俺を見つけてくれた君
掻く。水を後ろへ送る。前へ前へと進むために。
そして向こう岸の壁に手が届き、水中から勢い良く顔を上げる。
そのまま後方の電光掲示板に目を向けると、自分の名前とタイム、順位が見えた。
タイムは24秒32、順位は7着。
前の組とも合わせると、自分は13位になる。
水野観月の、50メートル自由形での全国大会決勝への道が今、断たれてしまった。
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気付くと視界が真っ暗になった。
重い瞼が開かれ、目に光が少しずつ入って来る。
目を擦り、顔を上げ、周囲を見渡すと観月は教室にいた。
夢か、と観月は小さくため息をつく。
懐かしい思い出を見た。2年前、中学2年の、水泳の全国大会での出来事だった。
自身の、決勝にあと一歩届かなかった予選の思い出。
封じ込めたはずの思い出が、無意識から湧き出てしまった。
嫌な気分を払うため、顔を左右に振っていると、観月に声がかけられた。
「観月ー、次の授業プールだぜ、早く来いよ」
時計に目をやると、次の授業まで5分もないことが分かった。
これはまずい、と急いで席を立ち、クラスメイトに「すぐ行く」と返答し、水泳道具を持って教室を出る。
移動する中、水泳の夢を見た直後に水泳の授業とは随分皮肉な、と再びため息をついた。
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「観月ー、そっち行ったぞー」
「おっけおっけ……あっ」
「何やってんだよー」
「悪い悪い」と手を合わせ、観月は後方へ飛んで行ったビーチボールを泳いで取りに行く。
観月の高校の水泳の授業には、泳ぎが苦手な人へ向けたレーンが設置されており、観月はそこで友達とバレーをしていた。
ビーチボールを追いながら、観月は苦笑した。 (昔は、誰よりも速く泳げたのにな)
スイミングスクールでも、中学でも、彼は常に一番だった。 だが、その慢心が初めての敗北を招いた。
その頃の観月は自分が一番と信じて疑わず、その目線は他者へ向くことがなくなった。
故に全国には自分より速い記録を持つ者達に気付くことができなかった。
彼の鼻っ柱が折られたのは、中学2年で出た全国大会予選に敗退したときだった。
今まで1回も敗北を経験してこなかった観月に、決勝どころか予選で負けたという事実はかなり堪えた。
この屈辱を糧に、観月は普段真面目に取り組むことのない練習に真剣になった。
中学3年で全国1位になって敗北を帳消しにするため、彼は1日の大半をすべて水泳のために費やした。
しかし、迎えた翌年の全国大会、観月はまたしても予選で敗退してしまう。
1年間努力しても成果が出なかった事実に観月は打ちのめされ、逃げるように水泳部を辞めた。
その後、自分には努力する才能がない、とかつての自尊心が過小評価へと変わっていく。
そして、観月は身の丈に合うような、これまでとは真逆の生き方を選んでしまった。
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(ほぼ遊んでいただけだったが)授業を終え、着替えをしようと更衣室へ向かう。
みんなより早く着替えを済ませ、教室へ戻ろうとする。
先刻の夢のことなど忘れかけていたその時、
「水野君、だよね。話があるんだけど、いいかな」
後ろから声をかけられた。
「お、おぉ……えっと……」
思わず振り返り、名前を呼ぼうとしたが、出て来ない。
顔を見て、同じクラスメイトなのは分かったが、関わりの多い奴ではないので、名前を思い出せないでいた。
そんな観月の様子を察したのか、あちら側から話しかけてきた。
「執だよ、志怨執。急で悪いんだけどさ、頼みごとがあって話しかけたんだ」
「な、なんだよ、頼み事って……」
観月が怪訝な顔を見せると、執は頭を下げ、手を合わせた。
「頼む、俺と一緒に水泳で世界一を目指してくれないか!」
「……は?」
突拍子もない提案に、観月から間の抜けた声が出る。
世界一というスケールのでかさに一瞬呆気にとられてしまった。
しかし、忘れていた忌まわしい過去が再び呼び起こされ、執への意識が次第に嫌悪へと変化していく。
