もっとまともに生きよう
「もっとまともに生きよう」
そう心に誓ったのは凍てつく冬の夜だった。
唯一の肉親であった妹をとうとう死なせてしまった。この生活を続ければ、いずれ己の身も亡ぶ。自堕落な生き方を続けてはならないと、妹は死をもって教えてくれたのだ。
名もない十七の青年は、その町で一番の資産家で下働きをすることにした。瘦せこけた頬に、黒ずんだ隈、不健康な黄ばんだ歯──みすぼらしい姿の人間を主人の視界に入れるわけにはいかないと、任された仕事は主に館の外で行う雑務であった。
洗濯や薪割り、家畜の世話をこなし、夜は家畜の小屋で眠った。見た目に反してよく働く青年に、きつく当たる者はそういなかった。そもそもこの青年を雇わねばならぬほど、屋敷は人手不足であった。盗みを働く者が連続して現れ、次々に解雇されていったのだ。特に若い男が減ったものだから、この青年の存在はありがたいものだった。
そんな青年の日常に転機が訪れたのは、強い風が吹く春の日だ。友人との狩猟に行く約束を控えた館の主人が馬の様子を見るため、珍しく家畜小屋にやってきた。そこで働く青年の姿を目にし、主人はたいそう驚き、泣き出した。主人は、青年に三年前に亡くした息子の面影を見出した。
青年を養子にすると、豊かな生活を与えた。館の者達は、名を持たなかった青年を「ソウシロウ様」と呼んだ。
「ソウシロウよ、随分顔色が良くなったね。何か欲しいものはあるか?」
資産家の養子として暮らし始めて二か月も経てば、ソウシロウの体は随分と肉付きが良くなっていた。目の下の隈も、黄ばんだ歯も健康的な色を取り戻した。
「いいえ、もう充分良くしていただいています。お義父さん」
ソウシロウの微笑みを見て、主人は満足げに頷いた。「何か必要になれば、すぐに使用人に言いなさい」と言い残して、主人はソウシロウの部屋を出て行った。その際、カチャンと鍵の閉まる音がした。
ソウシロウは部屋の真ん中にある安楽椅子に腰かけた。目を閉じていると、ふわりと輪郭のあやふやなモノが首、胸、膝の上に触れた。
『せっかく化粧もお教えいたしましたのに、逆効果になるなんて』
琴のような美しく、落ち着いた声がソウシロウの耳元でささやかれる。ソウシロウは目を開け、その声の主の顔を確認した。それは妹である。春を迎える前に死んでしまった妹の姿がある。
妹は白い菫の柄をあしらった紫の着物を身に着け、真っ黒の長い髪を垂れ流している。それはまさに、彼女の死の直前に見た美しい姿のままである。
『お洋服もよくお似合いですが、お着物姿のお兄様も久々に見たいですわ』
妹はソウシロウの膝の上に座り、体重を預けるように上半身を寄りかけている。右腕はソウシロウの首に回され、左手はソウシロウの首元にあるワイシャツのボタンをいじっている。
「孝太郎氏にお願いすれば、着物も用意していただけるだろう」
ソウシロウは妹に密着されても特に反応を示さず、むしろ当然のように、妹の腰に手を添えた。ただし、妹の体に実際に触れることはできず、体重を感じることもない。支えているように見えるよう、手を置いているだけだ。
仲睦まじい二人の前に、ソウシロウと同じ服装の青年が姿を現した。彼もまた、妹と同じように質量を持たぬモノ。
『えっと……、あのさ。ここには僕もいるんだ。だから、その……ああ、うん。仲が良いってのは良いことだと思うよ。でも、ちょっと気まずいって言うか、兄妹とはいえ密着しすぎじゃないかなって』
青年は見てはいけないものを前にしているかのように、横目で兄妹の様子を伺っている。頬を赤く染めた青年に向かって、妹がフッと微笑みかけた。
『まあ、申し訳ございません。宗史朗様のお気持ちまで考えが及ばず……』
妹は謝るが、決して兄から離れようとしなかった。反省の気配がないし、ソウシロウの方も何が悪いか理解していない。
そのことに、宗史朗は思わず不快感を露わにしてしまった。その反応を見て、妹が『そう怒らないで』と笑う。ソウシロウは妹が楽しそうなのを見て微笑む。二人とも宗史朗をからかったのだ。
『そんなことより、早くここを出た方が良い。じきに父さんの罰が始まる。逃げる気があるなら、今がその時だ』
