好きな人ができないわけではない。

冷静に、慎重に考え行動してしまう。


何事もなく出社するといつものように業務が開始され、つまらない日常が始まった。


─やっぱ無理だ。


そう思うと頭の中は結婚の事よりも今日の昼食は何を食べようかという事で満たされる。


昼前に上司に頼まれた書類の束を経理部に届けようとエレベーターを待っていたら、背後から声をかけられた。


「大変そうですね。半分持ちましょうか?」


愛嬌のある顔に笑みを浮かべた秦野京汰が立っていた。


「え?あ、これ?大丈夫。これくらい何ともないよ」


エレベーターの扉が開くと秦野京汰は扉が閉まらないようにとボタンを押し続け、ゆかりが入ったのを確認してから自分も箱に入った。


「えっと、何階ですか?」


「4階で」と言うと秦野京汰は「一緒だ」と言ってボタンを押した。


この秦野京汰の当たり前のような行動がとれない社員がたまにいる。

秦野京汰は入社4年目で27歳。

年は若いが彼は周囲からの信頼があつい。

言葉遣いや、一般常識はもちろん、周囲への心遣いも教えられることが多い。


「あ、そうだ。檜山さん」と言って秦野京汰がこちらを振り向く。


「ん?」


「僕、昨日檜山さんを見掛けました」


「え?」


「お昼食べてましたよね?」


思い出す。


─あ、平吉と居た時か。


「あ、あの時ね。食べてたよ。何だ秦野くんいたんだ。声かけてくれれば良かったのに」と言うと秦野京汰は何だか複雑な表情になった。


「いや、そんな事できませんよ」


「なんで?いいじゃない。知らない仲じゃないんだしさ」


「だって、一緒に居たのは─彼氏─でしょ?話しかけるなんて僕には─そんな──」と頬が赤くなり言葉を詰まらせて俯いた。


その時エレベーターが4階に到着した。

秦野京汰は俯いたまま「す、すみません。なんか変な事言って──失礼します」と言って足早に去って行った。


─な、なに?何なの今のは。


そろりとエレベーターから降りて左右を見た。

そこには誰もいなかった。


書類を届けた帰りは階段を使う事にしている。

社員は普段エレベーターを使うので、階段を利用するのはゆかりぐらいだ。

時々サボり場としても役立つ。

その最中、先程のエレベーターでの出来事を思い返して少しどきどきする。

秦野京汰の見たことのない動揺の仕方に、恥ずかしそうな態度。

あの言葉の詰まり方に胸がざわつく。

自意識過剰か?

思い過ごしか?

思わせ振りな態度をしてからかっているのだろうか?

いずれにしろ、


─たまにはこういう経験も悪くないよね。


席に戻った時にはお昼になっていたので、財布を手にして近所の喫茶店へと向かった。

地下にある昭和を感じる喫茶店は昼間でも人が少ないので、ゆかりの大のお気に入りだ。

マスター拘りのコーヒーの味はよく分からないが、フレンチトーストがとても美味しい。

しかもマスターがとても男前なのである。

肌は白くすらりと背が高い。

オールバックの黒髪に細長い指。

黒いエプロンがとても良く似合っている。

そのマスター、関場紳次が目当てで来店することがほとんどだ。


ゆかりはカウンター席に座ると、ミックスサンドイッチとコーヒーを頼んで本を開いた。

店には自分とマスターしかいないので、オーダーしたものはすぐに来るだろう。


3頁ほど読み進めた所で食事が運ばれてきた。


「おや、檜山さん。あなたこちらの作家がお好きなのですか?」


と関場が本を見る。


「えぇ。好きです。知人に進められて読み始めたのがきっかけでどんどん嵌まってしまいました」


「私もその作家が好きなのですよ」と嬉しそうに目尻を垂らして微笑む姿に心が弾む。

他にお客がいないのでゆかりとマスターは向かい合って読書談義に花を咲かせた。

しかし、マスターの知識はゆかりの範疇を優に越え、早々に聞く側に回るしかなかった。


「本当にマスターは本がお好きなのですね。私なんか電車の中でしか読まないですよ。読むのも遅いし」


「本への触れ合い方は人それぞれですよ。おや、もうすぐ昼休みが終わるのではないですか?」


時計を見ればあと5分で昼休みが終わる時間だった。

急いで会計を済ませると、お礼を言って忙しなく店を飛び出した。


─今日は一段と話しちゃった。


と浮かれ気分のまま席に戻ると、2つ年下の佐藤梓が顔を寄せてきた。


「どうしたんです?何か良いことでもあったんですか?」


「別に何もないよ」


「そうなんだ。ねぇ、今日って仕事終わりに時間あります?」


「うん。あるよ」


「あぁ!良かった!檜山さん今、彼氏いないですよね?」


─今どころかずっと


「居ない」


「じゃ、決まり!コンパがあるんです。予定してた友達に彼氏ができちゃって急にキャンセルされちゃったんで来てほしいんです。明日は休日だから仕事の事は気にしなくていいでしょ?」


─あはは。人数合わせね。おそらくこの子たちの年齢だと私なんか浮いちゃうね。


渋っていると「お願いします」と手を握ってきた。


「女の子が少ない方がいいんじゃない?ライバル減るし。そもそも私なんてライバルにもならないか」


自分で「女の子」と言って嫌になった。


「そんな事ないです!実は店を人数分予約したんですが、キャンセル料金とられちゃうからって」


─ほら、やっぱり人数合わせじゃないの。


楽しくもない場所にわざわざお金を払ってまで行きたくはないと口に出かけた時、平吉の含み笑いが頭に浮かび、馬鹿にされているように感じて腹が立った。


そして「分かった。行く」と返事をした。


「じゃあ仕事終わりに一緒に店まで行きましょう!檜山さんと食事ができるなんて楽しみだな」と佐藤梓は心にも無いことを言った。


急なコンパだ。

服装は勿論、心の準備が出来ていないので根本である出会いは諦めて食事を楽しむことを決め、その日の仕事を終わらせた。


「じゃ、檜山さん!行きましょう!ここからはライバルですからね!」と無駄にエンジンをふかす佐藤梓。


「いいよ、私は。おとなしく食事してるから気にしないで」


「えぇ」と鼻にかかった声をだす。

彼女の中ではもう戦いは始まっているようだ。

若いって素晴らしい。


エントランスを出ると同時に秦野京汰が外からやって来た。


「あ、秦野くん。お疲れ様」と佐藤梓。


秦野京汰は「お疲れ様です。もうそんな時間ですか」と腕時計を見た。


「私たち派遣は5時半以降働くとあまり良い顔されないの。ね、檜山さん?」と話を振られたので何度か頷く。


「そんな事ないでしょ。皆さんの業務で僕たち営業はこうやって外回りが出来るんですよ。それより、お2人で帰宅って珍しいですね。何処かに行くのですか?」


秦野京汰は爽やかな微笑みをゆかりに向けたがそれに答えたのは佐藤梓だった。


「そう。今から私たちコンパに行くのよ。クリスマスまでに彼氏作らないと」


「コン─」と言って秦野京汰の顔が曇る。

不審そうにゆかりを見るその目は『彼氏がいるのにコンパに行くのか』と言っているように思えた。


「檜山さんがコンパなんて意外でしょ?私の友達がドタキャンしたの。で檜山さんに声をかけたら来てくれるって言ってくれたから。彼氏いないみたいだし。ね、檜山さん?」


─説明ありがとう。


ゆかりは何も言わずに頷いた。


秦野京汰の目が再び語る。

『じゃあ昨日の奴は何なの』と。


それを教えようとはとは思わなかった。


─秘密にして少し悶悶とさせてみよう。


不安げな秦野京汰に別れを言って店へと向かう。


予約してある店は会社の近くにある少しの高級感を売りにしている居酒屋だった。

店内は薄暗く、日本庭園をモチーフにしているのか池や松の木、鹿威しなどが置かれていたが、視線を移せば噴水やシャンデリア、ヴィーナスらしき石像があったりして装飾品のちぐはぐに何だか腹が立った。


