現代における吸血鬼
5
「あの、クローデルさん、パン買って来ました。」
クローデルさんにパシられ、指示通りに近くにあったコンビニで菓子パンを3つほど購入し、私は再び部屋の前に立っていた。
数回呼びかけても部屋の中からは返事がないし、インターホンも取り付けられてなかったので、私はドアをノックすることにした。
「クローデルさん?」
こんこんと控えめにノックしながら名前を呼ぶと、ようやく室内から返事が返ってきた。
「開いてるから勝手に入れ。あ、入ったらすぐにドア閉めろよ。」
「わかりました……。」
ドアを開けて中に入ると、先程とは違って申し訳程度に部屋に明かりが灯っていた。
このおかげで、私は先程は見られなかった部屋の中の様子を観察することができた。
(汚い部屋ですね……。)
第一印象は汚いの一言に集約される。
物自体はそこまで多くないものの、よく分からない言語で書かれた本や段ボール箱が無造作に置かれている。まるで未整備の倉庫のような部屋だった。
また、部屋の隅には西洋で見られるような豪華な木棺がどんと鎮座しており、それだけが異様な存在感を放っていた。
クローデルさんはその棺の中にいるのか、手だけを出して私に手の甲を見せていた。
「それ、まるで吸血鬼みたいですね。」
冗談交じりに言うと、クローデルさんは話に乗ってきてくれた。
「よく分かったな。オレは世にも恐ろしいヴァンパイアだぞ。」
私はさらに言葉を続ける。
「へー、それじゃ血も吸ったりするんですか?」
「そりゃあ吸血鬼っていうくらいだからな。今でもたまに吸ってるぜ?」
「はいはい、そうですか。」
クローデルさんはそれ以上冗談を言わず、棺から出した手を上下に動かした。
「それより、パン買ってきたんならさっさと寄越せ。……あ、袋も空けといてくれよ。あれ、綺麗に開けるの面倒なんだよな。」
「……。」
私は言われた通りに3つとも袋の口を開け、1つずつクローデルさんの手の上に載せていく。
3つ全てを渡し終えると、クローデルさんは自ら棺の蓋を閉めてしまった。
変な人だとは思っていたけれど、ここまで奇抜なことをするとは思ってなかった。でもこういうタイプの人にはボランティアサークルの活動で結構会っているし、それと比べればこんなのは序の口だった。
――この後は何をすればいいのだろうか……。
結局私には手を出してくる様子もないし、でも、パシリだけでクローデルさんが満足するとも思えない。
気になった私は棺をこんこんと叩き、中のクローデルさんに話し掛ける。
「……あの、私に何もしないんですか?」
控えめな口調で質問すると、中からくぐもった声が返ってきた。
「なんだ涼子、欲求不満か?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけれど、何だか意外といいますか、実は紳士な方だったんですね。あの時助けてくれなかったら今頃酷いことになっていたと思います……。本当にありがとうございました。」
「礼を言う暇があるなら朝飯も作ってくれねーか。そろそろ朝だろ?」
朝という言葉を聞いて私は窓の方を見る。
しかし、窓には雨戸が取り付けられて、外の様子が全くわからなかった。
「クローデルさん、外見えないんですけれど……」
「時計見りゃ日の出の時間くらい分かるだろ。今何時だ?」
携帯電話を取り出して時刻を確認してみると、朝の6時を少し過ぎていた。
もうこんな時間になっていたことに私は驚いてしまう。
賭博場を出たのが夜の2時くらいだったから、逆算すると3時間近く迷子になっていたみたいだ。いやはや、時間の感覚というのはあてにならないものだ。
「えーと、6時3分です。あと、日の出の時間は……」
携帯を使って検索していると、それよりも先にクローデルさんが時間を教えてくれた。
「今日の日の出は6時5分だ。……あと2分で朝だな。」
ここ最近日の出なんて拝んだこともないし、久々に見てもいいかもしれない。
そう思い立ち、私は部屋の東側のガラス窓を開け、さらにステンレス製の雨戸を外すべく手を掛ける。しかし、ロックを外した所でクローデルさんが棺から出てきて私の服を強く引っ張った。
「待て、勝手に開けるなよ。」
「え? あっ……」
私はいきなり窓から引き離され、そのままバランスを失って後ろ向きに倒れ、床に尻餅をついてしまう。その際、床に落ちていた本の角がお尻に突き刺さり、結構な痛みが臀部に走った。
「いたた……。いきなり何ですかクローデルさん。窓くらい別に開けたっていいじゃないですか。部屋に光が入れば気持ちいいですよ?」
お尻を擦りながら文句を言うと、クローデルさんは真面目な口調で私に告げる。
「オレがヴァンパイアだって言ったの忘れたのか? 太陽光に弱いことくらいお前でも知ってるだろ……。絶対に窓には触るなよ。」
いつまでこの冗談を続けるのか……。
クローデルさんはそれだけ言うと再び棺の中に戻っていく。
「オレは昼まで休むから、その間に朝飯作っとけよ。」
一方的に私に命令するとクローデルさんは棺の蓋を閉じ、続いてカチャリという錠の音が聞こえてきた。
(まさか、本当にヴァンパイアだったりするんでしょうか……?)