「ごめん、他をあたって」
吐き捨てるように言い、執に背を向けて去ろうとした。
すると執は遠ざかろうとする観月の肩をガッシリ掴み、逃がそうとしなかった。
「そんなこと言うなよぉー水野ー、お前しかいないんだよぉー!」
「うおっ、抱き着くな、離せっ……!馴れ馴れしいなお前……!」
「いいじゃないかぁ、ちょっとだけだよ、恵まれない子供に募金するような感じでさぁ!」
「何がちょっとだけだ、世界一って言ってんじゃねえか……!」
観月と執が一悶着繰り広げている間に、更衣室から着替えを終えたクラスメイト達が出てきた。
観月が気付くころには、小さく人だかりになっていた。
観月の耳にクスクスと嗤い声が聞こえる。
周囲からの好奇の視線に耐えられなくなった観月は、無理矢理執の腕を引きはがし、
「ふざけんな!」
と言い残し、走ってその場を後にした。
対する執はというと、周囲から嘲笑を受けてもなお、観月しか見えていなかった。
その目は獲物を見つけた狩人のように鋭かった。
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執からの衝撃のプロポーズがあった日から、観月の毎日は散々なものへと変わった。
「観月~!水泳やろうぜ~!」
「中島君かお前は!」
休み時間に、廊下で執が観月を全力で追いかけていた。
観月も廊下にいる生徒をかき分け本気で逃げるが、その差は広がることはない。
一体いつまで続くんだ、と観月は辟易していた。
あの日から、執は観月を追っては様々な場所へ現れてくる。
教室のみならず、登下校時の校門や、果てにはトイレにまで現れては勧誘してくる。
この勧誘を避けるため観月は登下校の時間をギリギリまで遅らせ、またトイレを使うときは常に個室を使うなどの苦労を強いられていた。
執の熱量はあの日以降衰えるどころか増すばかりであり、そろそろ個室にも入って来そうな勢いである。
観月の精神はすり減り続けていた。
休み時間終了のチャイムが鳴り、何とか執から逃げ切った観月は、フラフラと教室へ入っていった。
いくら何でも授業中にまで執は話しかけに来ない。授業が始まるギリギリで教室に入るのも工夫の一つだ。
席に座り、授業の準備をしようと机の中に目をやると、見知らぬ手紙が一通あるのに気付いた。
取り出してみると、それは随分とかわいらしいデザインをしていた。
もしや、と観月は誰にも見られないよう机の上にうつ伏せになり、中身を見てみた。
中には、かわいらしい文字と共に、『大切な話があるから放課後校舎裏に来てほしい』という旨の内容が書かれていた。
ラブレターだ、と観月は察する。
気付いた瞬間、観月は顔を紅潮させ、うつ伏せがより深くなった。
これまでの人生、観月は恋人がいなかった。
故に観月にはそういった免疫が無いため、初めての異性(多分)からの好意によって心臓が早鐘を打っていた。
相手はどんな人なんだろう、いつから俺を好きだったんだろう、やっぱりこういう時は付き合うべきなのだろうか、といろいろ考えが巡っていた。
これまでの執のストーカー行為もすっかり忘れ、気付けばラブレターの相手へ心を躍らせていた。
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その日の放課後、手紙に指示された通りに校舎裏へ行った。
具体的な時刻が書かれていなかったので、授業が終わってからできるだけ早く向かい、相手を待っていた。
後ろから足音がして、観月は振り返る。そして観月の目に映った相手とは―
「……お前かよ……!」
「いぇ~い、お待たせ、観月クン♡」
執だった。
満面の笑みにダブルピースをしていた。
何かおかしいとは思っていた。だが、まさかここまでとは思わなかった。
観月は頭を抱えた。
「……もういい、話だけ聞く」
「マジ!?大好きー!観月クーン♡」
「あ゛ー、鬱陶しい、近寄んな!」
両手を広げ抱き着こうとする執の顔を掴み、それを阻止する。
両腕をバタバタさせて藻掻く執に対し、念押しするように観月は告げる。
「ただし、なんで俺を誘ったのか、理由を明確にして述べること!後言ったからって了承すると思うなよ」