どうやら個室を予約していたらしく、メンバーは既に席についていた。


男性陣は見た限り年齢はばらついているが、女性で30に乗っかっているのは自分だけだろうと推測する。


とりあえず飲み物を頼み、それらが来てから自己紹介となった。

幹事である佐藤梓が場を仕切る。

ゆかりは名前と佐藤梓との関係を手短に伝えて手っ取り早く年齢も明かした。

推測通り皆年下だった。


続いて男性陣も同様に自己紹介をした。

皆、会社の同僚のようでゆかりの目の前に座るエラの張ったごっつい男だけが30後半だった。

結局他の男性陣はゆかりの年下だった。


─やっぱり良い男は売り切れか。良い女もそうだから、私は売れ残りね。あはは。飲み放題で良かった。沢山飲んで食べて帰ろう。


ゆかりの予想は的中した。

男は若い女に夢中で、ゆかりを見向きもしなかった。

女も女でその扱いに気持ちが良いのか、酒も飲まず物も食わずひたすら甘い声を出すのに必死になり、食器を下げるゆかりを完全に見て見ぬふりをしていた。


お腹は一杯になったが、アルコールの薄い飲み物だけで気分良く酔えるわけがない。

もうそろそろ制限時間も終わりになるので、どこか別の場所で知った人物と飲み直そうと携帯を取り出して席を立った。

部屋の中の誰もゆかりが立った事に気が付いていない。


真っ先に浮かぶ都合の良い奴は平吉しかいなかったので早速かけてみたが留守電になった。

諦めて他の人物を呼び出そうと電話帳を見てみるが、皆結婚しているか、長い間連絡をとっていないような人物ばかりだった。

それでも諦めがつかないので、もう一度平吉に電話をかけてみたが同じことだった。


「何よもう。役立たずめ」


そう呟いて個室に戻ろうときた時だった。


「鶴のお客様ですよね?」と声をかけられた。

そこに居たのはバーテン風の男だった。

この服装はこの店の制服だったと思い出す。

そう言えば彼は自分たちのオーダーや食器を下げに来ている。


「つ、鶴?」


「えぇ。鶴」と言って背後の扉を指差す。


この部屋にそんな上等な名前がついていたとは知らなかった。


「あ、そうみたいですね。この部屋です。鶴です」


「楽しんでますか?」


「え?あ、まぁ。楽しんでますね」


─あいつらはね。


と鶴の扉を見る。


「そうですか。それは良かった。お客様はいかがです?」とゆかり個人に聞く。


「私?いや、私は。ほら、人数合わせみたいなもんだし」


「そうですか。楽しくないですか?」


─何だこの男は。変な奴だ。


ゆかりは小さく笑う。


「楽しくないよ。全然!」


男も笑った。

そして鶴の部屋を開けて空いている食器を下げると去って行った。


苦痛の2時間は終わり、ゆかり以外のメンバーはカラオケに行くことにしたようだった。

別れ間際、佐藤梓に何度か誘われたが断れば呆気なく引き下がった。

印象を善く見せようとしようとした表面上の誘いだというのがバレバレだ。


─まったく。面倒くさい奴らだなぁ。


ゆかりは名前も覚えていない奴らの背中を見送ると、ひとりで何処かで飲み直すため歩き出した。

すると数歩進んだ所で呼び止められた。


「鶴のお客さん」


さっきの店員だ。

彼はジーンズにロックアーティストのティーシャツ姿だった。

暗い店内では分からなかったが、明るい茶色の髪はサイドを刈り込んでいる。

悪戯っ子のように微笑む口元から八重歯が覗く。


「鶴のお客さん。皆と2次会行かないの?」と奴らが去って行った背後を指差す。

何故か馴れ馴れしい態度に腹は立たない。


「行くわけないじゃない。もう2度と会いたくないよ」


「あはは!それがいいよ!あんなの相手にしないほうが賢い」


「それより、きみ。お客にそんな態度とっていいの?さすがに今の発言、他の人に聞かれたらまずいんじゃない?私は構わないけど」


「大丈夫。お客さん理解力ありそうだし」


何が大丈夫なのか分からない。


「それに俺、今日は上がりだもん。だから今は店とは関係ないし」


─そういう問題じゃない気がするけど、まぁいいや。


「だからさ、鶴のお客さん。今から2人で飲みに行きません?」


「へぇ?」


なんとも間抜けな声を出してしまった。


「実はお客さんが出てくるの待ってたんだ。お客さんと飲みに行きたくて」


─なんだなんだ?新手のキャッチか?


「残念だけど私そんなのに引っ掛かるほど軽くないから」


「それ、言うと思った!あはは!俺不器用だし騙すとかそんなのできないし。もうね、真っ直ぐに生きてきたんだ。定規みたいな性格なの」とアハハと笑う。


─そこは「竹を割ったような性格」じゃないか。


「私と飲んでも楽しくないよ」


「うふふ。そんなの飲んでみないと分からない。近くに良い店があるんだ。行こう」


男は勝手に決めると勝手に歩き出した。


─まぁ、いっか。危なくなさそうだし。


男が入った店は外国のパブをイメージしており、ダーツやビリヤード、テレビではサッカー中継が流れていて、客の殆どはその放送に集中していた。

店内は見たこともない数多の酒瓶が逆さになって整列している。

外国人スタッフもいた。


「こんな雰囲気の店、入るの初めて」


「新境地へようこそ。カウンターでお酒買って席に戻るんだ」


2人で酒を買って隅の席についた。


軽く乾杯をしてアルコールを体内に入れる。

さっきの居酒屋とは旨さが全然違う。


─やっぱりアルコールはこうでなくちゃね。


「どう?うちの店とは全然違うでしょ?雰囲気も出す物の質も」


つまみのナッツをこりこり食べる。


「はっきり言ってあなたの店もう二度と行きたくない。あんなちぐはぐなのに皆、気が付かないの?」


「コンセプトばらばらだよね」


男はニヤリと笑う。


「あ、紹介遅れました。俺、鳥谷充っていいます。ご存じの通り、あの店で働いてます」


「私は檜山ゆかり。中小企業で派遣社員してる。てか、居酒屋であの時間に上がりってあるもんなの?9時とかって忙しいんじゃない?」


「あはは。俺ねあの店嫌いなんだ。だから、しょっちゅう早退してんの。次やったらクビだってさ」と呑気に笑っている。


「え、いいの?そんな感じで」


「いいのいいの。次に行く所は決まってるし。本当は早くその店で働きたいんだ」と目を輝かせる鳥谷充。


きっと、その店で働く事が目標なのだろう。


「じゃあ、その店に連れていってくれればよかったのに」


「あぁ、駄目なの。それ、したいんだけど、やったらマスターに怒られるんだ。体よく言えば一見さんお断り。正直に言えば、忙しくさせるなっていうマスターの我が儘。変わった人なんだよ」


その時、ゆかりの電話が鳴った。

平吉からだ。

鳥谷充の了解を得て電話に出た。


『ごめん!仕事中だった!』


「そうだと思った。ごめんね、仕事中に。だけどもういいよ」


『え?なに?何かあったの?』


「いいの。きみは用なしっ!じゃね」と一方的に電話を切って机に置いた。


「彼氏?」と鳥谷充。


「彼氏いたら今日みたいな会には参加しないよ」


「ねぇ、今日はコンパでしょ?檜山さんからやる気感じなかったけど、彼氏探す気あった?」


「ない」と言うと鳥谷充は笑った。


「じゃ何で参加したの。やっぱ彼氏いるの?」


「そうじゃないよ。メンバー見れば何となく雰囲気とか分かるでしょ?今日は一目見て皆年下だって分かったから。男ってさ、若い子が好きでしょ?」


「年下?あ、そうなの?檜山さんそんなに年上なの?」


鳥谷充は身を乗り出してゆかりをまじまじと見た。

若い肌がすべすべしているのが分かる。


「あんたより年上よ」とゆかりは鳥谷充から離れるようにして身を引いた。


「そうなの?何歳?」


「30よ。でも、もうすぐ31歳」


鳥谷充は「へぇ!」と感心したような声をあげると座り直した。


「見えないよ。鶴の部屋の人たちと変わらないと思ってたもん。若く見えるよ檜山さん」


「そりゃ、どうも。でも実際の年齢聞いちゃうと引くでしょ?」


「そんな事ないよ。さっき檜山さん男は年下が好きでしょって言ってたけど、そんなの好みの問題だって。俺、今23歳だけど、年上だろうが年下だろうが関係無いし」


「それは、心強いお言葉だわ」


「馬鹿にした?」と鳥谷充は小さく頬を膨らませる。


「してないよ」と言って新しい飲み物を買いに立った。

飲み直しに付き合ってくれた鳥谷充に感謝の気持ちでビールを奢ることにした。


席に戻ってビールを差し出すと「え?いいの?ありがとう!」と頬を少し火照らせた。


「でも、飲もうと誘ったのは俺だけど……」


そう言いながらも嬉しそうに勢い良く飲む。


「ちょっと、酔っぱらわないでね。私、介抱してあげられないよ」


「俺、酒強いの。問題ないよ」


鳥谷充は本当に強かった。

何杯飲んでも顔色は変わらず、まるで、水でも飲んでいるかのように、スルスルと喉を通る。

シラフの時よりも少しテンションが上がるだけだった。


そんな様子に終始感心していると、気が付いた時には部屋のベッドで横になっていた。

酔っ払ったのだろう。

帰り道の記憶が全くない。

カーテンの隙間から射し込む元気な光に目を細めながら起き上がった。


─8時か。


大きく伸びをしながら欠伸をひとつ。


シャワーを浴びようとした時だった。

浴室から水音が聞こえてきた。


「え──」


瞬時に血の気が引く。


玄関へ走り靴を見た。


そこには見たことのない男物のスニーカー。

自身の胸を押さえて下着を着けている事に安心する。


一体何が。


考えようとしても記憶がない。

それほどに酔っていたのだろうか。

もう若くはないと云う事か。


「あ、おはよう!ごめんね、シャワー借りたよ」と鳥谷充が昨日の姿で出てきた。


「あ、そ」


言葉が出ない。

何故、鳥谷充が部屋にいるのか分からない。


「ねぇ、何突っ立ってんの?」


ゆかりは重い足取りで鳥谷充の下へ向かった。


─あぁ。何て馬鹿な事をしたのだろう。


「覚えてないんでしょ?昨日のこと。そんな顔してる」


「──いや、まぁ。私──寝ちゃったのよね?」


「そうだよ。店出てタクシー乗っけたらすぐに寝ちゃった。最初は檜山さんひとり乗っけてただけだったけど、運転手さんが困ってバックして俺に助けを求めたんだよ。俺も同乗してさ、此処まで来たんだ。住所は何とか教えてくれたから無事に辿り着けた。部屋へも檜山さんが入れてくれたんだ。それで、ついでに泊まってけって言ってくれたから」