重ねて言うが、私は幽霊は信じない派だ。
妖怪も怪人も信じない。もちろんその中にヴァンパイアも含まれている。
(ま、さすがにあり得ないですね。)
冗談でないにしろ、単に皮膚病とかで紫外線に弱い人なのかもしれない。そう考えるのが自然だ。
……とにかく深く考えるのはやめよう。
私は日の出を見るのを諦め、窮地から助けてくれた恩人に朝ご飯を作ることにした。
6
朝ご飯どころか部屋の掃除までやってしまった私は、綺麗になった部屋でぼんやりとしていた。
徹夜をしたせいでかなり眠い。
その上、朝ご飯を作って部屋の隅々まで掃除までしたのだから眠くないわけがない。
床に座って棺の蓋の上に両腕と頭を載せて寄りかかるようにしていると、自然とあくびが出てしまった。
「……んん。」
あくびが出たついでに私は両腕を前に伸ばして背筋を伸ばす。すると体の節々が伸びてなかなか気持ちが良かった。
「ふぅ……」
相変わらず部屋も暗いし、一段落したせいか、段々と眠気が襲ってきた。
今すぐ家に帰ってベッドに入りたいのだが、クローデルさんを放ってはおけない。
それに、気になることや聞いておきたいことも色々とある。
「……。」
まどろみの中で考え事をしながらうとうとしていると、いきなり棺から錠の開く音がした。
「!!」
私はすぐに棺から離れようと上体を起こした。……が既に遅く、無常にも棺の蓋は勢い良く開かれてしまった。
棺に体重をかけていたせいで私は蓋ごと上に持ち上げられ、蓋が開ききると今度は棺の中に上半身ごとダイブしまった。
その際、頭をクローデルさんの体にぶつけてしまい、棺の中から痛々しい呻き声が聞こえてきた。
「うっ……いてーな。」
しかし、クローデルさんは私の頭をのけることなく抱えたまま棺の中で起き上がる。
そのおかげで私もすぐに棺から脱出できたのだが、離れる際に髪を引っ張られてしまった。
私はどこかに髪が引っかかったのかと思い、ゆっくりと頭を回転させる。
すると、すぐに髪を引っ張っていたのがクローデルさんだということが分かった。しかもあろうことか、クローデルさんは私の長い髪を持って匂いをかいでいた。
「うーん、いい匂いだ。色ツヤもいいし長さもいい、健康そのものだなぁ。」
「ちょっと、当たり前のように匂わないでください。変態っぽいですよ。」
「なんだよ。これだけ手入れしてる髪を見て触らないほうが失礼だろ。」
「どういう理屈ですか……。」
……髪が綺麗だというのは自分でも思っていることだ。
この黒い髪はおじいさんやおばあさん達に何度も褒められているし、毎回会話の話題にできるくらい見た目もいいのだ。
褒められて悪い気はしないがいつまでも髪を弄ばれていると何だか恥ずかしい。
私はさらに棺から離れて髪をクローデルさんの手から引き離す。そして、作った料理を台所からこちらに持ってくることにした。
「朝一でスーパーに行って色々買い足して朝ごはん作りましたから……。どうぞ食べてください。」
「わざわざ買い出しに行ってくれたのか。冷蔵庫にあるもの使えば良かったのに。」
「なかったからスーパーに行ったんです。」
冷蔵庫にろくな物はなく、主に缶ビールや酎ハイなどが詰め込まれていた。
食器棚らしき場所にも何もなく、ワインやブランデーなどのボトルで埋め尽くされていて、料理に使えそうなものは殆ど無かった。
調味料も塩以外なかったし、この人が料理をしていないのは明らかだった。
結局、食材の他にも調味料やらを揃えるのに無駄なお金を使ってしまった。
(こんな事なら、一旦家に帰って作ったほうが良かったかもしれないですね……。)
そんな事を考えつつ、私は改めて作った料理を見る。
メニューは鮭の塩焼きに味噌汁にゴボウの和え物、そしてほうれん草のおひたしだ。
お米は炊飯器がなかったので鍋で炊いた。
久々だったので分量を忘れかけていたが、上手く炊けたと思う。実際食べてみて美味しかったし問題ない。……余談だが、私はお米は少し固めの方が好きだ。そちらのほうが濃い味のおかずとよく合う。
お盆の代わりにダンボール板を使って朝ご飯を運んでいると、クローデルさんは周囲の変化に気がついたようで部屋をじっくり見渡していた。
「お、掃除までしてくれたのか。」
「はい、あまりにも埃っぽかったので……。」
勝手に物を動かしていいのかと疑問に思いつつ掃除したのだけれど、どうやら良かったみたいだ。クローデルさんは満足気に頷いていた。
「やっぱり、ぱっと見で面倒見が良い奴だと思ってたんだよ。」
「こんな部屋見せられたら掃除もしたくなります。……はい、どうぞ。」
棺から出てきたクローデルさんに朝ご飯を差し出すと、クローデルさんは目を見開いて私の手元を凝視していた。
「おお!? これ全部涼子が作ったのか……。見た目に似合わずすごい特技持ってんだな。見直したぞ涼子。」
褒められて悪い気はしない。
涼子涼子と呼び捨てにしているのも許してあげよう。
「どうも……。」
私は照れつつもクローデルさんに朝ご飯の載った盆を渡す。クローデルさんはそれを部屋の中央にあるちゃぶ台の上に置いて早速食べ始める。
「これうめーな。」
「そうですか……って、食べるの早過ぎませんか!?」
