参②
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息を押し殺して座り込む時間は酷く長く感じた。蒼月の足音は既にしない。湖からそう離れていない場所なのに追手である男たちが此処を通らないことが冬華の恐怖心を煽る。逃げた方向は見られているはず。一直線に逃げたわけではないにしても追手が通らないということはあり得るのだろうか。
それでもこの場から動くということは危険が高いと思い、只々息を潜め続けている。鴉が鳴く声と共に木の葉が踏まれる音がした。
「まだ遠くには行っておらんだろう。何故見つからぬ」
不服そうな声が響く。護衛と思われる二人だけが追っていると思ったが、どうやら主と共に追っているようだ。道理で中々追手が来ないわけである。
「大体何故余も追わねばならんのだ」
「主上をお一人にするわけにも行きませんので」
高貴な男の正体は帝であった。帝自らがこの地まで訪れるほどに龍神は重要なのか、それとも蒼の一族をそれほどまでに目の敵にしているのか。どちらにせよ、帝がいるということで護衛の動きは制限されているのは救いであった。
「蒼の一族の青年を殺した後、村はどうするおつもりですか」
「ふん、蒼の一族を匿う忌々しい地などいらん。焼いてしまえ」
心臓が激しく鼓動する。ばくばくと跳ね上がる音がやけに大きく聞こえて、彼らに気づかれまいと音を漏らさないように胸を手で抑えつけた。意味のない行為であるのは分かっている。それでも必死に音を殺そうとした。けれど、動いたことで僅かに草木を揺らしてしまう。
「そこにいるのは誰だ」
護衛の一人が声を荒らげる。
気づかれた、逃げないと。頭ではそう理解しているのに身体が動かない。恐怖で足が竦む。草木の隙間から銀色に光る刃が現れ、息を呑んだ。後ろに下がって刃から遠ざかれば、さらに音が響く。
刃が視界から消えたと思った瞬間に、眼前の草木が斬られて男の姿が目に映った。冬華から男たちが見えるということは彼らからもまた彼女の姿が見えるということ。
「娘の方か。まあ良い。どのみちそれも殺すのだからな」
感情のない目が冬華を射抜く。帝にとって彼女の命など虫けら同然なのだろう。
迫りくる刃から逃げようにも震える身体には力が入らない。此処で死ぬのかと目を瞑るも痛みは訪れない。代わりに何かが圧し掛かってきた。ゆっくりと目を開けると蒼月が凭れ掛かっている。
顔を顰める彼を不思議に思い、背に手を伸ばすとぬめりとしたものがついた。月明りで色こそよく見えなかったが、彼の表情と今の状況でそれが血だと悟る。
「月!」
地面に蒼月を横たえて血を止めようと手で押さえる。
「死んだか」
帝の侮蔑を含んだ声に冬華は怒りを覚えた。激しい怒りは恐怖すら消し去る。蒼の一族が今の帝の一族に嘗て何をしたのかは知らない。けれど、蒼月が帝に何をしたというのか。ただ龍神の住処で暮らしていただけの彼に一体何の罪があるというのか。
「ふざけないで! 月があなたに何をしたというの!」
張り上げた声は自分でも驚くほどに大きく辺りに響き渡る。同時にひやりとした空気が漂い始めた。ぼつりと冬華の手に冷たい白いものが落ちる。
「雪?」
まだ暖かい季節のはずなのに、ぽつり、ぽつりと降り注ぐ雪。
「さっさと殺してしまえ」
季節外れの雪に機嫌をさらに悪くした帝は冷たく言い放つ。護衛が再び刀を構える様を横目に冬華は蒼月を守ろうと上に覆い被さった。
「なっ」
小さく溢された声の後にどさりと倒れる音がする。
「ば、化け物!」
帝の悲鳴が響くと同時に、木々が激しく揺れて薙ぎ倒された。明らかに可笑しなことが起きていると悟った冬華は起き上がる。視界に入ったのは、凍り付いた刀を手に倒れた護衛二人と、足が凍り付いて尻餅をつく帝、そして口元から冷気を吐き出す黒龍の姿だった。
「我が愛し子を傷つける人間など生かしてはおけぬ」
「ひいぃ」
恐怖のあまり帝は意識を飛ばした。それでも黒龍の怒りは収まらない。吐き出される冷気は草木を凍らせていく。
「ま、待って、龍神様。月が、月が死んじゃう」
月の名に反応して黒龍が近づいてくる。冬華は身を引き、見守った。黒龍の鼻先が蒼月の背に触れると、傷口は瞬く間に消えてなくなる。青白い蒼月の頬が血の気を取り戻す様を見て、冬華もほっと息をついた。
「龍神様、ありがとうございます」
頭を地につけて礼をする。零れ落ちる涙が地面を濡らした。黒曜という名を口にするのは憚られる。おそらくその名を呼ぶのが許されるのは蒼の一族と呼ばれる者たちだけだと本能が叫ぶのだ。
「お前のためではないわ。我が蒼月を見捨てるわけなかろう」
黒龍は光を発しながら人の形へと変化した。色黒の肌に灰白色の髪の仏頂面の青年が頭を垂れる冬華を見下ろす。未だ意識の戻らない蒼月を抱き上げて口を開いた。
「お前の家は」
「え?」
唐突な問いに素っ頓狂な声を出しながら顔を上げる。無言でじっと見下ろす黒曜に慌てて立ち上がり言葉を発した。
「こちらです」
何故家を、と思いながらも彼女は黒曜を家まで案内する。蒼月を龍神の住処に連れ帰らないことは不思議であったが、問うたところで答えてくれるとは思えなかった。