「あぁ。そうなんだ」と天井を仰ぎ見る。


「心配しないで。俺たち何もしてないよ。檜山さんはベッドで、俺は玄関で寝てたから」


「げ、玄関で!ごめんね、迷惑かけて。風邪引いてない?身体痛くない?」


「大丈夫。俺、真冬に腹出して寝ても風邪ひかないんだ。じゃ、帰るね!楽しかったよ。また飲もうね!」


ゆかりは送ろうかと言ったが鳥谷充は笑顔で「大丈夫」と言って帰って行った。


─あぁ。もう。お酒控えなきゃ。


シャワーを浴びて朝食をとった。

部屋に掃除機をかけている間に洗濯機を回し、それを干してから買い物に出掛ける。


買い物から戻ると12時前だったので、近くの弁当屋で買った弁当を食べながら撮り溜めてある海外ドラマを2本見る。

そして、インターネットを開きネットショッピングをしようとしたが、目当ての物が見つからないので30分で止めると、乾いた洗濯物を取り入れて畳んだ。


なんとも穏やかな休日だ。

朝以外は。

いくら家事をして気を紛らわそうとしても、無駄だ。

間違いを犯していないとはいっても、やはり気が重い。

鳥谷充に悪い事をした。


─全て自分のせいだ。


そう思った時、携帯が鳴った。

ディスプレイには番号しか表示されていない。


─誰。


すぐに切れるようなら無視をしようと思ったが、しぶとく鳴り続けるので応答した。


「もしもし」


『あ!やっと出た。もう諦めようかと思ったんだ。俺だよ。鳥谷。鳥谷充』


「何で番号知ってるの?」


『昨日こっそり檜山さんの携帯から俺の携帯にかけたんだよね。番号知りたくて』


「そんな時間─」


─あった。それくらいできる時間あったぞ。私が2人分の飲み物を買いに立った時だ。テーブルに携帯置きっぱなしだった!ロックかけときゃよかった。


ロック解除が面倒くさいと云う理由で設定していなかったのだ。


「吃驚するじゃない」


『だよね。名前、登録しとけばよかったね』


「そう言う問題じゃないでしょ。勝手に人の携帯弄って」


『ごめんね。檜山さん堅そうだし教えてくれない気がしたんだ』


「それは当たってる。聞かれても教えなかった」


『でしょ?だから勝手に。ごめんね』


「もう良いよ。そんな事で怒らない。それより昨日はありがとう。そしてごめんなさい」


『謝らないでよ。俺、結構楽しかったんだから。ねぇまた飲みに行こうよ。近いうちに』


─ん?これは、なんだ。あれか?デートに誘われているのか?社交辞令か?社交辞令ならわざわざ危険な行為をしてまで電話番号を手に入れる意味が分からない。ならば、そういう事か?


「年上の女をからかわないでよね」


─こう見えて、結構傷付くタイプなのよ。


『嫌だな、檜山さん。昨日からネガティブな発言ばっかり。もっと自信持ちなよ』


「そうね、そうする」


『ほら、その返事が軽いんだなぁ。俺、今から電車乗るから切るね。じゃあね』と聞こえたのが最後で電話が切れた。


電話を握りしめたまま放心する。


「うーん。なるようになるか」




──────────




翌日、ランチを買いに弁当屋まで行くとそこに秦野京汰がいた。


「お疲れ様です」と頭を下げる秦野京汰がこちらに近付いて来た。


「何にするんです?」


「そうね、日替わりかな」


すると秦野京汰は「日替わり2つ」とカウンターの女性に言った。

さほど待たずに2つの弁当が出され、秦野京汰が料金を払い商品を受け取った。


ゆかりは財布から500円を出して秦野京汰に渡すが「いいです。払わせてください」と首を振った。


「払ってもらう義理なんてないよ」


「これは僕が勝手にしたことなんです。だから僕からお願いです。それより、これ一緒に食べません?あそこのお寺すごく気持ちいいんですよ。知ってました?」


大きなお寺が会社の近くにある。

太陽が清々しい今日のような日に、あのお寺でまったりと食べるのは最高だろう。


「この会社に来た頃は毎日あそこでお昼食べてたよ」


「そうなんですね。行きましょ!」


弁当代の話は何処かへ行ってしまったようだ。

それに弁当代の事があるのでこの提案は断れる訳がない。


「うん。じゃ、ありがとう」と言うと秦野京汰は愛らしく笑った。


この近辺で一番大きなお寺のようで、お昼を食べられるように木陰には木の椅子が並べられている。

そこには既に数名が昼食をとっていた。


2人はあまり人気のない少し離れた椅子に並んで座った。


「やっぱり外で食べると気持ちいいね」と空を見上げる。


「はい。疲れたり嫌な事があると此処で食べるんです」


「秦野くんでもそんな事あるんだ。怒ったりするの?」


「そりゃしますよ」と秦野京汰が笑った。


─いつもニコニコしてて、愛嬌あるだけじゃなかったんだ。


と意外に思う。


「怒ったり、苛立ったり。しょっちゅうです」


「そんな風に見えないよ」


「それを面に出すのと出さないとでは周りの雰囲気が違うじゃないですか?あぁ、あの人怒ってるなって思いながら仕事するのって雰囲気壊すし、良い事ないでしょ?いがみ合っても良い事ないですよ」


風貌とは逆にもりもりとご飯を食べる姿に若さと男を感じる。


「それはそうだ」とゆかりは笑う。


「仮面被ってるって言われますけどね。─そうだ檜山さん。この前はどうでした?」


「この前?」


─なんだっけ?


と首を捻る。


「えぇ。ほら、佐藤さんとのコンパです」


─お。意外とストレートに聞いてくるんだな。


「あぁ、あれね。まぁねぇ」


「何だか意味ありげですね。──良い人がいたんですか?」


「そうね。いたかもね。分かんないけど」


「分かんないってご自身の事じゃないですか」と秦野京汰は笑った。


「あれ?きみが気にしているのは佐藤さんの事じゃないの?」


「え!そんな風に聞こえましたか?完全に誤解ですよ!困ったな」


今度は焦る秦野京汰。


「私の事なら収穫なし」


その言葉に秦野京汰の頬が弛む。


「じゃあこの前の定食屋で一緒に居た男の人は彼氏ではなかったのですね」


「あぁ、あれ。あれはただの同級生。彼氏だなんて」


─絶対にありえない。


「じゃ檜山さん今フリーなんですね」


「フリーだね。親からも友達からも結婚はまだか?って聞かれてさ。もうウンザリ」


秦野京汰はあはは、と笑った。


「出会いがなきゃ結婚できませんもんね」


「そう。好きじゃないのに付き合えないでしょ?だから困ってるのよ」


「好きじゃない人に告白されても付き合わないのですか?」


「そうね。なんでだろうね」と他人事のように答える。


「付き合えば変わりますよ」


「最近ね、そうかなって思うようになった。気が付くの遅いよね」


「遅すぎです」と笑う秦野京汰。


「秦野くんはどうなの?彼女いるの?」


「いませんよ」


「いないの?モテそうなのに」


「嫌だなぁ、檜山さん。僕のご機嫌なんてとっても何も出ないですよ」


「素直な言葉なんだけどなぁ」


「好きな人ならいますけど」


「いいね、そういうの。そういう相手が居るだけで、日常が潤うよね。楽しくなる」


「そうです。その人のおかげで、僕は毎日楽しいです。──次もし告白されたら好きじゃなくても付き合いますか?」


「うーん。そうねぇ」とゆかりは近くの自動販売機でコーヒーを2本買って再び秦野京汰の横に座った。


「好きなんでしょ?」


秦野京汰は目を大きく開いた。


─さぁ、言え!


「え?す、好きって──」と戸惑う秦野京汰。


─言いたまえ!


「だから、好きなんでしょ?」


「そ、それは──」


頬をぽっと紅く染める秦野京汰。


─さぁ!ドキドキしなさい!


「嫌いなの?」


「き、嫌いだなんて!そんな!」


─どうだ!ドキドキするだろう!


「私は好きよ。この缶コーヒー。秦野くんもよく飲んでるじゃない」


─あはは。どう?このオチ。ちょっと無理あったかな?


秦野京汰は頬を紅くしたままコーヒーを見つめた。


「正直に言わないとあげないよ」とコーヒーをちらつかせる。


すると、秦野京汰はゆかりの手首を掴んだ。


─な、なに?


そして、そのままゆかりを見つめる。


─な、なに?


この先どうなるのかが分からず不安になり「あ、もう行かなきゃ」と秦野京汰の手を振りほどいた。


「ごめん。お弁当ご馳走さま」


放心状態の秦野京汰の横に缶コーヒーを置き、2つの弁当の空き箱をお寺のごみ箱に捨てるとその場を後にした。


慣れない事はするもんじゃない。


少し──いや、かなりドキドキした。

心臓が飛び出したがっている。


会社に戻ると佐藤梓に声をかけられた。

先日の2次会の話を語ったがほとんど聞いていなかった。

途中に「山田さん」とか「連絡先」とか聞こえたがそんなのどうでもよかった。


佐藤梓たちよりももっと刺激的な思いをしたのだから。


定時になったので会社を後にしようとした時に近くの自動販売機で秦野京汰が缶コーヒーを購入しているのを見かけた。

やはり、あの缶コーヒーだった。


ゆかりは背中を見せて逃げるようにその場を後にした。


─刺激的だったけど、もうあんな思いは嫌ね。



翌日もその翌日も秦野京汰を見かけたが、ゆかりは逃げる事しかできなかった。





それから1週間が経ち、このまま見付からずに帰る事が出来れば、と終業時間になったので会社を出た。


─自販機にもいないし、よし。オッケーオッケー。完璧。


そそくさと駅に向かい、改札を入った所で本格的に安堵する。


─いや、本当に疲れる。一週間


「長かったぁ」と小さく呟いてベンチに座った。

駅には帰宅する学生がちらほら見えるだけで他に人はいない。


─何してんだろ。自分で引っ掻き回して逃げて。私、本当に馬鹿かも。


次は両手に顔を埋める。


─はぁ。何で素直じゃないのかな。


人に想いを寄せられたり告白されたりすることを嬉しく思うが、何となく小恥ずかしく思ってしまう。


カップルが腹が立つほどに目立って見えるし、子供連れが羨ましく思ことも老夫婦を見て和やかな気持ちになることだってある。


何だかんだ言ってもやはり恋人が欲しいし、結婚して子供も産みたい。

なのに、その道を閉ざしているのはあろうことか自分自身だった。


─秦野京汰を傷付けたな。


と遅すぎる反省をする。


立ち上がって改札をでた。

あの喫茶店がこの時間も開いているかは分からないが、暖かいコーヒーと甘いフレンチトーストを食べたくなった。


店はやっていた。

客もいない。


関場紳次が迎えてくれた。


「おや。この時間に来られるのは初めてですね」と少しだけ眠たそうな目でこちらを見た。


「ちょっといつもと違う事がしたくなって」


ゆかりはマスターと対面できるカウンター席につく。


「コーヒーとフレンチトーストください」


「かしこまりました」


品物が出てくるまで何も話さなかった。

それは、調理の為に背中を向けているという事もあるが、広く逞しいその背中を見ていたいという思いもあった。


あの背中に寄り添う自分を想像してみる。

キッチンで隣に並ぶ姿、仲良く買い物をする姿。

いずれも、自分の姿だけが滑稽に見えた。


─あはは。ないない。関場さんと自分とじゃ月とスッポンよ。


と頭を振って現実に戻る。

じきに甘く香ばしい香りが漂ってきた。


「お待たせいたしました」とコーヒーと黄色く輝くフレンチトーストが出された。


─これこれ!はぁ、美味しそう!