クローデルさんは鮭の塩焼きを一口で食べ、ゴボウの和え物と一緒に豪快に噛んで飲み込み、さらにほうれん草のおひたしを味噌汁の中に投入して一気に飲み込むと、最後にご飯を掻き込んだ。
フードファイターもびっくりの食べっぷりである。
ここまですごいと見物料を取ってもいいくらいだ。
「ごちそうさん。……じゃあ晩飯も作っといてくれ。オレは日が落ちるまで寝る。」
あっという間に朝食を食べたクローデルさんは再び棺に戻っていく。
「また寝るんですか?」
「おうよ。」
寝るのは別に構わないけれど、晩ご飯を料理することには同意しかねた。
私は棺に入るクローデルさんを引き止めてそのことを告げる。
「晩飯って……私、そろそろ家に帰りたいんですけれど。」
「何でも言うこと聞くんだろ? まさか、これだけでチャラになるとは思ってねーよな?」
「……。」
何でもするといったのは確かだ。
でも、このように家事をさせられるとは思っていなかった。
(あ、まさか……。)
不意に脳裏にある可能性が浮かび、私はクローデルさんに質問してみる。
「もしかして、これからずっと家政婦をしろってわけじゃありませんよね?」
「よくわかってるじゃねーか。」
「まじですか……。」
これからずっと言うことを聞かなければならないなんてあんまりすぎる。
私が肩を落とすと、クローデルさんは笑みを浮かべながら言い放った。
「あんな所に来たことを後悔するんだな。」
クローデルさんの言うことももっともだ。
しかし、それで話を終わらせるわけにもいかず、私は負けじと食い下がる。
「私こう見えて大学生なんです。ですから、ずっとここで面倒見るというのはちょっと無理があるといいますか……。お願いします、これ以上は勘弁して下さい。」
私は頭を下げて懇願する。もしこれで駄目ならすぐにここから逃げよう。
しかし、簡単にクローデルさんは折れてくれた。
「オレも一日中ずっとやれなんて言ってねーぞ。週に1回か2回、昼間だけでいい。いわいるデイサービスってやつだな。」
「デイサービスというより出張デイサービスですよ……。」
私は思わずクローデルさんの言葉を訂正してしまう。
しかし、今はそんな事はどうでもいい。根本的な問題が全く解決していない。
この先ずっとその条件で週2日も拘束されるのは色々ときつい。
私は改めてクローデルさんに確認してみる。
「週二回も昼間に家事をしろって本気で言ってるんですか? 冗談ですよね……?」
「本気だぞ? オレたちヴァンパイアは太陽光にめっぽう弱いから昼間自由に動けねーんだ。だから、昼間自由に動けるお前らに色々やってもらおうってわけだ。分かったか?」
まだクローデルさんは吸血鬼の冗談を続けているみたいだ。
いい加減呆れた私は強めの口調でクローデルさんを非難する。
「あのですね、この期に及んで『ヴァンパイア』だなんて、そんな冗談――」
言葉の途中、私はクローデルさんの紅い瞳を見て言葉に詰まってしまう。
「……。」
初めは私を誂うためのごっこ遊びか冗談かと決め込んでいたのだが、彼は実は本物の吸血鬼ではないのだろうか。
棺についてはもちろん、不良たちを撃退してくれた時のクローデルさんの動きは見たことがないくらい速かった。瞳も真っ赤だし肌も白いし、映画で見るようなヴァンパイアの特徴と一致しているようにも思える。
現代の、しかも日本でヴァンパイアがいるだなんてあまりにも馬鹿げた考えだけれど、試してみる価値はあるかもしれない。
「……ちょっとクローデルさん、こっちに来てくれませんか。」
「ん? なんだよ。」
「いいですから。」
私はクローデルさんを棺から引っ張り出して玄関まで移動する。
そしてクローデルさんをドアの前に立たせ、何も言うことなくドアを開けた。
すると斜め方向から入ってきた日光が玄関に斜影を作り、クローデルさんの右足だけを照らした。
その瞬間、クローデルさんは悲鳴を上げた。
「ギャー!! 焼ける焼ける!!」
クローデルさんはすぐさま部屋の中に転がり込んで右足を押さえる。
かなり痛そうにしていたので、私はすぐに謝ることにした。
「すみません。」
謝りながらも私はクローデルさんの右足を確認する。
そこには信じられない光景があった。
(あっ……嘘、こんな事が……)
――裸足だった右足の部分が若干黒く変色しており所々ひび割れていたのだ。
こんな現象は普通の人間には起こり得ないし、紫外線に弱い病気の人だったとしても、こんなことになるとは思えなかった。
「殺す気か!? ……まったく油断も隙もねーな。」
クローデルさんがそう言っている間に足は元通りの色になっていき、周囲に黒くひび割れた皮を落としていく。
足が完全に元通りになると、クローデルさんはそれをパリパリと踏みながら私に歩み寄ってきた。
「……これで信じたか?」
「はい、一応。」
ちょっと日光に当たったくらいで肌が黒く変色する人間なんて聞いたこともない。クローデルさんも自ら名乗っているのだし、いよいよこれは本物の本物みたいだ。
普通なら、ここで目を見開き両手を口に当てて大袈裟に驚いてもいい所だ。
しかし、私にとっては驚きよりもがっかりという気持ちの方が強かった。
「ヴァンパイアってもうちょっと高尚な存在だと思ってたんですけれど、クローデルさんを見てなんか幻滅しちゃいました……。」