「おっけおっけー、任せときな」
そういうと観月は手を放し、執を開放する。
手を離された執は、ふぅ、と一息つき、拳を口元にあて咳払いをした。
すると、今までのおちゃらけた表情から真剣な顔つきへと変わった。
これまでの執からは想像のつかない表情に観月は一瞬たじろぐ。
そして執はおもむろに口を開けた。
「なんでお前を誘ったかというとな、もう泳げない俺の代わりに世界一になってほしいからなんだ、観月」
二人の間に静寂が生まれる。
観月はてっきり執のことだから、きっと理由もふざけたものなのだろうと、高を括っていた。
だが実際には今までとは真逆の雰囲気で、「泳げない」という深刻な過去が伺える言葉にその軽視はたちまち飲み込まれてしまった。
観月が何も言えない様子を見て、執は続ける。
「俺も中学まで水泳をやってたんだ、毎日食事と睡眠以外は水泳の練習に充てるぐらいは頑張ってたんだぜ。全国の決勝に進むぐらいの実力はあったかな」
「……もう泳げないってのは……」
「腕の神経がダメになった。医者には『もう泳ぐな』と言われた」
執は眉を顰めながら腕をグルグル回した。
「取り柄は水泳だけだった。だから……本気で死のうと思った」
「取り柄は水泳だけ」という言葉に観月は一瞬反応した。
自分と執は割と似た者同士何だろうか、という考えが生まれた。
しかし、続く執の言葉に、それは間違いだったと理解する。
「でも、俺は水泳で結果を残さないで死んでいくことに耐えられなかった。だから俺は、世界一の選手を育て上げた指導者として名を刻むことを決めた」
水泳から逃げた自分に対し、執は超えられない壁にぶつかってもなお水泳と向き合い続けていた。
自分の惨めさを突き付けられたような気分になり、観月の唇が震える。
絞り出すように、観月は声を出した。
「……なんで、その相手が俺なんだよ……」
執は一呼吸おいて、観月の双眸をしっかり捉えた。そして口を開く。
「お前の泳ぎが俺の理想だったからだ」
執ははっきりとそう告げた。
観月は何を言われたのか分からず、呆然とする。
諦めなかった奴の理想が諦めた奴の姿だと?
困惑する観月を前に、執は訂正するように、まあ、と続ける。
「正確には、『観月の成長後』かな」
執は人差し指を唇の前に立て、チッ、チッ、と舌を打った。
「水泳で負けない為にも、ライバルはしっかりチェックしてたさ、その中で観月、俺はお前にだけは勝てないって思ったよ。お前のストロークとキックは誰よりも強く、速かった。テクニックは粗削りだったけどな」
だから成長後、と執は付け加える。
そうなのだろうか、と観月は思った。
中学までならすんなり受け入れられただろう言葉も、今の観月には響かなかった。
「正直もう会えないって思ってたんだけどさ、クラスの名簿見て同じ名前の奴がいてびっくりしたぜ。見た目はだいぶ変わってたけど、この前の泳ぎを見て確信したわ、お前は水野観月だってな」
あの時か、と観月は目を覆う。
この前の水泳の時間、確かに観月は遠くへ行ったボールを取るために泳いでしまった。
それを執は見ていたのだろう。
執のような、俺を知っているから離れようと、色々イメチェンしたのに、水の泡となってしまった。
これで話は終わりだというように、執は一息つく。
そして観月に手を差し伸べてきた。
「これが俺が観月を誘った理由だ、どうだ観月、俺と一緒に世界一を目指さないか?」
観月は下を向き、逡巡する。
執、お前が思うほど俺はすごくないんだよと心の中でつぶやいた。
才能はあるのかもしれない、でももう俺はこれ以上伸びないんだ。
自身の忌々しいであろう過去までさらけ出してもらって気の毒だが、断ろうと口を開いた。
「執、俺はさ―」
その時、静寂を切り裂くような怒声が響いた。
「おうおうおう、てめーかぁ!?俺様の大事なアリスたんのフィギュアを粉々にした野郎ってのはよぉー!?」
観月は声の方へ振り返る。
見ればガタイが大きく、頭部が禿げ上がっているのが特徴の生徒が観月をじっと睨んでいた。
観月は何のことかさっぱり分からず、固まってしまう。
すると声の主はこっちに向かって、拳を振り上げた。
「しらばっくれてんじゃあねぇぞこの野郎!」