「いただきます」


一口頬張る。


「うん!すごく美味しいです!」


「檜山さんの表情を見ていればそれが伝わってきます。ありがとうございます」


「裏メニューじゃなくて表に出さないんですか?売れますよ。雑誌に載って行列なんかできたりして」


関場紳次は小さく笑った。


「これ以上忙しくなると困るなぁ」と誰もいない店内を見た。


「ぽつりぽつりとお客様が来ていただけるだけで満足です。こうして静かにお話もできますから」


「あぁ、なるほど。それもそうですね」


「─いかがです?いつもと違う事をするのは?」


「フレンチトーストがいつもより美味しいです」


「そう。それは良かった」


関場紳次は小さく頷いた。


「なんだかホッとして」


関場紳次の視線がゆかりの堰を溶かす。


「私、馬鹿なんです。自分で爆弾仕掛けて自爆して。本当に何やってんだって感じです」


関場紳次は黙ったままなので話を続けた。


「想いを寄せてくれている人の気持ちをからかっちゃいました。それで、後悔して逃げまくって。相手を傷付けた。自分でも何をしてるのか理解できないです」


「からかう?」


「はい。子供じゃあるまいし。情けない」


「そのようなことは何時でも誰でも有り得る事じゃないでしょうか?──人間は変化を嫌います。それは、自分にとってストレスとなるからです。そのストレスというは、悪い事だけではありません。良い出来事もその原因となりうる。檜山さん。失礼ながら、あなたは、ここ何年かあまり変化のない日々を送られてきたのではありませんか?──そんな日常に安心しきり、自然と無意識に変化を避けているのではないでしょうか?」


─そうかもしれない。


もし秦野京汰と付き合う事になっても恋人同士でいて違和感が拭えなかったらどうしようと思ってしまう。

付き合うとなれば、相手とのコンタクトも頻繁になり、自分の時間がなくなってしまう。

好きなのであれば、そのような事は気にもならなくなるのだが。


「なるようになりますよ。やってみないと分からない事というのは世の中には沢山あります。やってみて、駄目だったら、その時に考えれば良い。それは、お互いの糧になるはずです」


関場紳次の言葉で溶けていた堰が完全に切れた。


なるようになる。

どの道へ行っても同じこと。


─この先の案じても意味がない。



店を出た。

時刻はもう19時になっていたが秦野京汰はまだ会社にいるはずだ。

今すぐにどうこうっていうわけではないが、来週の月曜になれば秦野京汰に会えるタイミングがないかもしれない。

連絡先も知らないので呼び出す事もできない。

手っ取り早く会社へ顔を出してもいいのだが理由がない。

やり残した事もないし、忘れ物などしていない。


こんな時に素直になれる人間が羨ましく思う。


数分間その場に突っ立っていたが、諦めて帰る事にした。


そして帰宅し、やはり会っておくべきだったと後悔。

どうしようもなく馬鹿だ。


部屋着に着替える軽く夕食をとった。




翌朝、目覚めると携帯電話に着信が残っていた。


─鳥谷充。あぁ、あの軽い青年。


緊急ならもう一度かかってくるだろうと思っていたら5時頃に携帯電話が鳴った。


『俺!みつる!』


─何、その子供の自己紹介みたいな挨拶は。


『昨日電話したけど、寝てた?』


「うん」とだけ返事をする。


『俺、今から仕事なの。すぐ切らなきゃいけないんだけど。あのさ今晩時間ある?』


「うん」とだけ返事。


『じゃあさ、ちょっと遅いけどこの前の店に9時に来て!』


「─分かった」


なんだか、思考がフワリとしており、断るのが面倒臭かった。


『じゃあね!』


─若者は今日も元気だ。良い事だ。




その後、家事をしていたら程好い時間になったので出掛ける仕度をして腹ごしらえをした。


9時になる10分ほど前につくと、鳥谷充はすでに到着していた。


「ごめんなさい。待たせたね」とまるで寝起きかのようなテンションに自分でも笑えてきた。


「9時約束だからね。待ってないよ。俺たち偉いね、2人とも時間より前に集合してさ。さ、行こう!」と鳥谷充がゆかりの手をとったので、急に頭が冴えた。


その行為は、親が子供とはぐれないよう手を握るみたいにあまりにも自然だった。


─な、何?どういうこと?


驚いて放そうとするが、それをさせないようにぎゅっと握ってグッと身体に引き寄せる。


─なに、この緊張感。どうすればいいの。


それは店内に入り席につき、鳥谷充が飲み物を買いに行くまで続いた。


「どう?驚いた?」と聞いてくる。


「そりゃ、驚くよ。目が覚めた」


─何だったのいったい。


鳥谷充は「そう?」と言ってビールを飲んだ。


─いきなり手を握られたら、そりゃ驚くよ。ねぇ?


と誰に問いかけるわけでもない。


「友達としないの?こんなこと」とあっさり聞いてきた。


「す、するわけないじゃない!友達だよ?男友達とだなんて考えた事もないし」


平吉の嫌味な笑顔を思い浮かべて身震いする。

すると鳥谷充がニヤリとした。


「あはは!やっぱ勘違いしてる!」


「か、か?」


─勘違い?


「手を握った事に対して聞いたんじゃなくて、急に呼び出して驚いたか聞いたんだよ」


「何よそれ!勘違いさせるような聞き方しないでよ」


─いやいや、違う。人の事をとやかく言えないよ。私。


「嫌だった?俺に手を握られて」


鳥谷充は右手をグーパーグーパーした。


「嫌ってわけじゃないけど──」


「けど?」


「けど─」


─けど、何よ。おい、自分!


「やっぱりそうだ」と鳥谷充。


「なに?」


─何なの?もう、何?


「檜山さん焦ったんだ。どうすればいいか分からなくて、驚いたというか困ったんだ」


「うっ」


「そう言う所、可愛いね。今時そんな人いないもの」


「寂しそうな年上の女を捕まえて、甘い言葉を囁いて暇潰しでもするつもりだったんだ」


─所詮そういう風にしか見てもらえないのよ。ほら、傷が増えた。しくしく痛むぞ。治らないぞ。


「違うよ違う!」と鳥谷充が必死に否定する。


「おかしいと思ったよ。最初からさ。騙されないって言ったでしょ?それともそういう女を落とす賭けとかしてるわけ?残念だけど私、堅い女なの。女友達に、あんたが男だったら惚れてるよ、なんて言われるくらい、男っぽい所だってあるのよ。お人好しのくせして無駄にプライドが高いのよ」


「おまけに傷付くのが怖いから無難な夢ばかり追いかける。悪い事ばかり考えて、もし駄目な方に転んでも傷付く事が最小限で済むように心の準備をしている。そして仕方がないと自分を慰める。だろ?お人好しのくせして無駄にプライドが高いのは、寂しがりで傷付きやすい人間ってことじゃねぇかな」


─何よ。この男。


「檜山さん本当に損してる。可愛い顔してるのに性格がもったいない。前から思ってたけど自分を卑下してどうすんのさ。そんなにマイナス思考じゃ良くなる物も悪くなるばかりだって。人に遠慮して好きな男を譲ったりしてたんじゃない?どうせ自分なんか相手にされないからって端から諦めてたんじゃない?嫌われたくないからって適度な距離とってたら手遅れになったり、嫌われたって勘違いして勝手に傷付いたり。どうせ自分なんてってのが口癖なんでしょ?」


─私はいったい酔った時この男に何を話した?


「そんなマイナス思考の人間と付き合いたくないよ。あーあ、残念だ。俺、檜山さんに声かけた時、一人でつまらなさそうにしてるのがカッコいいなと思ったんだよ。どんな人なんだろうって気になって仕方がなかったから、勇気だして声をかけたんだ。なのにさ、蓋を開けてみれば自信無さすぎな性格。そんなんじゃこっちまで暗くなっちゃうよ」


「なんだか、酷い言いようだよ」


─だけど。


「だけど、何だろ」


心がじわりと暖まる。


「ありがとう」


─そう。ありがとう。だって、


「今まで自分のそんな性格、見て見ぬふりしてた。はっきり言ってくれる人もいなかった。言わせなかったのかもしれないけど」


鳥谷充が悲しそうに微笑んだ。


「俺、本当に騙すつもりなんかなかったよ。さっき手を握った時、檜山さん逃げようとしたでしょ?それで分かった。俺には縁がないってね。ごり押ししても良かったんだけど、その後恨まれそうだし。いつもならそれでうまくいくんだよ。檜山さん例外!」


鳥谷充はあはは!と笑うと急に真面目な表情になる。


「素直なのは良いけど、それで硬くなりすぎるのは良くないよ。失敗するのを避けてちゃ何もできないよ。今しかできない事だってあるはずだし。たまには肩の力抜いて、失敗してもいいやってくらいの気持ちになってもいいんじゃない?」




その日はワインをグラス1杯で終わらせ、終電が来る前に帰宅した。


─何だか最近どうかしてる。


情けないくらいにあっさりした過去を振り返る事が多いと感じていた最中に鳥谷充の発言が心を撃った。

その言葉の弾丸はしっかりと心に埋め込まれ、痛みを伴うことはなくゆかりの一部になった。


後悔している自分がいることは分かっている。

反省だってしている。

だけど、それを周りに打ち明けられない。

友人に言われた言葉が躊躇させる。


男だったら惚れてるよ。

逞しいね。

悩み事ないでしょ?