アル中のギャンブラーというだけでもイメージが悪いのに、女性にセクハラを行い、汚い部屋に住んでちょっとした朝ご飯を有り難がって食べるヴァンパイアなんて聞いたことがないし、私のイメージと全く合致しない。
素直なコメントを述べ、私はさらに言葉を続ける。
「これじゃヴァンパイアと言うよりただの太陽が苦手なろくでなしじゃないですか。……というか、足はもう大丈夫なんですか?」
私の確認に対し、クローデルさんは右足を持ち上げてそれを手でバシバシ叩く。
「もう平気だ。かなり酷いことを言われた気がするんだが……とにかく、こういうことだから昼間よろしく頼むな。ちゃんと給料も出すし、しばらく試しにやってみろよ。」
「バイトですか。だったら考えてみてもいいですね。」
一応は私の貞操を守ってくれた恩人だし、お金が出るなら家事くらいやってもいい。
すぐに私は労働条件についてクローデルさんに訊いてみる。
「それで、時給はどのくらいですか?」
「時給は……200円くらいだな。」
「失礼させてもらいます。」
私は200円という数字を耳にするやいなや玄関に向かう。もちろんこのまま逃げるつもりだ。自分で昼間出歩けないと言っていたし、私が夜に出歩かなければクローデルさんと遭遇することもないだろう。
靴を履いて部屋の外に出ると、すぐにクローデルさんが日光が入るぎりぎりの場所まで追いかけてきた。
「待て待て待て!! 200円で十分だろーが。そんなに不満か?」
「ええ不満です。最低賃金を一回りも二回りも下回ってますよ……。」
不良たちから助けてもらった事に対しては感謝している。
でも、それとこれとは話が違う。
そのまま部屋から離れていくと、背後からクローデルさんの捨て台詞が聞こえてきた。
「あーあーそうか。だったらさっさと帰れよ、この恩知らずめ。」
「む……。」
恩知らずと言われるのもなんだか心外だ。
でも、身体で恩を返したならまだしも、料理と掃除だけというのは恩返しとしては釣り合わない気がする。
吸血鬼というものにも多少興味はあるし、クローデルさんが満足するまでバイトをしてやろうではないか。
そうと決まると、私は再び玄関まで戻る。
「わかりました、やります。……でも、本当に200円でこき使うつもりなんですか?」
部屋の中に戻りつつお金に関してしつこく言うと、クローデルさんは玄関にあったメモ用紙に何かを書き込みはじめる。
「……そんなに金がほしいならオレより金払いがいいヤツに会ってみるか? どっちにせよヴァンパイアについて基本的なことは知ってもらわねーと困るし、とりあえずドナイトの所に行ってこい。」
「そのドナイトって人も……」
「もちろんヴァンパイアだ。今住所書いてるから待ってろよ。」
やはりというか、他にも吸血鬼はいるみたいだ。
……例えが悪いかもしれないが、あの黒光りする昆虫は一匹いたら百匹はいるというし、この付近にも実はたくさん吸血鬼が潜んでいるのかもしれない。
そんな失礼なことを考えていると、クローデルさんがメモを私に手渡してきた。
そこには住所と簡単な地図が描かれていた。
「その場所に行ってオレの名前を出せば部屋に入れてもらえる。……お前みたいな健康そうな女はドナイトの好みだろうし、お願いすれば色々丁寧に説明してくれるだろ。」
「……。」
本当は、こんなことは無視して家に帰りたい。
でも、せっかく吸血鬼に遭遇できたのだし色々と詳しく知りたい気持ちもある。
そんな好奇心に負けた私はクローデルさんの提案を受け入れることにした。
「わかりました今から行ってみます。……そのついでに晩ご飯の買い出しに行ってきますから、お金下さい。」
「おー、わかった。」
クローデルさんはすぐに万札を取り出し、私に渡してきた。
それを受け取ると、私は再び玄関から部屋の外に出る。
ドナイトという人がクローデルさんみたいな人じゃないことを祈りつつ、私は指示された通りにその場所に行ってみることにした。
7
「この道で合ってますよね……?」
クローデルさんからもらった地図のとおりに進んでいくと、住宅街からどんどん離れていき、私はそのまま山道に入ってしまった。地図にも山らしき絵があるので道は間違っていないと思うけれど、こんな場所に家が建っている気がしない。
周囲に見えるのは緑色、そして紅葉しかけた木々だけだ。
それにしても、もうすぐ秋だというのにまだまだ暑い。
山に入って少しは涼しくなったが、それでも額にうっすらと汗がにじむ程度の暑さは感じていた。
(本当にこんな場所に住んでるんでしょうか……)
……実は、家に住まないで洞窟とか岩の間で生活しているサバイバルな吸血鬼なのかもしれない。
でも、地図には家の絵も描かれているし、多分それはないだろう。
どんなヴァンパイアなのか想像しつつ、私はさらに奥に進んで行く。山の中腹辺りまで来ると地図に描いてある通り、目立たない場所に獣道を見つけた。細く伸びるその道を歩いて行くと、すぐに周囲を高い木で囲まれた開けた場所にでた。
(こんな所に家が……)
鬱蒼と木々が生い茂るその場所には寂れた一軒家が建っていた。