ゴッ、と頬に衝撃が走った。
視界が揺れる。
次の拳が飛んでくる。止まらない。
たまらず観月は屈み、背を丸くするも、暴行は止まらない。
観月の頭は、痛みと、困惑、恐怖に支配されていた。
「オラッ、オラッ、俺様の恨みを思い知りやがれっ」
「グッ……!止めろっ……や、止めてください」
「止めるかオラァ、死ね、死ねっ」
観月の懇願むなしく、相手は手を止めない。
相当な恨みのようだが、観月に心当たりは全くない。
このままでは本当に死ぬかもしれない、と観月は考え、ぞっとする。
藁にもすがる思いで観月は、口を開いた。
「ご、ごめんなさい!なんでもするので許してください!」
すると、観月への暴力の嵐がピタッと止まる。
打撃がやんだことに気付いた観月は、チラリと目をやる。
すると奴は手で顎を押さえ、値踏みをするような目で観月を見ていた。
「ほーん、そーだなぁ、じゃあ俺様の奴隷になるってのはどうだ?」
奴がそう告げる。
突拍子もない提案に、観月は言葉を失う。
観月が戸惑っていると、奴が続けた。
「奴隷だよ、奴隷。四六時中俺様のお世話をしてもらうってことさ。俺様の代わりに宿題をしたり、俺様が腹が減ったら飯を買いに行き、俺様のストレスが溜まったらサンドバックになってもらう、最高だろ?」
何が最高なのだ、と観月は顔を顰める。
高校に入学してまだ数か月しか経っていのに俺はこれから卒業まで他人の世話をしなければならないのか。
せっかく水泳から離れられて清々していたのに、高校でも俺はこんな目に合うのか。
あまりの不条理に、観月の唇がわなわなと震える。
すると、奴は何かを思いついたように、意地悪く口の端を上げた。
「あ、そうだ、もし50メートルの自由形で勝てたら見逃してやってもいいぜ、ただし、水泳部のキャプテンであるこの俺になぁー!?」
馬鹿にするように、奴は汚い笑いを観月に浴びせる。
自由形、というワードに観月の思考が一瞬止まる。
中学まで観月はクロールを専門としていた。
もしや、と思う前に観月の後ろから執が声をかけた。
「いいじゃないっすか、競争しましょうよ、競争。で、いつやりますか?」
執は満面の笑みを浮かべ、こちらへ向かってきた。
いつの間に隠れていたのか、なぜ止めてくれなかったのか、執に対する怒りが沸々とわいてくるもそれを押さえる。
奴は訝しげな表情で執に視線を移す。
「あん?誰だてめぇ?」
「まあまあ俺のことは、それより勝負なんですけど、1週間後にしませんか?その日はそちらはオフでしょう?」
執はウインクをして、わざとらしく茶目っ気を見せる。
何者だ、と奴は一瞬固まる。
こいつとは初対面なのに、何故か水泳部の練習日程を把握している。
執の得体の知れなさに、奴の頬から冷や汗が垂れる。
だが奴は物事を深く考える質ではないのか、顔を左右にブンブン降り、気を取り直す。
そして、再び、ニッと笑みを浮かべ、観月に視線を戻す。
「いいぜ、おいお前、一週間後、放課後にウチの高校の屋内プールに来い、そこで決着をつけよう」
「あ……え……?」
「『はい』だろうがよぉ!?」
「ひっ、は、はい!?」
観月が怯えながらも返事をすると、奴は満足したのか、鼻歌を歌いながらその場を去った。
目に見えなくなったところで、観月は、『ぶはぁっ』と思い切り息を吐き、その場にへたり込み、胸を押さえる。
興奮冷めやらぬ中、観月は執へ目線を向ける。
『やったな』と言わんばかりの笑みを浮かべ、執は観月に手を差し伸べてきた。
話を聞いたはずなのに、観月は執のことがもっと分からなくなってしまった。
執の目がこちらをじっと捉える。
その目はすべてを見透かしているように見えた。
(なんなんだよ、今日は……)
観月は頭が追いつかず、ただ呆然とするしかなかった。
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「あーもう!最悪だー!!」
「ははは、まあそう言わずに、楽しくやろうぜ観月」
あのいざこざの後、二人は近くのプールへ足を運んでいた。
来た理由は当然、件の水泳部のキャプテンとの勝負に挑むための練習だ。
観月は水着に着替え着水している。
観月は憂鬱だった。