私はひとりじゃ無理だもん。


─私だってひとりは嫌。悩み事だってある。逞しくみえるのは強がってるから。私は男じゃない。私だって恋愛したい。そんなこと言うタイプじゃない?でも本当はそうなの。言葉にしないだけ。強がって馬鹿してるだけ。


「あぁもう。馬鹿だな」


本音を出せず、強がってしまう。

それは、とても悲しい事なのかもしれない。

その晩はメイクも落とさずに眠ってしまった。


月曜日、職場に行って秦野京汰と会えたら言う言葉を決めていたのにいざ、目の前に現れると迷いが出た。


─謝ったら失礼じゃん!


それは月曜日の朝。

書類の束を経理にあげるためエレベーターに乗った時だった。

閉まりかけたドアが開き秦野京汰が入って来た。

2人ともぎょっとして朝の挨拶を交わすだけで精一杯だった。

秦野京汰も経理がある4階に用事があるようだ。


そして、いざ話かけようとした時エレベーターが止まって知らないオヤジが乗ってきた。


「ひゃっひゃっ。間違うた間違うた。へぇっとぉー」とオヤジが寂しい頭をつるりと撫でる。


「どちらに行かれます?」と秦野京汰がオヤジに聞く。


「高崎くんはどこだったかね?」


「高崎でございますね。高崎は現在営業部に配属され3階におります。では、3階でよろしいでしょうか?」


「おうおう。頼むよお兄さん」


扉が閉まる。


─なんだ。話できないじゃない。


そう思う反面少し安堵して秦野京汰の様子を伺うと、横目でこちらを見る彼と目が合った気がしたのでオヤジのハゲ頭に視線を移した。


「あぁ、そうか。そういえばそんな知らせをもらったな。営業に移ったとな。うんうん。そうか。営業部か。そうか」


オヤジはひとりで喋ってひとりで納得しながら3階で降りていった。


すぐに目的の4階に到着したので話す時間はもちろん、気のきいたひと言すらかけられなかった。

扉が開くと「どうぞ」と言って先にゆかりを通した秦野京汰は、御手洗いや給湯室のある人気のない方へ歩いて行った。


意図的に避けられている気がした。


─そりゃそうか。自業自得だもの。


帰りはいつものように階段を使う。

階段への扉を開けた。


「自、業、自、得」


毎度の事ながら人がいないので、少し大きめの独り言が寂しく響く。


「自、業、自、縛。まいったなぁ」


1段目を降りようとした時、視界に何か入り声も出ない程に驚き固まってしまった。

屋上へ行く為の階段に誰かが座っていたのだ。


「は、たの、くん」と辿々しく名前を口にした。


秦野京汰はゆっくりと立ち上がるとゆかりを見下ろしながら手摺に手をついた。


無言のまま互いは視線を合わす。


─何て言うんだっけ?何て言えばいいの?分かんないっ!


「秦野くん」と再び言う。


秦野京汰は頚を傾げて目を細める。

怒っているのか?

呆れているのか?


「秦野くん」


「はい」と静かに返事がくる。


その後の言葉が続かない事に痺れを切らしたのか、秦野京汰が1段1段こちらに近付いてくる。


ゆかりは4階と3階の間にある踊り場まで一気にかけ降りた。


─ど、どうしよう。どうしたらいいの?


秦野京汰は4階で立ち止まり、こちらを眺めている。

あの愛嬌ある表情は今や冷静で威圧的な男の顔だ。


「秦野くん」


「はい」


端から見ればこの2人の行動に意味があるとは思えない。

端から見なくたって自分自身でも意味が分からない。

このままこの行動を繰り返して1階まで行けばどうなるだろうと余計な事を考える。


「秦野くん」


「まだ逃げる気ですか?」


─新しい展開だ。


「僕が一歩近付けば、あなたは一歩遠ざかる」


秦野京汰が1段降りた。

残り8段。


「逃げるなら何故、僕をからかったのです」


悲しそうな秦野京汰は勢いで2段降りた。

残り6段。


「後悔しているなら何故、僕を真っ直ぐ見ないのです」


残り5段。


「あなたはとても狡い」


残り3段。


「そして、臆病だ」


残り1段。


「僕の気持ちはご存知でしょう?」


秦野京汰が目の前に立った。


「あなたは僕に言いました。正直に言わないとあげない、と。もう缶コーヒーなんてどうでもいい。正直に言えばくれるのでしょう?」


2人の間にはもう殆ど隙間がない。

だから秦野京汰の接近を拒もうとしても腕が通らないのだ。


「もし、あの時俺があなたの腕を離さず抱き締めたらどうしてました?」


秦野京汰はすぐ目の前にいるのに、何故かゆかりに触れない。

こんなにも近いのに。


「あの時俺が正直に気持ちを告白していたらどうしてた?」


秦野京汰の息遣いが細かく伝わってくる。


「それでも逃げますか?」


怒らせるとは思っていなかった。

だけど、今ここで謝罪の言葉は違うような気がした。


「僕の事を恋愛感情で見れないと思うなら、この間の会話を思い出してください」


─付き合えば変わる。恋愛感情がなくてもいずれ答えは出る。


「正直に言うので正直に答えてください。僕はあなたが好きです。缶コーヒーではなく、あなたが欲しい。付き合ってほしいと思っています」


鼓動は階下まで聞こえるのではないかという程に高鳴り、頭がフワリとした。

顔は火照っているのに手が震える。


─あぁ、どうしよう。


「秦野くん」


「はい」


「私は狡いし臆病な人間よ」


「承知しています」


「これからも怒らせるかも」


「覚悟の上です。そもそも怒ってなんていません」


「不安にさせるかも」


「正直でいてくれればそれでいい」


秦野京汰の掌がゆかりの頬に優しく触れた。


「キスしますね」


秦野京汰の唇が重なると立っていられるのが信じられない程に力が抜けた。




いつものイタリア料理店で遥菜、平吉と食事をしている時に携帯電話が鳴った。

秦野京汰からだ。

いつもなら友人との食事の時は無視をするのだが遥菜が「出ないの?」と聞いてきた。

答えに渋っていると勘の鋭い遥菜が勝手に通話ボタンを押し、ゆかりの服を掴んで席を立たせまいとしたので仕方なく座ったまま出た。

何をしているのか聞いてきたので今の状況を伝える。

そんな事聞いていなかった、男が一緒だなんてありえないと少しふて腐れる。


「なんて事ないよ。秦野くんも見たことある」


『もしかして定食屋でランチしてた人?』


平吉を見ると、ピザのチーズが伸びすぎてあたふたしている。


「そう。その人。大丈夫だから」


─絶対に大丈夫。


「そう。心配だ。でもいい。ちゃんと話してくれたから。邪魔しちゃ悪いから切るよ」


秦野京汰はゆかりの返事を待たずに電話を切った。


遥菜がわくわくそわそわしたような目で見てくる。


「な、何よ」


「彼氏できたんだ?」と遥菜。


平吉は驚いたような表情をみせたが、こちらを見なかった。


「口調が違う。なんか女って感じ。ねぇ、聞かせてよ!どんな人?」


いつか聞かれる事だろうから白状すると遥菜は「まぁ」と楽しそうに笑った。


「その子、大胆ね!職場でキスでしょ?少女漫画みたいじゃない!オフィスラブってやつ!まぁ!素敵じゃないの!しかも年下っていうのがまた良いシチュエーション」


確かにあの時は気持ちが昂っていた。

やってはいけないことをしてしまっているどきどき。


─これ、何て言う効果だったっけ?