その木造の平屋建ての家は日本の古民家と言うよりはむしろログハウスに近い形をしている。周囲は完璧に木々に覆われており、偶然来れるような場所ではなかった。
とにかく私はその家の入り口まで歩いて行き、ドアノッカーを叩く。
「こんにちはー……。」
金属がぶつかる小気味のいい音を聞きつつ、私は挨拶した。しかし全く反応がない。
私は暫く間を置いてからもう一度ドアノッカーを叩く。
「あのー、クローデルさんの紹介で来た松乃木涼子です。……ドナイトさんのお宅ですよね?」
先程より少し大きめの声を出すと、今度はすぐにドアの向こう側から厳かな男性の声が返ってきた。
「――鍵は開けてある。入るといい。」
その言葉の後、ドアから離れていく足音が聞こえた。
勝手に入れということだろう。私はその言葉通り遠慮なく家の中に入ることにした。
「おじゃまします……」
ドアを開けると、例によって暗い空間が私を出迎えてくれた。
クローデルさん同様、ドナイトという人も日の光を完全に遮断しているみたいだ。
ドアから入ってくる光を頼りに中に足を踏み入れると勝手にドアが閉まってしまい、私は何も見えなくなってしまった。
だがそれもほんの数秒のことで、すぐに薄暗い電灯が点いて周囲をほのかに照らす。
「あれ……?」
周囲を見ると、中には家具も何もなく、ただ空間が広がっているだけだった。おまけに先ほど聞こえてきた厳かな声の持ち主の姿も見られず、私は少し狼狽えてしまう。
「あのう、ドナイトさん……?」
「こちらだ。」
再び聞こえてきた厳かな声に反応し、声の元を辿ると床から顔を出している人影が見えた。どうやら地下室があるみたいだ。
なるほど、日の光を避けるには格好の場所だ。
私はすぐにそこまで移動し、床に取り付けられた扉を抜けて人影の後に続いた。
扉の中に入ると地下に続く階段があり、その先には少し明るい灯りが見えた。
湿った空気を肌で感じつつ慎重に階段を降りていくと、やがて広い地下室に到着した。
そこは一般的な教室くらいの広さがあり、天井や壁には漆喰のような物が塗られていた。床も綺麗に平になっていてカーペットが敷かれていた。
数本の太い柱もあり、なかなか堅牢な造りをしているみたいだ。また、この部屋以外にも部屋があるみたいで、壁にはドアらしきものが数個見えていた。
そんな風に室内を観察していると、再び声が聞こえてきた。
「さあこちらだ。足元に気を付けるといい。」
「あ、はい。」
暗くてまだ人相も分からないし、少ししか会話をしていないので何とも言えないが、動きや言葉遣いは穏やかだし、クローデルさんよりも礼儀正しい人なのは間違いなかった。
私は案内されるがまま地下室内を歩いていく。
室内には小規模の図書館くらいの本があり、壁に並ぶ本棚にはよく分からない言葉の本がたくさんあった。
そう言えば、クローデルさんの部屋にもこんな本があった気がする……。
背表紙にある文字は金の糸で刺繍されているみたいで、暗闇の中でもうっすらと光っていた。
本棚を見ている間も私は更に奥へ連れられて行き、最終的に小さな部屋に案内された。
その部屋は先ほどまでとは違いすっきりとした場所であり、天井からはお洒落なランプが吊るされていた。
そのランプのおかげで私はようやくドナイトさんの姿をしっかりと見ることができた。
ドナイトさんはクローデルさんと同じく赤の瞳を持ち、真っ白な肌をしていたが、体格や髪の色、そして着ている服もクローデルさんとは全く違っていた。
濃いグレーのオールバックの髪は同じ色の顎髭とマッチしており、険しい面構えにもピッタリだった。しかも厳ついだけでなく、その落ち着き払った表情からは高貴さや知性がにじみ出ているように思えた。
そんな頭部を支えている首は異様に太く、さらにその下にある体は筋骨隆々という言葉がよく似合うほど立派な体格をしていた。
また、その太い首にはネクタイが巻かれていて、サラリーマンが着るようなワイシャツとスラックスを着用していた。ワイシャツの上には黒のシンプルなベストを着ており、胸元からは銀色に光るネクタイピンが覗いていた。
室内に入ったドナイトさんは綺麗な彫刻のあるテーブルセットに座り、どこからともなく出てきたティーカップを手にしてその中身を上品に啜っていた。
どうやら紅茶らしい。濃厚で上品な香りがこちらまで漂ってきていた。
「私がドナイトだ。君は松乃木涼子君だったね。……とにかく掛けてくれたまえ。」
「はい、失礼ます。」
座るように促され、私は部屋の中央にあるテーブルセットに座る。
すると、ドナイトさんは私にも紅茶の入ったティーカップを渡してくれた。
「粗茶で悪いが我慢してくれ。」
「いえ、お構いなく……。」
断りを入れて紅茶を受け取ると、間を置かずドナイトさんが話しかけてきた。
「さて、まずは簡単な事情を説明してくれないか。あのクローデルが私に人を紹介するなど初めてのことだ。……何があった?」
私は紅茶を手にしたまま答える。
「簡単に言いますと、クローデルさんに危ない所を助けられてしまいまして、その時に“お礼に何でも言うことを聞く”と約束したんです。それで、よく分からないまま家事手伝いのバイトをすることになったと言いますか……。」
あまり釈然としない説明だったが、ドナイトさんはすぐに理解してくれた。
