肆①
長い睫毛を震わせながら蒼月が目を開けると木でできた天井が映る。右側に温もりと微かな重みを感じて起き上がると、そこには冬華がうつ伏せで寝ていた。起こすのは申し訳ないと思いつつも、見覚えのない部屋と追手の行方が気になり、彼女を軽く揺さぶる。
「……ん、はっ、私寝て」
勢いよく飛び起きた冬華の顔は目の前にある。あまりの近さに驚きと照れ臭さを感じ、慌てて距離を取った。ほんのりと顔を赤く染める冬華が愛らしくて思わず抱き締めたい衝動に駆られる。
「え、えっと身体は大丈夫ですか。傷は龍神様が癒してくれたようですが」
「は? あ、嗚呼、何ともない」
すっかり忘れていたが冬華を庇って刀傷を負ったことを思い出した。住処を追い出される前、黒曜の様子が可笑しかったが、龍神たる彼は自力でどうにかしてさらに追手すら退けたということか。しかし、その肝心の黒曜が見当たらない。蒼月が傷物になったことで小言の一つや二つ言いに来そうなものだが。
「黒曜は?」
「龍神様は住処に帰られました。月、いえ、蒼月には村で暮らして欲しいとおっしゃっていました」
頭が理解することを拒んだ。黒曜に置いていかれた、ということが受け入れられない。生まれ落ちた瞬間から人の世で暮らすことは諦めていた。蒼の一族は今の帝の一族に恨まれている。百年ほど前、蒼の一族は都を追われて竜守村に流れ着いた。そして、湖に身を投げた結果、龍神である黒曜を出会う。黒曜が何故蒼の一族の守護を買って出たのかは蒼月にも分からない。けれど、蒼の一族を守護するために竜守村に強力な加護を与えて外界から閉ざした。
「華、君は……竜守村の皆は幸せ? 龍神に贄を捧げて暮らすのは、辛くはないの」
竜守村の者たちは被害者だ。龍神の加護で守られていると言えば聞こえは良いが、外界から隔離して閉鎖的な暮らしを強いている。他所の村は最早竜守村の存在すら認知していないだろう。唯一、帝の一族だけはその強い恨みから蒼の一族の居所を掴んで離さずにいる。
「贄に選ばれたときは正直何で私がって思いました。けど、村が豊かなのは龍神様のおかげです。他所は知りませんが龍神様が守って下さらなければここまで豊かではないというのは分かります」
「そう龍神が思わせているとは思わないの? 蒼の一族のために龍神が村を利用しているのを恨まないの?」
ある種の洗脳であるのなら思うことすらないのかもしれない。蒼月自身、黒曜が竜守村に対して何をどこまで語り、何をさせているのかを把握していないのだ。
「少なくとも今は思いません。だって贄は死ぬわけじゃないのでしょう。蒼の一族がどうして龍神様にお守りされているのかは知りません。それでも蒼の一族が、月が悪い方ではないのは分かります。だから恨んでいません」
目尻を下げて微笑む冬華に心を奪われると同時に、肩の荷が下りた。彼女の意見が村の総意でないのは分かっている。それでも贄となった彼女が恨まないというのなら、心が救われた、軽くなった。
「ありがとう」
目頭が熱くなる。一筋の涙が頬を伝った。
「いいえ、お礼を言わなければならないのは私の方です。五年前に湖に落ちた私を救ってくれたのは月でしょう」
柔らかな手が蒼月の手を優しく包み込む。忘れもしない。五年前、贄でもないのに少女が湖に落ちた。龍神である黒曜が住処と湖を繋げない限り、湖に落ちても溺れ死ぬだけ。けれど、偶然落ちてしまった少女が憐れで、黒曜に頼んで住処に落としてあげたのだ。
「何故覚えているの?」
「私があなたを忘れたくないと想い続けていた、からですかね」
想い続けていたのは蒼月も同じである。それでも蒼の一族である限りは望むだけ無駄だと諦めていたのに、贄としてやってきたのが彼女だと知ったときは心が舞い上がると同時に、己の宿命に巻き込むことを悔いた。
「あの、龍神様とお話した方が良いのではないでしょうか」
冬華は不安げに視線を彷徨わせた。黒曜に蒼月を村に置けと言われて少し困っている。村に置くのに問題があるというよりは蒼月の意思を無視して勝手に置いていった黒曜に対して不服だが、龍神の彼に文句は言えなかったのだ。
「嗚呼、そうだね。湖まで連れて行ってくれるかな」
「分かりました」
目を細めて遠くを見つめる蒼月の瞳には強い意志が宿っていた。