再び水泳に取り組まなければいけない上に、負ければ奴の奴隷となってしまう。
高校入学して以来最悪の一日に、肩を落とした。
対してプールサイドにいる執は終始嬉しそうである。
執からしたら、経緯はどうあれ再び観月をプールに連れてくることができたのだ、当然嬉しいに決まっている。
ただ妙に都合が良すぎないか、と観月が疑問に思ったところで、執が掌にポンッと拳を乗せる。
「あーそうだ、練習の前に、実はあの水泳部のキャプテンがバチ切れしてたのは全部俺の仕込みなんだ、ごめん!」
「は?」
突然の告白に、観月は執の方に思い切り振り向く。
執は手を顔の前に合わせ、舌を出した。
「あいつ、美少女フィギュアに命かけてんだよ。 だから壊した。で、犯人は観月ってことにした。 そしたら勝負になるだろ?」
「お、お前なぁ……!」
観月の目つきが一層鋭くなった。
つまり俺は謂れのない暴力を受け、その原因はすべて執にあるということだ。
観月は拳を握ったまま、しばらく動けなかった。 だが、殴っても何も変わらない。 深く息を吐き、プールに戻る。
「まあ今更とやかく言ったって逃げられないわけだし、やろうぜ、練習!」
執がウインクしてこちらにサムズアップする。
お前が始めたんだろ、と観月は内心かなりイラっとしたが、何とか飲み込む。
すると執は真剣な顔つきになった。
「さて、真面目な話だ。お前の相手の専門はフリー(自由形)、そして50メートルの自己ベストは25秒64。まあ県大会決勝レベルってとこだな、中学のお前なら勝てたかもしれんが、しばらく水泳から離れていた今のお前だとどうだろうな……?」
観月に緊張が走り、冷や汗が流れる。
自分は水泳から半年以上離れていた、そんな自分が勝てるのだろうか。
そんな観月の顔が険しくなったのを見た執は、フフンと得意げに鼻を鳴らした。
「安心したまえ観月クン、君が奴に勝てるよう俺は君専用の練習メニューを組んできたのだ」
執は腕を組み、観月に笑みを浮かべる。
観月は一瞬理解ができず、首を傾げた。
観月にとって、練習とは一人でやるものだった。
だから人と共に練習をするのは、観月にとってかなり違和感があった。
「お前が練習を考えたのか……?」
「そうだ、俺はお前を世界一にすることが目標なんだぞ、このくらい当たり前だろう」
執は当然のようにそう告げる。
観月はどうもまだ腑に落ちていなかったが、まあそういうものかと無理矢理飲み込んだ。
観月が俯いていると、執は手をパン、と2回鳴らし、注意を惹いた。
「さあさあ、時間は限られているんだ、さっさと始めようぜ」
「お、おう……」
こうして、執との練習が始まった。
初めのうちは、観月は他人からの指示にやや戸惑っていた。
この練習で本当にいいのか、そもそもは練習して意味はあるのかと、様々な疑問が観月の頭を巡った。
だが、続けていくうちに、観月の違和感は新鮮な気持ちに変わっていった。
普段自分では意識しない体の動き、姿勢が執の練習では使われていた。
「肘をもっと高く」「蹴りは後ろじゃなくて下」 執の指示は細かい。
しかし不思議と体が軽くなる。
練習はハードだったが、妙な充実感が観月の中で生まれていた。
観月はまるで新しい自分に出会っている気分だった。
しかし、練習から数日して、観月に次第に焦りが生まれてきていた。
その原因は、練習の最後に50メートルのスプリントを行うのだが、そのタイムが全く伸びていないことにあった。
このままでは観月は勝てないのは明白、だというのに執は特に気にしている様子がなく、そのことも観月の焦りを加速させていた。
そして勝負の前日―
「ハァッ…ハァッ…ハアッ…」
「25秒91、お疲れ、観月。今日は早めに終わろう」
今日の分のスプリントを終え、壁に手をつく観月に、執は告げた。
観月の鼻から水滴が、ポツ、ポツと一定のリズムで水面に落ちていく。
観月の脳裏に、中学のトラウマが過ぎる。
何度泳いでも、タイムは変わらない。変わらない。変わらない。
その瞬間、観月の中で何かが切れた。
「なあ……ダメだって分かってんなら言えよ」
「……何が?」
執の言葉に観月の焦燥感が限界を超え、プールサイドから勢いよく上がり、執の胸倉を掴んだ。