宗史朗が低い声を出して言う。ソウシロウは頷いて、襟元を広げる。ソウシロウの首には首を一周する一筋の痣がある。
「そうだな、そろそろ誤魔化しがきかなくなってきた」
この屋敷に来た頃、ソウシロウは不健康に見える化粧をしていた。みすぼらしい姿形であれば、誰も興味をもたぬだろうと考えたからだ。しかし、目論見に反して、資産家の旦那はソウシロウに声をかけてきた。
その後も妹に教わった化粧で姿を偽ってきたが、限界に近い。孝太郎の甲斐甲斐しい世話を受けておきながら、いつまでも不健康を装うことはできない。徐々に、徐々に化粧を薄めてきた。今はもうほとんど化粧をしていない。
『君が元気になったとわかれば、父さんはすぐにでも罰を再開するだろう!』
宗史朗が、腰を上げぬソウシロウをじれったく思って声を荒げるのを、ソウシロウは片手で制した。ひじおきの上で立てられた右手は「わかっている」と告げている。
「問題は、孝太郎氏にとって宗史朗殿は代わりの利く存在ということ。俺がいなくなったとしても、他の者を息子に仕立てるだろう。事実、俺は宗史朗殿と全く似ていない」
ソウシロウが椅子から立ち、部屋を出るつもりがないとわかると、宗史朗は諦めの溜息をついた。
『……君が意外に情に厚いことはわかったよ』
「心外だな」
『非礼ついでに一つ』
「今日はやけに話すじゃないか」
『君達に少し慣れてきたんだ。何と呼べば良い?』
「いざそう聞かれると困るな。俺達には名が無い。でも、そうだな。俺のことはソウシロウとでも呼べば良いだろう。名を勝手に借りるのは申し訳ないが、互いに同じ名を呼び合おうが迷うことはないからな。妹の方は……どうしようか」
男二人の会話に興味を示していなかった妹が、不意に兄の顔を見上げた。妹を見下ろすソウシロウと目が合う。
『君は妹さんを何て呼んでいるの?』
「お前、と」
二人で暮らす分には名前が無くとも困らなかった。「お兄様」「お前」と呼べば、互いに呼ばれていることに気づくからだ。
ソウシロウはしばらく思案した後、「スミレとでも呼べ」と言った。
『では、スミレはお兄様のために孝太郎様の様子を見て参ります』
妹は兄から離れ、菫の着物を折ってお辞儀をする。その姿勢のまま、スミレは背景に溶けていった。
「宗史朗殿、妹についてやってくれないか」
生身の人間より霊体の方が危険は少ないのだが、ソウシロウは自分の身より妹が心配なのだ。スミレと同じ場所に行ける宗史朗に、妹の同行をお願いする。
スミレは扉をすり抜けて、孝太郎の後を追っていた。隣に宗史朗が来ると、一瞥だけして、また孝太郎の行動に目を光らせる。
『お兄様のそばについていてくださいませんと』
『それはスミレ君の役目だ』
『……そうですね』
孝太郎が仕事部屋にしている執務室に入ると、スミレは肩の力を抜いた。孝太郎が椅子に座る頃、宗史朗もわかりやすく、緊張の糸を解いた。
『……お兄様にとって、死は小さな小さな壁でしかない。お兄様は死を呼び寄せ、死に呼び寄せられる。死者との対話も可能なお兄様からすれば、生きる者にも死した者にも違いがない』
『それは違う』
独り言ともとれるスミレの語りに、宗史朗は素早く否定を被せた。強く出過ぎて気を悪くさせてしまったかもしれない。そう思って、宗史朗はスミレを見たが、スミレは美しい微笑みを保っていた。
安堵した宗史朗の気を動転させたのは、従僕の乱入だ。
「旦那様、ソウシロウ様が……!」
ノックもせずに現れた従僕は詳細を告げなかったが、孝太郎はすぐに察した。執務室を飛び出し、玄関を駆け抜けた。
ソウシロウは寝間着のまま、庭に立っていた。孝太郎に気がつくと、笑顔で義父を呼んだ。
「勝手に出歩けるほど丈夫になっていたとはな」
孝太郎は顔を真っ赤にしてソウシロウを押し倒した。暴れる青年を押さえ、ポケットから取り出した注射を突き立てた。
薬を打たれたソウシロウは、抵抗をやめた。脱力し、ぼんやりとした意識の中で、孝太郎の動きを見ている。
「なんでお前は俺を置いて行ったんだ。そんなこと俺は許していない。お前は美しく、優しかった。誰からも好かれていた。天がこんなにも早くお前を連れて行くなんて思ってもみなかったんだ」
