接触
静かな日常の中に、説明のつかない違和感が紛れ込むことがある。
それは音のズレかもしれないし、視線の引っかかりかもしれない。
けれど多くの場合、人はそれを“気のせい”として処理してしまう。
認識しなければ、存在しないのと同じだからだ。
——だが、一度“それ”を認識してしまったなら。
もう、元には戻れない。
ガラス越しに、少女と目が合った。
その瞬間だった。
店の中の音が、ふっと遠のく。
まるで雲の中にいるかのように、全てが白く薄れていく。
「境、目ぇ合わしたらあかん!」
陽向の声がしたはずなのに、意味としてしか届かない。
視線を、外せない。
少女は、すぐそこにいた。
ガラス一枚隔てているはずなのに、距離の感覚が曖昧になる。
少女の唇が動く。
けれど、音は聞こえない。
——それでも、分かった。
『ここはまだ、一つになっていない』
言葉ではない。
直接、頭の奥に触れてくるような感覚。
思わず息を呑む。
少女の表情は変わらない。
静かなまま、ただこちらを見ている。
『だから、まだ間に合う、選べる』
何を言っているのか、分からない。
分からないはずなのに、意味だけが残る。
『あなたは——』
その瞬間、視界が揺れた。
肩を強く引かれる。
「境、アカン!」
陽向だった。
無理やり視線を逸らされる。
その拍子に、世界の音が一気に戻ってきた。
カップの音。マスターがミルを挽く音。人々の行き交う声。
すべてが現実に引き戻される。
「今の…何があったんや?」
荒い息のまま、かすれた声で陽向が問いかけてくる。
答えようとして、言葉に詰まる。
もう一度、ガラスの外を見る。
——少女の姿は、なかった。
マスターの淹れたコーヒーを一口含み、少し頭の中を整理する。
声ってのは“聞こえる”ものだと思っていたけど、二人を見る限りそういうものではなかったらしい。
「さっきの声、聞こえなかったのか?」
「ゆうことは、境は聞こえてたんやな?」
「ああ、“一つになっていない”とか“選べる”とか何とか言ってた…と思う。」
陽向の質問に答えてはみたものの、初めての感覚だったこともあって自信を持てなかった。
聞こえたことは断片的に覚えているのだが、やはり虚ろな感じがする。
「二人とも、一度出直した方が良いんじゃないかな?」
自分と陽向が少し落ち着いていないのを察してか、静流が提案してきた。
状況を整理するのにPCか筆記具が欲しいところなので、事務所が最適かという話になった。
とはいえ、この後に講義が控えているので、講義が終わってから事務所に集合することにした。
講義が終わり、事務所に集まるにも食事がないと思ったので、いつもの喫茶店によることにした。
マスターにお願いすると、軽食メニューを持ち帰り用に包んでもらえる。
そう思って喫茶店に近付いたときに、軽率だったということに気が付いた。
あの少女が喫茶店の前で待っていたのだ。
唖然としていると、何の前触れもなく、また世界が白く薄れていった。
音だけじゃない。空気の重さすら、消えていた。
『…また、あなたに届いた』
そう言って、シルバーの指輪を渡してきた。
真っ白な世界で二人きりの状態だ。
この状態を人に見られるのは勘弁してほしいのだが、この白い世界なら心配ないだろうとも思った。
「陽向、境の視線を遮れ。」
どこか遠くから静流の声が聞こえたかと思うと、目の前に陽向が立っていた。
やはり朝と同じように心配そうにこちらを見ていた。
「…境、戻ってきているね?」
静流の問いかけに静かに頷く。
声が出なかったので、これが精いっぱいだった。
「境、何かと会話していたんだね。」
自分は認識できないと言っていた静流だが、自分が何かと会話していることを見抜いていた。
このあたりはさすが静流だと思う。
「境なぁ、なんぼ何でも軽率やで…」
「悪い、まさかまたこんなことになるなんて思わなかった…」
陽向はそんなことを言いながら、ちゃっかりとマスターから持ち帰り用の包みを受け取っていた。
そんな様子を見ていた静流に促され、三人で事務所に向かった。
事務所で筆記具を出そうと思って思い出した。講義に行くのだから筆記具は持っている。
流石にみんな学生なので筆記具は持ち歩いていた。
朝の時点で気が付いても良かったと思うが、それだけ衝撃的な事だったのだろう。
結果としては講義に遅刻せずに済んだので、良かったのだが。
「さて、境、何を聞いたのか説明してもらえる?」
「ああ、とりあえず分かるところだけだが。」
少女が接触してきたこと、言われた内容を伝えた。
それと、さっき“また届いた”みたいなことを言っていたことも伝えた。
「ということは、その手にあるのは件の少女に渡されたものだね。」
静流に言われて気が付いたが、左手の小指に指輪があった。
別に呪われて外れないみたいな話はなく、普通に外すことができた。
「こんなん、澪ちゃんに説明できんのとちゃうか?」
「恐ろしいことを言うんじゃない…」
冷凍庫でも開いたのかと思うくらい、自分の周りが冷え込んだ気がした。
色々と関係は複雑ではあるが、恋人という立場の女性がいるので、彼女に見られると説明が難しい。
それを考えても、この指輪の意味を早くに理解する必要があった。
「恐らくなんだけど、二人の言っている少女はマスターのところに行くと必ず居るんじゃない?」
ハッとした。
確かに、陽向と話をしてから必ずそこに居た。
ついこの間までは全く認識していなかったが、陽向に話をされ、はっきりと認識してからは必ずそこにいる。
今まで気づかなかったが、その事実を今更認識することになった。
「多分、静流の言う通りやな。明日再チャレンジしよか!」
「そうだな、今日は疲れたからもう一回行こうという気分じゃないからな。」
「ということで、いつも通りに。」
静流が放置されていたゲーム機のコントローラを拾ってきた。
男三人が集まってゲームというのも不健全な気がするが、高校生の頃から変わらない風景が今は心地よかった。
三人とも気にしていなかったが
——指輪は、まるで誰かの“視線”のように、静かにそこにあった。
その日、確かに何かが“接触”した。
言葉にはならず、形にもならないまま、
ただ確かに——意味だけが残っている。
それが何を示していたのかは、まだ分からない。
けれど一つだけ、はっきりしていることがある。
あの少女は、偶然現れたわけではない。
そして——
あれは、まだ“始まり”に過ぎない。