「とぼけんなよ!分かってんだろ、俺が全然成長してないってのが!俺じゃあいつに勝てないってのが!」
執を引き寄せ、思い切り苛立ちをぶつける。
執は一瞬たじろぐが、その目はじっと観月を見ていた。
「いいんだよ、そんなところに気を使わなくたって、俺だってわかってるんだ、俺は努力してもダメなやつなんだって……中学の時に思い知ったよ」
「観月、それは違う」
「なにも違わねぇよ!こうしてタイムが伸びてねぇのが現状だろ、努力してもダメなやつなんだよ、俺は!」
ほぼ八つ当たりのように言いたいことを執にぶつけると、執は胸倉を掴む俺の手を逆につかみ返してきた。
「違う。お前は逃げてるだけだ」
「逃げる……?」
「自分から逃げている」という予想もしなかった反論に、観月の熱が少し落ち着く。
だが、意味を理解したとき、観月の顔が赤に染まる。
中学の時に味わった屈辱を糧にして高校の自分がある、しっかりと自分と向き合い出した結論を『逃げ』と言われたことは観月の怒りにさらに燃え上がらせていた。
ふざけるな、という直前に執はさらに続けた。
「お前は自分を過度に過小評価している。それは自分と向き合っているとは言わない、ただの現実逃避だ」
その言葉は、観月の越えてはならない一線を越えてしまった。
観月の拳が執の頬を打った。 鈍い音が響く。
執も予想できておらず、プールサイドにシリモチをついてしまった。
観月は肩で息をしており、殴った拳は震えていた。
「お前に、俺の、何が分かるんだよ!」
そう言い放ち、観月はプールサイドを後にした。
執は殴られた方の頬を手で押さえ、俯いていた。
そして、ため息をつき、ポロリと溢す。
「……やっちまったなぁ……」
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決戦当日、観月は重い足取りで指定されたプールへと向かっていた。
観月の頭の中には、昨日執に言われた「現実逃避」という言葉がずっと残っていた。
昨日プールを出た後、観月は冷静になった脳であのいざこざを振り返っていた。
「現実逃避」、考えるほど執の言う通りだと思った。
観月は中学で結果が振るわなかった後、自分の努力を見直すのではなく、自分と向き合わず逃げる道を選んでしまった。
それは最も楽で、かつ最も虚しい道。
(全部わかってる。執を殴ったのも逆ギレだ。 でも……もう自分と向き合えるほど強くない。 やっぱり俺は、どうしようもないんだよ、執。)
プールサイドへ入り、更衣室へ着替え、レーンへ向かっていくと、先週の水泳部のキャプテンが既に待っていた。
その姿を見て観月の体は震えてしまう。
おびえた様子の観月を見て、キャプテンはまたあの意地の悪い笑みを浮かべた。
「よおよお、随分と弱気じゃねぇか!?それは、俺様の奴隷になる覚悟を決めたってことでいいのかなぁ?」
「うっ……」
「まぁそんな心配すんなって、高校を出てからも、俺様はお前をず~っとかわいがってやるつもりだからな!」
キャプテンの腹の底まで響く嫌な高笑いに観月は体を縮こませてしまった。
勝てない、と観月は思った。
観月は、特にメンタルの面でコンディションが最悪だ。
相手のベストが下振れることをわずかに期待していたが、お互いにこの様子ではそれも望み薄だろう。
こいつのおもちゃにされることは変わらないのだから、観月が一か八かこの場から逃げ出そうとしたその時、プールの扉が勢いよく開いた。
プールの扉が開いた瞬間、観月の心臓が跳ねた。
「観月!!」
現れたのは執だった。
観月はプールサイドであるのも関わらず、全速力でこちらに向かって来る。
一体何しに来たのだ、と観月は困惑した。
自分が無様に負ける姿でも見に来たのだろうかと考えていると、執は俺のもとへ来て、両手で肩を掴んだ。
執は、切らした息を落ち着けた後、観月の目を捉えた。
「観月、昨日は、悪かった。本当は、お前にあんなことを言いたかった訳じゃないんだ」
「執……?」
執の第一声はなんと、謝罪だった。
予想外の出だしに観月が面食らっているのも構わず、執は続ける。
「怖いんだろ。自分を見るのが。でも、それでいい。お前には俺がいる」
観月の瞳が揺れる。