本当に秦野京汰に対する気持ちがあったのかは定かではないが、少なくとも前よりは彼を相手に恋愛をしている事を自覚している。


あれから1ヶ月。

彼の部屋に上がることは多いが、ゆかりの部屋には入れない。

いつも玄関の前ではい、さようなら、だ。


もうそろそろ身体を重ねる時期だろうか。とぼんやり考えたりするが、何度か拒んでしまっている。


「2人にお願いがあるのよ」と遥菜が顔の前で手を合わせた。


いつの間にか話題が変わっている。


「結婚式の2次会の幹事をやってほしいの!」


平吉とゆかりは目を合わせた。


友人の祝いの席の頼まれ事は断らないようにしているので快く了解をする。

それにこれは予想していた事でもあったので何とも思わなかった。


2次会で使う会場は目星をつけているらしいので、その後の事はこちらに丸投げするようだ。

遥菜は安堵のため息をもらす。



食事を終わらせ平吉がタクシーを拾ったので同乗した。


「ゆかりの彼氏も大変だ」


「ん?どういう意味?」


「いや、さ。いろいろ。ゆかり少し変なところあるでしょ。ふふふ」


「変なって何よ。平吉に言われたくないわ。それにね、これでも彼の前ではしおらしいんだから」


平吉が何とも言えないような表情でこちらを見てくるので恥ずかしくなり、腕に拳骨を軽く叩き付けた。


「彼にこんなことするの?可哀想だなぁ」


「するわけないでしょ」


「じゃあ、まだ本性は見せてないんだ!あはは!」と笑った。


「また変な事言ったら打つよ!」と腕を振り上げる。


その手首を掴む平吉の顔が真剣になった。


「何よ」


「いいや。何でも」と唇を尖らせ、相手をからかうような表情で手首を離す。


「平吉は?」


窓の向こうに流れる光を見つめている横顔に問い掛ける。


「何が?」とこちらを見ずに返事する。


「彼女だよ。見つけなくちゃって言ってたでしょ?どうなの」


「どうもこうもないよ。何にもないし、これからも何もない」


「もしかして、高校の時のあの子をまだ忘れられないの?初めての彼女」


平吉の横顔に少し変化が見られた。


「ん、ぬぅ」と言葉になっていない返事をする。


「図星なんだ。一途だねぇ。でもさ、辛くなるだけじゃない?会えるわけじゃないんだし」


「俺の事なんていいじゃないか」


ようやくこちらを見た平吉は何だか疲れた表情をしていた。

頬も紅いし、目も潤んでいる。


「どうした?風邪ひいた?」


鼻を啜りながら「大丈夫」と答えた。

家まで送って少しだけでも看病してやろうかと提案したが、断られた。

別れ際、しっかりと暖かくしてゆっくりと休めと念を押しておいたが、それに従うかは分からない。


そしてタクシーを見送り、エントランスに入ろうと振り返って驚いた。


「秦野くん?」


秦野京汰が腕を組んで立っていた。


「こんな時間にどうしたの?」


「ゆかりさんに会いたくて。今の人は?」とタクシーが去って行った方向を指差す。


「さっき言ってた高校の時からの友達」


「へぇ。送ってくれたんだ。優しい人だね」


何だか口調が刺々しい。


「何か疑ってる?」


「疑ってないよ。あの男を部屋に入れるなら疑うけど。それとも疑われてもおかしくないような事でもあった?」


平静な態度だがやはり嫉妬が丸見えだ。


「何にもないけど。疑わしく思っているならそれは誤解よ。あいつとは何ともないから」


秦野京汰は「あいつ」と呟いた。


わざわざ此処まで自分の様子をみに来てくれた秦野京汰をこのまま帰らせる訳にはいかないので「お茶でも飲もう」と部屋に誘うと一転して機嫌を良くした。


─あぁ。もう退けない所まで来ちゃったかも。


何となく寝室の扉を閉めた。

そしてお茶ではなくコーヒーをいれ、テレビを見ながら小さなテーブルに並んで座る。

どきどきする。

コーヒー通ではないがいつも飲んでいるコーヒーの味が分からない。


「ねぇ、高校の時のアルバム見せてよ」と秦野京汰が言う。


「そんなの実家に置いてきたよ。どうして?」


「ゆかりさんの制服姿が見たい」


「正直に」


「だって、さっきの人の事知りたいし」と下唇を小さく噛んだ。


「本当に心配性だね。大丈夫だって」


─ごめんね。本当は寝室のクローゼットにあるんだ。


寝室を開けたくない。

今布団を見ると何だか生々しい。


「俺、佐藤梓さんにデート誘われちゃった」といきなり言い出す。


「え?さ、佐藤さん?」


飲んでいたコーヒーを吐き出しそうになったので堪える。


─なぜ、いきなり?


「そう。意外でしょ?」


─コンパの相手とは上手くいかなかったか。


「うん。すごく意外。それで何て返事したの?」


「勿論断ったよ。僕、彼女がいますからって。そんなつもりじゃなくても彼女がいるのに女性と2人で食事には行けませんって言った」


秦野京汰は誉めて欲しそうに微笑みかけてきた。


─彼女、か。


「一瞬ドキッとした?佐藤梓さんの誘い受けてたらどうしようって思った?」


挑発的な視線を送ってくる。


「秦野くんが受けるはずないって思ってた」


「なんだ。つまんないの。ゆかりさん、ちょっとは嫉妬してくれるかなって思ったんだけど」


駄々っ子のように唇を尖らせる。


「秦野くんはストレートな感情の持ち主だから疑うような事は何もないよ」と笑う。


「嫉妬してくれたら俺の気持ちが分かるのに」


「ん?佐藤梓さんの事は嘘なの?」


「嘘じゃないよ。本当のこと。ただ、向こうは軽い気持ちで誘ったみたいだけど」


「じゃあ秦野くんに気があるかは分からないんだ」


「そう。ねぇ、その秦野くんって呼び方もうそろそろ変えてよ」


「何て呼ぼうか?」


「京汰でも京汰くんでも何でもいい。母さんは京ちゃんだからそれ以外なら」


「何で京ちゃん以外?」


「母さんに呼ばれてるみたいで嫌だし」


ゆかりは小さく笑って「じゃ、京汰ね」と言った。


「もう1回呼んで」


「──京汰」


秦野京汰が静かにゆかりの頬、そして唇にキスをした。

そのキスが次第に首筋へと落ちていく。


秦野京汰がゆかりの両腕を持って立ち上がった。

それにつられてゆかりも立ち上がる。


先程ゆかりが寝室の扉を閉めるのを見ていたのだろう、その部屋を迷うことなく開けた。

少し躊躇したが秦野京汰の柔らかいキスに誘導されベッドの中へと落ちていった。




こんな朝を迎えるとは思っていなかった。

隣を見れば秦野京汰が眠っている。

可愛らしい寝顔に何だか胸が痛くなる。

結局昨晩も何もしなかった。

瀬戸際になってゆかりが拒否したのだ。

秦野京汰は悲しそうにしていたが、隣で寝たいと言って、まるで幼い子供に添い寝をするようにして2人で眠った。

せめて朝食でも作ってやろうと立ちあがった所で腕を掴まれた。


「おはよう」


「おはよう。どこ行くの?」


寝癖が立っている。


「朝食作るからもう少し寝てていいよ」そう言って寝癖を撫で付けてやる。


昨晩の平吉の様子が少しだけ心配だったので、連絡もいれてみたいと思ったが、そんな事は言えない。


「いらない。だからもう少し2人で寝ていようよ」と布団に引き摺り込まれる。


─まぁ。もう少しだけいっか。


秦野京汰に背中を向けるようにして再び横になる。

顔を間近で合わせるのが少しだけ恥ずかしい。

秦野京汰はゆかりの背中にピタリとくっついて両腕を前へと回してきた。


「はぁ、暖かいな」と頬を耳に付ける。


「ゆかりさんの寝顔、可愛いよ」と囁いた。


─やっぱり見られてるよね。恥ずかしい。


「あなたの寝顔も可愛い」


「可愛いは誉め言葉じゃないな」


「男前な寝顔って言ってほしい?」


「うーん。それも違うよね。やっぱり寝顔って大概可愛いもんか」


「そうだね」


秦野京汰がぎゅっと力を込めると「今、何してると思う?」と聞いてきた。


「力自慢?」


「違うよ。衝動を抑えてるの」


「衝動を?何の?」


「俺の腕の中にはゆかりさんがいるんだ。俺だって男だから。すぐにでも服を破りたいその衝動を抑えてるんだよ。2人を隔てているのは薄っぺらい布だけ」


─それは


「それは大変。朝ごはん作りましょ」とすぐさまベッドから出ようとするが、秦野京汰の意外なほどの力から脱け出せない。


「なぜ嫌なの?」


「だって、ほら今わたし月に1回の恒例の週だし。気持ち悪いでしょ」


「嘘だ」


─嘘、です。正解。


「もう、いいや」


そう言ってゆかりを解放する。


─ごめんね。


ゆかりは布団から出た。


「ゆかりさんはそうやってからかうような事をするけど結局は許してくれるもん。その時を待つ」と笑顔になる。


「ふふふ、そうかしら」


─そうかしら。


その時ゆかりは秦野京汰に身体を許すことが想像できなかった。






結婚式の2次会の打ち合わせで、平吉といつもよりも連絡をとることが多くなっていた。

秦野京汰にはゆかりと平吉が2次会の幹事を任された事を話してあるが、日が経つにつれ不満が積もっていくのが分かる。


相手にしてくれない、自分と話すより平吉と話している時の割合が多いなどとふて腐れる度に、親友のお祝いなんだから精一杯やっているだけだと宥める。


─職場では一人前の男性なのに、なんでこうも変わるかな。


そして、ゆかりは自分の思いに改めて気づいた。


─やっぱり、好きじゃない相手と付き合っても変わらないのか?それとも、私が好きになろうとしていないだけなのかな?


ある日、仕事が終わってから平吉と落ち合う約束をしていたのだが、急にフレンチトーストを食べたくなったので職場の近くの喫茶店へ呼び出した。

今日は珍しく仕事も早く片付いたようなので、8時には会うことが出来た。


「美味いっ!」と顔を綻ばせる平吉。


「でしょ?この店のこと教えるのあんたが初めてなんだから感謝しなさいよ」


こんなに喜んでもらえて連れてきて良かったと思う。


「感謝する相手はマスターでしょ?ゆかり作ってないもん」


「うるさい。それより、体調どうなの?この前、風邪っぽかったけど」


コーヒーを飲みながら親指を立てる。


「平気平気!大丈夫!」と無駄に声を張った。


「本当に?風邪引いても看病してくれる人いないんだから気をつけなよ」


「風邪は移すと治るってよく言うよね。試してみようか?ゆかりなら看病してくれる人いるから」


「ふざけないで」


「彼氏にも教えてあげなよ。こんなに美味しいのに」


「一度考えたんだけど、彼甘いもの苦手なのよ。でも私が進めると苦手な物でも無理して食べようとするんだよね」


「いいじゃない。うん。とても良い彼氏だよ。ね、マスター?」


マスターは困ったように笑う。


─良い表情だ。


「私はね無理して食べられるのが嫌なの。気を使われるのが嫌なの」


「フレンチトーストじゃなくても、別メニューもあるじゃない」


「それはそうだけど」


─そう。あんたの言う通り。


マスターは懐かしいものを見つめるような目付きでこちらをみている。

言いたい事は分かっている。


─自分の時間を守りたいから連れて来れない。


「それより、景品いつ買いに行く?明後日なら俺空いてるから車出せるよ」


2次会での出し物の景品は何にするか、そしてそれを土曜日に買いに行く事を決めて店を出た。


「腹減った!」


「だよね。あのサイズで満腹なら病院連れて行くよ。何処か食べに行こうか」


平吉は大食漢だ。

痩せていないが太ってもいないのに、いくら食べても今以上にならない何とも羨ましい体質。


「いいよ。明日はまだ金曜日だし、ゆかりも仕事でしょ?彼氏に悪い」


「な、何で?」


「男と2人で食事なんて言えば気にするんじゃない?今更だけど。ほら、この前だって遥菜と3人で居るとき電話で膨れてたんだろ?それに、食事の好みも合わせてくれるような男だし。そんな彼を悲しませていいの?」