「ほう、クローデルが人助けをしたのか……。」
また、ドナイトさんはクローデルさんの行動に驚いているみたいで、顎髭を手で撫でて悩ましい表情を浮かべていた。
「それで、クローデルは涼子君に何をさせたんだ?」
「一応部屋の掃除と朝ご飯を作りました。」
「ほう、涼子君は料理が上手いのか。」
「はい、小さい頃から公民館でおばあちゃん達と一緒に料理を作ってましたから。ひと通りのことはできます。」
「なるほど、食生活が壊滅的に貧しい我々には喉から手が出るほど欲しい人材だな。」
少し料理が上手い程度でここまで有難がられるとは思ってもいなかった。
その辺りも詳しく知りたかったので、私はクローデルさんに言われた通りドナイトさんに説明をお願いすることにした。
「実は私、クローデルさんにヴァンパイアについて説明を受けてこいって言われているんですけれど、説明をお願いできますか?」
「ふむ。働く働かないは別として、まずは我々のことについて説明せねばならんな。」
ドナイトさんはテーブルに両肘をついて手を組み、手始めに私に質問してきた。
「涼子君、ヴァンパイアについて知っていることはあるかね?」
「えーと、人の血を吸い尽くして殺してしまうとか、あとは十字架とニンニクがダメだとか……。それに太陽光に弱いんですよね。」
クローデルさんの足は日焼けと言うよりも文字通り焼け焦げた感じだった。やっぱり太陽の光をまともに浴びるとどっかの映画みたいに灰になってしまうのだろうか。
私の回答を聞いたドナイトさんは目を閉じて二度ほど頷いた。
「うむ、それが世間一般で言うヴァンパイアだな。ヴァンパイア以外にも血を吸う怪人や怪物などの類の伝承は結構ある。……だが、どれも真実ではないと言っておこう。」
「あの、真実じゃないと言われましても……現に私の目の前にいるんですけれど。」
私の言葉を受け、ドナイトさんは言い直す。
「コウモリに化けたり、鏡に映らないなどといった超常現象は全部デタラメだと言いたかったんだ。血も吸うには吸うが、吸わなければ生きていけないという事もない。少し違うだけで我々も人間だということだ。」
「同じ人間……。」
だいぶ違うように思うけれど、姿形はほとんど一緒だし意思の疎通も普通にできている。でも吸血鬼は吸血鬼だ。
私が怪訝な表情を浮かべていると、ドナイトさんはもっと核心に近い話をしてくれた。
「いいかい涼子君、ある組織が行った最近の研究でヴァンパイアは“かなり特異なウイルスに感染した病人”だと判明している。……我々はこのウイルスに侵されることで長寿や身体能力の強化といった身体的なアドバンテージを得るが、その代償として生殖機能と陽の光への耐性を失っている。そのため、仲間を増やすには従者を作る以外の方法がない。」
「そうなんですか……。」
嘘か本当かはともかく、なかなか興味深い話だ。確かに、ウイルスが原因ならなんとなく納得できる気がする。仲間を増やすというのも単に感染者を増やすということなのだろうか。
さらに興味が湧いてきた私は質問を重ねる。
「その“従者”はどうやって作るんです?」
「従者というのは詰まるところ半ヴァンパイアだ。言い換えれば潜伏期間中の感染者とも言えるな。……従者は昼間でもある程度活動でき、主人を守る役目を持つ。昔は身の回りの世話をさせるために血を分け与えて従者を際限なく作っていたんだが、最近は『ハンター』の勢力が強くなってな。……君のような人間が重宝されているわけだ。」
なるほど、意外と合理的な仲間の増やし方のように思える。
でも、ハンターという言葉が何を意味するのか理解できず、私は眉をひそめてしまう。
すると、それを察してくれたのか、ドナイトさんがすぐに解説してくれた。
「すまない、説明不足だったな。……ハンターというのは文字通り我々吸血鬼を狩る者達だ。かなり完成された組織でなかなか厄介な連中だ。」
そこまで言うとドナイトさんは手を組むのを止め、指先でテーブルの表面をトントンと叩く。
「……従者には吸血鬼になったことを後悔する者が多い。ハンター達はそんな従者に金を渡して利用し、組織的に情報を収集している。医学の進歩のおかげで従者になっても数年以内であれば元通りの体に戻れるから、従者の大体が主人である我々を裏切ってハンターに協力することになる。」
「なるほど、だから頼りない従者の代わりに私みたいな一般人を雇おうって話になったんですね。」
「なかなか理解力があるな。気に入ったぞ涼子君。」
ヴァンパイアの世界もいろんな複雑な事情があるみたいだ。
私が大人しく話を聞いている間、ドナイトさんはどんどん饒舌になっていく。
「我々の体感では従者の離職率は9割を誇る。まともに従者になるのは1割ということだが、その内の8割がやる気が空回りしてつまらないミスで死ぬ。残りの1割の2割……すなわち100人に2人は半世紀から1世紀の潜伏期間を経て最終的にウイルスが発症して完全なヴァンパイアになる。それでようやく独り立ちだが、そうなると世話をしてくれる人がいなくなる……。」
「結構少ない数字ですね。」
話を聞くと、子孫を残すためではなく、むしろ自分の生存率を上げるために仲間を増やしていると考えられなくもない。