孝太郎は馬乗りのまま、息子を失った悲しみを身代わりの青年に浴びせかけた。
『お兄様! お兄様! お兄様!』
スミレ達が孝太郎の接近を知らせる前に、二人は接触してしまった。スミレは兄の顔にすがって泣き叫んだ。
「ああ……、ああ、駄目じゃないか。お仕置きしないとな。父さんの罰を受けられるよな?」
孝太郎は、ソウシロウの無断外出を叱り、ソウシロウの体調不良を理由に中止していた体罰の再開を仄めかす。
ソウシロウは無意識に自分の首に手を運んだ。が、彼の手が襟に届く前に孝太郎がソウシロウの両腕を押さえつけた。
『やめてよ、父さん! なんてことだ……ソウシロウ!』
宗史朗は自身の頬に爪を立てた。実体のないスミレと宗史朗に、ソウシロウを救う術はない。
絶望に打ちひしがれる宗史朗の前に、突如として青年と呼ぶには少し若い従僕が現れた。少年は先程孝太郎にソウシロウの逃亡を知らせた張本人だ。
宗史朗がそのことに気づく寸前に、少年は孝太郎に襲いかかった。と言っても、小さな体では大人に敵わない。孝太郎が身をよじると、少年は簡単に吹き飛ばされた。
しかし、少年に襲われた孝太郎の様子がおかしい。上半身をふらふらと揺らし、ついには何も言わずに倒れた。
入れ替わるようにして、ソウシロウが体を起こした。起き上がったソウシロウに、泣きはらした顔でスミレが抱き着いた。
「よくやった、坊主」
ソウシロウは従僕の少年を誉めた。
宗史朗にはわけがわからなかった。事態が飲み込めない宗史朗のために、ソウシロウが種明かしをしたのは、監禁・虐待犯の身柄引き渡しを終えた後だった。
事の次第はこうだ。
ソウシロウが一人になったところを従僕が訪ねてきた。部屋の鍵を開け、逃げるように言ったのだ。
それが罠だと見抜いたソウシロウは、少年を「次は君かもしれないね」と脅した。
歴代のソウシロウの世話係を務めてきた少年は、「ソウシロウ様が逃げたことを旦那様に報告すると褒美がもらえる」と学んでいた。少年は逃亡の手助けをし、孝太郎に告げ口をしていたのだ。
ソウシロウは逆にそれを利用してやることにした。少年が開放した部屋を出て、孝太郎を誘い出す。怒り狂った孝太郎が鎮静剤を使うことは予想がついていた。咄嗟の状況では注射を一本しか所持していないことも。
そうして自ら鎮静剤を打たれ、囮になったところを少年が盗み出した注射で刺してくれればチェックメイトという寸法だ。
全容を聞いた時、宗史朗は呆れて何も言えなかった。結果として成功はしたが、かなり危険な賭けだったのだ。他者の命を慮ったソウシロウだから、死に対する認識は甘くないと思っていたのに。
『もっとまともに生きるつもりだったって、あれ何?』
連日の事情聴取を終え、ようやく落ち着いたソウシロウに、宗史朗が尋ねる。
ソウシロウは目を見開いた。ソウシロウも知らずに、心の誓いを声に出していた。
その様子を見て、宗史朗も驚いた。そして、声を出して笑った。
『君も驚くんだね』
「心外だ」
『非礼ついでに、聞いても?』
ソウシロウは肩をすくめて、渋々といった感じに答えた。
「他人の人生を奪わず、ただ己の人生を生きること」
ソウシロウは、死んだ人間に成り代わって遺族と暮らす生活をしていた。それも一度や二度じゃない。死に愛されるソウシロウは、死の悲しみも呼び寄せるのだ。
成り行きで始まったことだが、生きるのに困らなかったので惰性で続けていた。そうしているうちに妹が死んでしまった。
「だから、もう誰かの名を借りるつもりはなかった」
『それなら、他の誰かの人生を奪わずにすむよう、僕として生きるのはどうだろうか』
ソウシロウが顔を上げる。
『どうせ僕の死は覆らない。今更誰にどう扱われたって文句は言えない。だから、君に僕の名を騙られようと、不都合はない。むしろ嬉しいくらいだしね。君が僕の名で生きるほど、僕の生きた証は遺るのだから』
宗史朗の名は、孤児を支援する心優しき資産家として後世に残ったという。
──完──
お読みいただきありがとうございました。
ブラコンな妹って良いですよね。
皆さんはどんな兄弟の形がお好きでしょうか。