「何度でも逃げてもいい、俺が必ずお前を連れ戻してやる。心配すんな、お前を中学から見てたんだぜ、俺にはできる。だから観月、もう一回、俺の手を取ってくれないか」
執の手が観月の前に差し出された。
観月の目から一粒、涙がこぼれた。
今の執の言葉は、他の誰がくれた言葉より温かかった。
今まで観月に寄り添ってくれた人はいないわけではない。
だがそれはあくまで決勝での敗退に同情していただけだった。
しかし執は観月の心の内を知り、一線を越えてきた。
さらには自分が導くからと、観月の短所すらも肯定してくれた。
観月は俯き、唇を噛む。
そして執の手を、取った。
「任せろ、執。俺をお前の夢に連れてってくれ」
観月は前を向き、執を見つめる。
それを見た執は、ほっとした様子で笑みを浮かべる。
観月もそれにつられて笑う。
すると、後ろから怒号が飛んでくる。
「いつまでコソコソ話してんだぁ?逃げる相談でもしてんのかよ、やるならさっさとやろうぜ!?」
「そうだな、さっさと済ませよう」
観月は振り向き、ふっと笑い、キャプテンの言葉を一蹴する。
そしてじっとキャプテンの目を睨み返す。
観月の目からはもう傲慢と、臆病は消え去っていた。
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「テイクユアマーク、セット」
執が掛け声を務め、そして上をピッと鳴らす。
それと同時、観月たちは飛び込み台から着水する。
そして少しした後、両者共に水面に出てきた。
観月の泳ぎを見た執は、速いな、という感想がまず出てきた。
元々練習後のスプリントであれだけのスピードだから、万全ならそれ以上であることは予想していた。
しかし、今の観月は、執の予想を超えていた。
観月の泳ぎは軽かった。 水が味方しているようだった。
執がストップウォッチを持ち、カチカチッと二回押す。
表示されたタイムを見て、執は思わず「天才が……」とつぶやいた。
結果は
観月 24秒50
キャプテン 25秒71
1秒近く差をつけての観月の圧勝であった。
なんと観月は半以上のブランクを一週間でほぼ取り返してしまっていた。
あまりの差にキャプテンは愕然とし、「ば、バカな……」と溢す。
プールサイドへ上がってきた観月のもとへ執は歩み寄る。
執が手を上げると、それに呼応して観月も手を上げた。
そしてお互いの距離が縮まったとき、二人は笑いながら手を打ち合わせた。
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勝負の日の翌日の朝、教室で観月が机に座っていると、執が近づいてきた。
観月が執に気付き、挨拶をしようと手を上げたとき、観月は驚愕した。
執の顔がボコボコにはれ上がっていたのだ。
「おはよ~観月~」
「お、おはよう、どうしたんだよ、その顔」
「あぁこれ?例の水泳部のキャプテンにやられちった」
「はぁ!?」
観月はさらに驚愕し、席を立った。
まさかあいつ、執に八つ当たりをしたのか、と観月に次第に怒りが湧いてくる。
そんな観月を慰めるよう、どうどう、と執は両手で静止した。
「キャプテンに種明かしたんだよ」
「え、それじゃあ、お前、俺の代わりに……」
観月は自身の身代わりになってくれたのかと考え、狼狽するも、執は観月に向けVサインをした。
「いや、弁償した上にあの先輩が手に入れられなかった限定フィギュアを渡したギリ許してもらえた」
「な、なんだ、そういう……」
観月は安堵し、席に戻った。
しかし元はと言えばすべての元凶は執なのである。
そりゃあ最悪の事態に備えぐらいはしておくよな、と観月は妙に納得した。
同時に、心配して損したとも思った。
「そんなことより観月、当然今日も泳ぎに行くだろ」
気を取り直して、執は観月に問いかける。
自身の怪我をそんなことで済ませていいのかと観月は思ったが、その問いに愚問だと言わんばかりに、ふっと笑った。
「もちろん、今日もご指導よろしく、先生」
「ああ、任せとけ」
観月の笑みに執はサムズアップで返す。
観月は思った。
―もう迷わない。
いつだって執が、自分を見つけてくれるから。
最後までお読みいただきありがとうございました!