私のコメントにドナイトさんは同意した。
「ああ、昔と比べるとだいぶ少ない。最近は吸血鬼に興味がある人間もいなくなって従者も作りにくくなっている。それに、9割が主人を裏切るとなれば作らなくなるのが自然だ。未だに従者に世話させている者もいるが、ハンターの活動が盛んな今はあまりにも危険すぎる。従者が簡単に主人を裏切るのだから、システムが根本から崩壊しているわけだ。」
ドナイトさんはさらに話し続ける。
「私は従者を持たずにここでひっそりと暮らしている。普通ならば従者がいないとハンターにやられて死んでしまう可能性がぐんと上昇するが、ただ生きるだけならば引きこもっていれば問題ない。……だが我々も人間だ。こういう生活を続けていると精神衛生上良くない。つまり、君のような生活の手助けをしてくれる人間の存在は我々にはとても有難いわけだ。――これで分かってくれたかな?」
「普通の人間も裏切る可能性は十分にあると思うんですけれど……。」
ハンターとやらに大金を貰えば私だって情報を流すかもしれないのによくここまで話せるものだ。
ドナイトさんは私の問いに間を置くことなく答える。
「心配ない。普通の人間にとって重要なのは金だ。つまりハンター以上の金で雇っている限り安全は保証される。」
流石にこれには反論できない。
でも、ここまで私に話すだけでも十分危険なのは間違いなかった。
「そんなに私にペラペラ話していいんですか? 私がそのハンターとかに喋ったらどうするんです?」
言ってしまった後で、こんな事を言ったら口封じに殺されるのではないかと思ったのだが、ドナイトさんからは至極まともな答えが返ってきた。
「ハンターは見つけたくても見つけられるものじゃない。涼子君が見つけられるならとっくの昔に我々が探し出して先手を打っている。」
「確かにそうですね……。」
「それに、信用を得るためにはまず我々のことをよく知ってもらうのが大事だと考えている。……信頼という物は何物にも代え難い。それは多くの従者を持って痛いほど身にしみているからな。」
ドナイトさんも従者に裏切られた経験があるのだろうか。
信頼という言葉をとても辛そうに話していた。
「……だから涼子君も我々を信頼して働いてくれないか。ハンターまでとは行かないもののそれなりの給料を保証できる。考えてみてくれ。」
お金の話が出たことで、その従者とやらがどのくらいのお金で裏切っているのかが気になり、私はドナイトさんに詳しい金額を訊いてみる。
「気になったんですけれど、ハンターが従者に渡す金って具体的にどのくらいなんですか?」
ドナイトさんは再び顎髭に手を当て、しばらく間を置いて教えてくれた。
「そうだな……。程度に依るが、ハンターに我々の情報を売ると日本円で大体3000万円から5000万円ほどの見返りがあると聞いている。」
「そんなに貰えるんですか!?」
金額の大きさに驚き、私は思わずティーカップから手を離してしまう。
ドナイトさんはそのティーカップがテーブルの上に落ちる前に素早く手を伸ばしてキャッチし、私に手渡してくれた。
そんな芸当に私はさらに驚いていたのだが、ドナイトさんは当たり前のように話を続ける。
「金額についてはそこまで驚くこともない。その大半がウイルスの治療代に替わるらしいからな……。しかし、向こうさんの資金が潤沢なのは事実だ。ハンターの組織以外にも疾病対策センターやら宗教関係の団体、果ては先端科学技術の研究施設までもが絡んでいる。我々が消滅するのも時間の問題だろう。」
「本当に厄介な相手なんですね。それにしても5000万円ですか……。」
「涼子君、そんなに大金が欲しいなら知り合いのアハトを紹介しよう。」
「え……?」
私が金額について詳しく聞いてしまったせいか、ドナイトさんは私がお金を要求していると誤解したみたいで、お金持ちのヴァンパイアを紹介してくれた。
「私は別にそんなつもりで言ったんじゃ……」
「彼はドイツの資産家と共生していた珍しいヴァンパイアだ。かなり良好な関係を築いていたらしい。彼の死後に莫大な資産を相続している。私が見た感じでは、君は絶対に彼に気に入られるだろう。」
「莫大な資産……?」
「ああ、詳しいことは知らないが、いくら使っても増え続けるくらいの資産らしい。」
利子だけで豪遊できるほど莫大なのだろうか。
ドナイトさんが紹介してくれたということは、そのアハトというヴァンパイアは5000万円を簡単に出せるくらい金持ちなのかもしれない。
(金持ちヴァンパイアですか……。)
いまさら誤解ですと言い出せず、私は甘んじてドナイトさんの提案を受け入れることにした。……もらえるお金は多いに越したことはないのだ。
「わかりました、紹介お願いします。」
「了解した。明後日くらいにはアハトに会えるだろう。」
ドナイトさんはすぐに懐から万年筆を取り出し、棚から出した便箋に何かを書き始める。何を書いているのか気になるけれど、ペンの動きからして日本語じゃなさそうだし、見るだけ無駄な気がしていた。
じっと見ているのも何なので、私は手伝いを申し出ることにした。
「あの……せっかく来たんですし、何かして行きましょうか?」