「平吉はただの友達だって、何度も言ってるんだけど」


「いいよ、今日は帰ろう。どうせ土曜も一緒なんだから!」


そう言って平吉がタクシーを拾った。

まだ終電には充分時間があるので「タクシーなんて贅沢だ」とゆかりが渋ると平吉は笑った。

ゆかりを先に乗せて自分も乗り込むと、行き先を告げた。


「もちろん払うよ。俺が勝手に拾ったんだし。俺さ、都会の電車が苦手なんだ。知らない奴らが鮨詰めだぜ?なんだか気持ち悪い」


「昔からそうだった?」


そんな記憶はないけれど、平吉が電車に乗っている所を見た覚えもない。


「大学の時かな。電車通学だったんだ。何が悲しくて知らない奴らと至近距離で我慢しなきゃならないんだって思って、直ぐに大学の近くに引っ越した。それ以来、電車は避けるようにしてる」


「ふーん。知らなかった」


「タクシーは色々と便利だ」


「いろいろって?」


「仕事に集中してても乗り越すことないし、静かで集中できる。運転手さんと話とかしてても色々と情報が入ってくるし楽しいよ」


「でもさ、電車の方が安い」


「俺の場合は会社持ちなんだ。だからって乗り放題って訳じゃないし、プライベートの時は自分持ちだけど、天秤にかけなくても断然タクシーを選ぶね」


「金持ちだね。結婚したらそんな訳にはいかないだろうけど」


「心行くまで独身を満喫するさ」


車内で会話が途切れても全く気にならない事に改めて気が付いた。


秦野京汰との場合はどうだろうかと考える。

気を使われるのが嫌だと言いながら、知らぬ間に相手に気を使っていたのかもしれない。

年上だからと余計な意地を張っているのではないか。

年上だからと妙な責任感を感じているのではないか?

相手を好きになろうと思えば思うほど力が入り過ぎて堅くなってしまう。


ふぅ、と溜め息をついた。




翌日、仕事を終わらせて駅に向かっていると電話が鳴った。

秦野京汰からだった。

今晩は早く終わりそうだから7時には迎えに行くということだった。


今日はゆかりの誕生日。


─31歳になってしまった。


そもそも昔から誕生日を祝われる事に喜びを感じていないので、その日は平凡な1日のうちにすぎない。


秦野京汰は張り切っているようだが何をしてくれるかは分からない。


迎えの時間まで余裕があるので、風呂に入り、こ洒落た店だった場合でも浮かないように、落ち着いた色合いのワンピースを着た。


ゆかりの姿を見た秦野京汰の最初のひと言は「素敵だ」だった。

褒められると嬉しい。


秦野京汰の車で店へと向かう。

気張ってはいないが、気軽に入れそうでもないフランス料理の店だった。

この服装で正解だったと自分を褒めてやる。


秦野京汰は少し緊張しているようだが、それを必死に隠そうとしていた。

そこが可愛らしい。


運転手の秦野京汰はアルコールを飲めないのでゆかりも飲まない事にする。


よく分からない名前がついたメニューを見ながら二人で笑いあい、ウェイターに聞きながら注文する。


食事は美味しかったし秦野京汰との時間も楽しかった。

店の雰囲気も良かったと車内で盛り上がっていると、あのちぐはぐな内装の居酒屋を思い出した。

鳥谷充はどうしてるだろう。

あの夜以降連絡がないし、こちらからもしていない。


─ま、いいや。


「まだ時間ある?」


時計を見れば9時になったばかり。

特に何もないので「あるよ」と答える。


「良かった。今日はずっと一緒に居よう」


そう言って車を動かした。

何処へ向かうのか分からない。

そもそも今の店が何処にあるのかすら知らないので、窓の向こうを流れる景色を見ていたら、徐々に明かりが少なくなり、ついに真っ暗な道になった。

どうやら山道を登っているようだ。


─夜景かな。


「夜景だよ」と言ってきた。


思った事を口に出してしまったのかと思ったが、どうやら違った。


「ベタだよね」


「あはは。ベタかもね。でも良いよ。夜景好きだし」


ベストスポット付近に駐車スペースがあり、そこへは車を停めて歩いて向かった。

ゆかりと秦野京汰しかいないようだ。


木々が拓けた場所から街の鮮やかな光が煌めいている。

寒くなってきて空気も澄んでいるので気持ちが良い。


「気持ちいいね」と秦野京汰が言う。


「そうだね。誰もいないし贅沢だね」


「うん。何でもできちゃうよ」


「何にもしなくていいよ」


「キスしよう」と言ってゆかりの両手を握ると秦野京汰と向かい合った。


「知ってる?人前で男女がイチャイチャするのを禁止してる国があるのよ。バレたら罰があるんだって」


「そうなんだ。でも俺たち日本人だし」


秦野京汰と唇を合わせる。

それは今までよりうんと長く激しいものだった。

そして、そのままきつく抱き合う。


「お誕生日おめでとう」


「31になっちゃった」


「ゆかりさん素敵だよ」


「─ありがとう」


「大好き」


「照れるよ」


あはは、と笑って秦野京汰がゆかりから離れた。


夜景を後にして適当にドライブをした。

そしてしばらくすると見慣れた景色が飛び込んできた。


「明日は何してるの?」と秦野京汰。


「結婚式の2次会での景品を買いに行く予定なの。昼過ぎには出るかな」


「何処まで行くの?」


「目的の物を買いにウロウロすることになるから特定の場所じゃないよ」


「足はある?付き合おうか?」


「大丈夫。平吉─」と言ってしまったと思うがもう遅い。

それにここで口ごもってしまえば尚更怪しい。


「隠さなくてもいいのに。平吉さんね。うーん。その人と行くんだ。2人が幹事だから仕方ない」


─はぁ。どうしよ。気まずい、気まずい。もう。馬鹿!


「心配しないでね」


ゆかりの住まいへ静かに到着した。


「俺はいつも心配してるよ。それより、コーヒー飲ませてほしいな」


ゆかりはただ頷いた。


部屋に入ると秦野京汰がいきなり謝ってきた。


「ごめんね」と俯く。


「どうしたの?」


「プレゼントはいらないって言ってたけど、用意しちゃった」


「そんな──」


事前に欲しい物を聞かれていたが、特別欲しいものはないのでプレゼントはいらないと答えていたのだが、どうやら用意をしてくれていたようだ。


「気に入ってくれるか分からないし──」と不安げに小さな箱を差し出してきた。


それを「ありがとう」と受け取る。


「開けても良い?」


その言葉に小さく頷いたので、包み紙を解いた。

そこにあったのは2つのマグカップだった。

可愛らしいミツバチのデザインは同じだが色だけが違う。


「─2つ?」


「そ、そう。厚かましいかなって思ったんだけど──もう1つのは俺ので──この部屋に置いてほしくて」


「わかった」と微笑む。




この前のように並んで座ってほっこりとコーヒーを飲む。

テーブルには、色違いのミツバチのマグカップ。

ちらりと時計を見て少し驚いた。


「もう12時過ぎてる」と秦野京汰を見ると、彼はコーヒーカップを見つめていた。


「どうしたの?」


何を考えているのか返事がない。


「眠たい?」


すると、秦野京汰が突然抱き付いてきてキスをしてきた。

背中のファスナーを下ろされ、そのまま押し倒される。


「ちょっ」


そう声が出たが、それ以上は何も言えなかった。

肩を押さえつけられて動けないまま、馬乗りになる秦野京汰を見つめる。


「いい?」と聞いてきた。


─嫌じゃない。嫌じゃないけど。


そう思いながらも小さく頷いた。





布団の中で目覚めると秦野京汰と目が合った。


「おはよう」と微笑みかけてくる。


「おはよう」


身を起こそうとして気づく。


─うわっ。何も着てない。


「どうしたの?」


「何時かなと思って」と再び布団に潜る。


「朝の8時」そう言って秦野京汰も布団に潜るとゆかりの胸の間に頭を沈め、腰に抱き付いた。


「暖かいな」と消えそうな声で言ったのが聞こえた。

秦野京汰の頭を撫でてやる。


「ねぇ、今日の買い物平吉さんに頼んだら?」


「そんなことできるわけないでしょ」


うーん。と言って秦野京汰が顔を上げた。


「ごめんね、嘘ついた」と申し訳なさそうな表情になる。


「何を?」


「今ね、11時30分なの」


─まじかっ!


ベッド脇に放り出されたワンピースを胸に当て、布団から出た。

タイミングが良いのか悪いのか、平吉からマンションの前に居ると電話がかかってきた。

少し待っててと言って急いでシャワーを浴び、化粧はせずに用意を完了させるのに20分かかった。


─なかなか上出来ね。あっ!


部屋の鍵を手にしてベッドを振り返る。


「思い出してくれた?」と秦野京汰。

服はもう着ている。


─そうだった!ごめん。忘れてた。


そんな事は言えないが、顔に出てしまっていたようだ。

悲しそうだった。


「あ、どうする?此処にいる?帰ってくるの遅くなると思うけど」


秦野京汰は否の表示をする。


「帰るよ」


「そう。なら一緒に出よう。平吉もう外で待ってるから」


秦野京汰はゆるゆると立ち上がると、ギュッとゆかりを抱き締めた。


─ここまで待たせたんだ、あと1分や2分くらいどうってことないや。


と秦野京汰のしたいようにやらせた。


二人でマンションの外に出ると、自動販売機で飲み物を買っていたらしい平吉が車へと戻るところだった。


「お、は、よ!」と呑気な平吉。


「おはよう。ごめんね遅れて」


「ゆかりが遅れるなんて珍しい。あ、どうも。俺、榎田平吉っていいます。ゆかりの友達。た、だ、の、友達」


平吉が見たこともない笑顔で秦野京汰に挨拶した。


「初めまして。俺、秦野京汰といいます」


平吉は口に手を当てると気味悪くふふふと笑った。


「男前じゃないか!いい彼氏捕まえたな。秦野くん、こんなゆかりだけどよろしくね」


「こんなってどんなよ。変な事言わないで」と平吉の肩を軽く殴る。


「そうだ。秦野くん。何処に住んでるの?送って行こうか?」


「僕、車なんで。じゃあね、ゆかりさん。落ち着いたら連絡ちょうだい」


秦野京汰はそう言って背中を見せると駐車場へと歩いて行った。


秦野京汰の後ろ姿を見ていると何だか分からない形の無いものが壊れた気がした。


「どうしたの?いつまでも別れを惜しんでるんじゃないぞ。行こう。わぁ!素っぴんじゃないか!髪も濡れてるぞ!」


「いちいちうるさいなぁ、もう!」


平吉は「熱いねぇ」と言いながら車に戻った。


その日は丸一日平吉と一緒に過ごした。

悔しいけれど楽しかった。

秦野京汰の事を考える事もなかった。

ゆかりはこれが本心なのだと翌朝気が付く。


─彼とはこれ以上は付き合えない。


ゆかりは秦野京汰に電話をかけた。


『今まで平吉さんと一緒にいたわけじゃないよね?』と一発目からむすっとした声だった。


「そんなわけないじゃない。昨日は10時くらいに帰ってきたよ」


『俺、その時起きてたけど?』


「電話しなくてごめんね」


『それが答えだよ』


─答え?


