第一話
メガネを外すと、世界がやわらかく溶けていく。
黒板の文字も、先生の顔も、教室の窓から見える木々も。
すべてが輪郭をなくして、にじんで、同じものみたいに見える。
だから私は、メガネをかけている。
見えるようになった世界が、「本当」だと思っていた。
でも――最近、わからなくなってきた。
鏡の中の私は、時々、笑っている気がする。
私は笑っていないのに。
教室で、私はノートの端に小さく書いた。
「もしかして、鏡の中のほうが“ほんとうの私”だったりして」
消しゴムでこすったら、紙が少し破れた。
「水希。何書いてるの?」
隣の席の陽向が、のぞき込むように声をかけてきた。
「ううん、なにも……ただの落書き」
私は笑って、ノートを閉じた。
本当のことなんて言えるわけがない。
陽向は優しいけれど、こういう話をしたら、きっと困ると思う。
――誰も、わかってくれない。
放課後。帰り道のコンビニのウィンドウに、私が映る。
鞄を持って、ぼんやり立っている自分。
でも、鏡と違って、そこには“違和感”がなかった。
家に帰ると、母が「おかえり」と笑ってくれる。
「今日も疲れたでしょ。新しいクラス、慣れてきた?」
「……うん、まあ」
「そっか。メガネ、ちゃんと合ってる? また度数変わってない?」
「ううん、大丈夫。これでちゃんと見えてる」
見えてる――はずだった。
でも、本当に?
夜、歯を磨いているとき。洗面所の鏡に目をやると、
ほんの一瞬だけ、私が“まだ”動いていたように見えた。
心臓が、一瞬止まりかけた。
でも、次の瞬間にはちゃんと私が私を見ていた。
無表情の、目の下にうっすらクマのある、いつもの私。
「……気のせい」
そう口に出して、電気を消す。
鏡の中の私は、もう何も動かない。
ベッドに入って、今日のことを日記に書く。
きょう、鏡の中の私が笑った気がした。
ほんの少しだけ。口角が上がってた。
でも私は、笑ってない。
本当の私はどっち?
もしかして、私は、こっちじゃないのかも。
疲れてるだけ、だよね。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
『本当の世界?』は、目に見えるもの・見えないもの、その境界の曖昧さをテーマに描いた物語です。
水希という少女の「世界」は、きっと誰かの心にもあるものだと思っています。
感想やご意見など、静かにでも残していただけたらとても嬉しいです。
ありがとうございました。