「それでは私が紹介状を書く間本の整理を頼もうか。すぐに書くから帰りにポストに投函しておいてくれ。」
「はい、わかりました。」
……その後、私は10分ほど本棚に溜まった埃を祓って簡単に掃除をすると、ドナイトさんから封筒を受け取ってログハウスを後にした。
山の緑は夕日に照らされて綺麗な紅に染まっていた。
8
ドナイトさんから預かった紹介状を郵便ポストに投函すると、私はスーパーで食材を買い、すぐにクローデルさんの夕食を作るためにボロアパートに向かった。
もらっていた合鍵で暗い部屋の中に入ると、そこで私はクローデルさんの軽いセクハラに耐えつつ夕食を作った。
ついでに夜食も作らされ、全て終えて家に帰るころには夜の9時を回っていた。
丸二日も同じ服を着たままだったのですぐにシャワーを浴びたい気分だ。
(はぁ、疲れました……。)
体の節々に疲労を感じつつ自室がある学生アパートに帰っている間、私は昨日と今日の出来事を思い返していた。
――ヴァンパイア……
そんなものがこの世に存在しているとは思ってもいなかった。
ドナイトさんは病気の一種だって言っていたけれど、あれは明らかに病気と言うより人間じゃなくなっている。
長生きできて、体も頑丈になるのなら私だってヴァンパイアになってみたい気はする。
でも、陽の光を浴びられないというのはやっぱり嫌かもしれない。
それに、ドナイトさんは従者を作るつもりはないと言っていたし、頼んだ所でどうせ無理だろう。
そんな事を考えつつ歩いていると、やがて学生アパートの入り口が見えてきた。そこには見知った顔があり、彼は入り口の手前で佇んでいた。
私はその至って普通の風貌をしている大学生に声をかける。
「あ、磯城島先輩こんばんわ。」
「おかえり涼子ちゃん。」
彼は磯城島悠真……私より2つ年上の高校時代の先輩だ。
……とは言うものの付き合い自体は長く、小さい頃からずっと近所に住んでいた仲でもある。小学生までは“悠くん”なんて呼んで一緒に遊んでいたのだけれど、中高生になると疎遠になってしまった。
また、私が知らないうちに海外にも留学していたらしい。
しかし偶然というか巡り合わせというか、今は同じ大学に通っている。
「こんな場所でどうしたんですか?」
近付いて声をかけると磯城島先輩は人懐っこい笑顔を返してくれた。
「涼子ちゃんのことを待ってたんだよ。今日は随分と帰りが遅かったね。昨日も部屋に帰ってなかったみたいだけど、何かあったのかい?」
「別に何も……。赤嶺先輩と一緒に遊んでそのまま泊まっただけですから。」
赤嶺先輩の事を口にすると、磯城島先輩は彼女に対して不満を顕にした。
「また赤嶺の奴に無理やり連れ回されたんだね……。そろそろあいつにはキツく注意しておかないと駄目かもしれないね。」
「いえ大丈夫です。赤嶺先輩のおかげでかなり貴重な体験ができました。」
「そうかい? 涼子ちゃんが気にしていないならそれでいいけど……。」
「あはは……。」
何も嘘はついていない。ただ真実を言っていないだけだ。
適当に言い訳をした私は磯城島先輩とアパートに入り、一緒に階段を登っていく。
「そう言えばあのニュース聞いたかい? 最近こっちにも通り魔が出てるみたいなんだ。……涼子ちゃんも十分気をつけたほうがいいよ。」
「あれって都心の方だけでしたよね? こんな所まで来てるんですか。」
「最近ここらあたりも治安が悪いからね……。犯罪者はそういう所に集まってくるらしいよ。そうだ、今日みたいに帰りが遅くなるなら俺が迎えに行こうか? メールしてくれればすぐに迎えに行くよ。」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫です。ここから大学まで数分とかからないですし。」
3階につくと、私は階段から一番近い部屋のドアに手をかけ、鍵を鍵穴に差し込む。
その間に先輩は2つ隣にある部屋まで移動していた。
先輩はそこで振り返って私に声を掛けてくる。
「ところで涼子ちゃん……日曜日は暇?」
「日曜日って明後日ですよね。どうしたんですか?」
「一緒にどこかに遊びに行かないかと思ってさ。もちろん俺が奢るから、久しぶりに映画でも見に行こうよ。」
常に金欠気味の私には嬉しい提案だったが、生憎明後日にはアハトというヴァンパイアに会う予定が入っている。
先輩とはまたいつでも遊びにいけるのだし、今回は断っておこう。
「先輩ありがとうございます。でも日曜は予定があって無理です。」
きっぱりと断ると、磯城島先輩の表情が一気に曇った。
「そう……か。一回生は色々あって忙しいだろうし、仕方ないよね……。」
磯城島先輩は昔から感情が顔に出やすい人なのでこちらとしては助かる。
すぐに私は先輩にフォローの言葉を送ることにした。
「先輩、また今度誘ってください。次は絶対に行きますから。」
毎日のように余分に作りすぎたおかずを届けているせいか、磯城島先輩には毎度毎度優しくしてもらっているし、次は絶対に付き合ってあげよう。
私が言葉を返すと、先輩の表情は元通りのにこやかな顔になった。
「そうかい。また休みがあれば誘うよ。……それじゃおやすみ。」
「はい、おやすみなさい、先輩。」
別れの挨拶をすると、私と先輩は同時に自室に入った。