「答えって何の?」


『分かってるくせに』


─分かってる。分かってるけど、どう切り出せばいいのか分からない。


『昨日さ、部屋を出る前に俺がゆかりさんを抱き締めたでしょ?ぎゅうって。あの時本当は何か言って欲しかったんだ。「待たせてるから」とか「何してるの」とかさ。何も言わずにされるがままって、あの時の俺には「これで最後だから」って言われてる気がしたんだ。そして、連絡のない夜。これってさ、もう答え出てるよね』


そうだろう。

ゆかりが抵抗しなかった時点で答えが出ていたのだ。

いや、それよりもっと前から。


「そう、だよね。否定できない」


『ゆかりさんと付き合えて良かった。楽しかったし、幸せだったよ。待つって事も覚えたし、凄く大切な時間だ。ありがとう』


「い、いや。こちらこそ、ありがとう。私もすごく楽しかった」


『ねぇ、一つだけ聞きたいんだけど』


「何?」


『俺の事、好きだった?』


迷いはない。


「好きだったよ」


『そう。それが聞けて良かった。それじゃ、月曜日に会いましょう』


爽やかな秦野京汰だ。


そして電話が切れた。





「えぇえ!別れちゃったの!」と遥菜が叫ぶので店内の視線が三人に突き刺さる。

秦野京汰と別れて二週間後。

本日もいつもの店で盛り上がっていた。


「もったいない。優しくて男前だったのに」と平吉が可笑しそうに笑うので頬を軽くつねってやった。


「それだけじゃ上手くいかないよ」とワインを飲む。


「まぁ、そうだね。ゆかりが彼の話をしてる時、あまり恋してキラキラしてるって感じしなかったもん。彼の一方通行ってことだったんだね。可哀想に」


「もう、私の事はどうでもいいから飲もう!」


「そんなに飲んだらまた俺が送ってかなきゃならないんだぜ」と言う平吉の言葉が現実となる。

毎度の事ながらタクシーで眠ってしまい、気が付けば部屋のベッドで眠っていた。


今晩はいつもより飲みすぎた。

秦野京汰との別れが効いているのかもしれない。


「あぁん。もう、馬鹿だ」と寝転びながら罵倒する。


「誰が馬鹿だ?」とリビング方から声がした。

驚いて部屋を覗くと平吉が本を読んでいた。


「へ、平吉。どうしたの?」


「どうしたの?ってこの前と同じじゃないか。違うのは俺が帰らないってことだけ」


「ど、どうして?」


「お前、いつもより飲んでたし少し心配になって」と本を閉じる。


「そっか。ごめん。迷惑かけたね」


そう言って平吉の隣に座る。


「ゆかりが俺に迷惑をかけるのは慣れっこだからどうってことない」


そんな憎まれ口をたたかれたが言い返せる立場ではない。


その時、寝室にある鞄の中で携帯電話が鳴ったので緩慢な動きでそれに出た。


─遥菜?どうしたんだろ。


「もしもし?」


『あ!やっと起きた!今何時だと思ってるの?』


「うーんと、あ、2時。深夜の2時」


─今の遥菜の言葉、そのまま返してやりたいわ。


「どうしたの、こんな時間に」


『そこに平吉いる?』


「うん」


『あんたさ、分からない?』


「なに?」


『分かってない?』


─何が?


「何のことよ」


『平吉がその部屋にいる理由よ』


─それは、送ってくれたから。でしょうに。


『言わなくて良い!どうせあんた勘違いしてるんだろうし』


「か、勘違い?なにを?さっきから何が言いたいのか分からないんだけど?」


『平吉は必ずあんたを送っていく。終電なんて関係なしに必ずタクシーで。あんたに彼氏ができた時だってずっと。それが何でか分かる?──あんたと二人になりたかったからよ。少しでも長くあんたと居たかったから』


─そんな。


「そんな、馬鹿なこと言わないでよ。私を笑わせたいの?」


『それ、平吉には言わないでよ。あいつ、何ともない顔をしてても相当傷付いてるんだから』


「そんな」


─そんな事、急に言われても。


『分かってあげて』


電話が切れた。


「ちょっと!」


ゆかりの携帯電話のバッテリーが切れたのだ。


「もうっ!」


─何よ、何よ?どうするのよ。どうすればいいのよ!


隣の部屋には榎田平吉。


─何よ。何なの!すごく、すごく緊張する。どうしてこんなにドキドキするの。平吉じゃん。ただの友達。恋愛関係なんて。


部屋を覗くと再び本を読んでいる。

深呼吸をする。

深く深く息を吸い、深く深く息を吐く。


─そ、そうだ!聞かなかった事にしよう。うん。無かった事にしよう。それが良い。それが一番ね。うん。


「コーヒー飲む?」


声が上擦った。


「え、いいの?ありがとう」


二人分のコーヒーを用意してテーブルに戻る。

自然と少しだけ距離を空けて座ってしまうが、平吉は何ともないような表情で「美味いねぇ」と微笑んだ。


「インスタントだよ」


「ん、俺、拘りないから。美味いってのはほら、雰囲気だよ。こんな時間にこの場所で誰かと味わう何かっていう雰囲気が美味しくさせてるんだよ。きっと。気持ちの問題だな。うん」


「私と飲むコーヒーも美味しく感じてくれてるんだ?」


平吉の表情が一瞬だけ変わった。


「まぁ、そうだね。美味しいな」


─ダメだ。このまま気持ち悪く別れられないよ。好きなら好きって言ってほしい。変だな。今までならこんな状況は避けてきたのに。


「タクシー」


「え?」


「わざわざ私を送ってくれるよね?」


「それは、この前言ったじゃないか。電車が嫌いだって。ゆかりを送るのは帰り道が一緒だからだよ」


「本当にそれだけ?」


「それだけって?」


「終電に余裕がある時でもわざわざ送ってくれるでしょ?そんなにアルコール入ってない時だって必ず」


平吉の顔色が変わる。


─ちゃんと言って。


「帰り道が一緒だから。それだけだよ」


「本当に?」


「恩を──売ろうと」


「ふざけないで。ちゃんと言って」


もじもじしながら何故か正座をする平吉。


明らかに部屋の空気が変わった。


ゆかりもつられて正座する。


「─理由はない」


─もう!何なのこの男は!


平吉を睨み付けた。


「怒らないでよ」


─もう、馬鹿みたい!


苛々して立ち上がる。


「ま、待って!ゆかり!待って!す、座って!」


ゆかりは一つだけわざとらしいため息を吐くと、元の場所に座った。

すると今度は平吉が立ち上がってリビングの扉まで歩いて行くと明かりを消した。


街灯が漏れ入る僅な光がじんわりと部屋を照らす。


「何するの」


「この前の鍵の貸しを─返してくれ。明るくちゃ言えるものも言えないから」


部屋を暗くさせるだけで借りが返せるなら良いが、どれだけ小心なのよ。と言いそうになるのを堪える。

『分かってあげて』と遥菜が囁いたのだ。


背後で平吉が動く気配を感じる。

その気配はゆかりの左側に移るとそこに落ち着いた。


沈黙。

静寂。

緊張。


平吉の緊張が目に見える程に伝わってくる。


ゆかりは手探りで平吉の手を握る。


「ちゃんと言って、平吉」


その手を強く握り返す平吉。


─分かってるから。


ゆかりも強く握る。


─私も素直になるから。


「俺。ずっと──好きだった。ゆかりの事が好きだ!」


そう言って平吉がゆかりの手を引いて抱き締めようとしたが、その勢いが強すぎてゆかりが平吉の上に倒れてしまった。


「もう、どんくさいな」とゆかりは苦笑いする。


「ちょ、ちょっと力みすぎた」


「─でも、悪くない。あんたらしくて良かった。だから、ご褒美」


そう言って平吉の唇に小さなキスをした。

平吉は抱き止めたままのゆかりの背中をしっかりと引き寄せ、小さなキスの後を引き継いだ。


平吉に服を脱がされても、下着を取られても、裸を見られても抵抗はなかった。





翌朝、平吉の寝顔を見ていると何だか不思議と笑いが込み上げてきた。


「なに?」と平吉も目を覚ます。


「いや、別に」


笑いが堪えきれないので背中を向ける。


「何だよ、人の顔を見て笑うのは失礼だ」


「あれ?気付かなかった?私いつもあんた見て笑ってるんだけど」


「おいっ」と平吉がゆかりの身体を抱き寄せた。


─そう。そうなのよ。


ゆかりは平吉の腕をそっと抱える。


─私が望んでいたのは。こいつだったんだ。


「暖かくて気持ちいいね」


そう言って平吉に向き合うとお互いに優しく抱き合った。



END


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― 新着の感想 ―
[良い点]  主人公が内心で、ずばずば正直にものを言っているところですね。普段我々が現実に対して思っていることがそのまま表れていて、作品に独特のリアリティーを醸し出していたと思います。 [気になる点]…
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