第七章 天孫降臨
ニニギが天つ国から宮崎へ移住したエピソードについて、作者なりの見解を交えながら創作しました。
「おい、ニニギ。族長様がお呼びだぞ」
春の木漏れ日の中でまどろんでいたニニギは、自分を呼ぶ父の声で目を覚ました。
目の前にはまだ新芽が目立つ野菜畑が広がり、すぐそばを家禽の親子が通り過ぎていく。見上げる空は青く、高く、彼らの信仰の象徴でもある太陽の光が木々の隙間から差し込んでいる。少し風が肌寒い。
「え、俺っスか?」
ニニギはまだ夢うつつといった面持ちで、その眠たげな眼をこすりながら腰を上げた。目の前には彼の父であるオシホミミが腰に手を当てたまま立っている。族長とはその母であり、ニニギにとっては祖母にあたるアマテラスのことだ。
「また農作業をさぼっていたのか。仕方のない奴だ」
「いやだなあ、父上。そんな訳ないっスよ。」
「まあ、いい。そんなことより早く族長様に会いに行け」
オシホミミが憮然とした顔で言う。
えーと、俺、何か族長様を怒らせるようなことでもしたっスか?
ニニギは不安になって上目遣いで父を見るが、父はため息をついて首を横に振るだけだ。
「分かりました。仕方ないっス。行ってまいります」
すっかり夢から覚めたニニギは、集落の中央へと向かった。踏み分けられた獣道の隣にタンポポの花が咲いている。正面には会合などに使われる大型竪穴建物が見える。
普段ならその周囲に人の気配は少ないが、今は外部からの訪問者が来ているらしい。集落では見かけない顔であり、着ている服の意匠も天つ国とは異なる。昨夏ここにやってきた出雲の一団だった。
あちこちで地べたに座り、集落の者たちと雑談している。合計すると七~八名だろう。スサノオがやって来た時のような物々しさはない。
天つ国の者がニニギの姿を見つけて柏手を打った。少し遅れて出雲の者たちもそれにならう。
彼らを横目で眺めながら建物中に入ろうとすると、普段アマテラスの身の回りの世話をしている若い女が現れた。スサノオが来訪した時に舞を見せたアメノウズメである。酒宴の場では羞恥心をかなぐり捨てた妖艶な舞を見せるが、普段の彼女はいたって堅実で知性的である。
ウズメは二つ柏手を打ち、ニニギに対する敬意を表した。
「やあ、ウズメちゃん。今日もきれいだね」
軽口をたたくニニギを、ウズメはいつもどおり素知らぬ顔で受け流した。そしてアマテラスと客人が座る囲炉裏のそばへと案内する。
そこには身長二メートルはあろうかという大男がいた。髪はぼさぼさで、異様なほどに鼻が高い。両眼は大きく見開かれ、赤く充血している。そして口の切れ目からは、妖気とも知れぬ濃厚な圧が漏れ出ている。
その姿に圧倒され、ニニギは思わず立ちすくんだ。
「族長様、この男は何者っスか?」
直接本人に問うことも恐ろしく、ついアマテラスに助けを求めてしまう。するとアマテラスが言った。
「ウズメよ、お前は物怖じしない性格であろう。お前がニニギの代わりに訊いてやりなさい」
それを聞いたウズメは小さくうなずき、突然服を脱ぎ始める。
「え、ウズメちゃん。いったい何を?」
戸惑うニニギの視線を意に介することなく、ウズメはその胸をあらわに見せる。そして着衣の紐を臍の下まで押し下げると、嘲笑いながら男と向き合った。
と、日本書紀には記されている。この時代、婚姻は部族間での和平のための手段であり、性器の見せ合いだけでも和平への道であった。だとすれば、このウズメの行動にも理由があると理解できよう。
「ウズメ殿とやら。どうして私に向かってそんな恰好をするのです?」
男が低い声を出した。その態度は意外にも礼儀正しい。
「アマテラス様の治める国にこうしてやってきたあなたは何者なのです? 言いなさい」
妖艶な姿のウズメから放たれる鋭い視線が男を射すくめる。男は少し目をそらしながら、その問いに答える。
「私の名はサルタヒコと言います。昨年、我が国のスサノオ王がこちらに参られた際、天孫ニニギ様を我が国にお招きする約束をされたと聞き及んでおります。我々出雲の民としても大いに喜ばしいことであり、スサノオ王の命を受けてこうしてお迎えに参った次第です」
このサルタヒコという男は、出雲国風土記にも登場する豪の者である。矢をヒョイと投げると、大岩を貫通してしまったという逸話が残されている。
またスサノオ以前から出雲に住んでいた出雲族が祀っていたのは、龍蛇神であり、その子がサルタヒコだとも言われている。つまりは旧支配者の一族だった可能性がある。出雲の支配権をスサノオ一族に禅譲し、その使者として遣われたのだとしたら、彼の心中は複雑だったに違いない。
「え、俺、考えておくとは言ったけど、約束なんてしてないよ」
思わず反論するニニギを、アマテラスが手で制した。
「まあまあ、そんなに慌てるものじゃないよ」と言ってから、サルタヒコと向き合う。
「お前さんも長旅で疲れたであろう。今晩はこの集落でゆっくり休むといい。私もそのあいだに、ニニギとよく話し合っておくからね」
その口調は柔らかく、それでいて反論を受け付けぬ厳しさがある。
サルタヒコは少し思案していたが、やがてアマテラスに向かって四つ柏手を打つと黙って頭を下げた。
その夜、アマテラスはオシホミミとニニギの二人を族長の家へと呼び寄せた。アマテラスのそばには、いつものようにウズメが控えている。あたりに他の人の気配はなく、空気は硬く重苦しい。遠くからは、潮騒が一定の間隔で聞こえてくる。
「ニニギ、昼間の件だけど、どう思う?」
アマテラスが口火を切った。
「そうっスね……知らない国に行って見聞を広めるのも面白そうっスね」
「他には?」
「他にっスか? えーと、あの男、怖そうな見た目の割には礼儀正しかったっスね」
「信用できると思うかね?」
「まあ、悪い奴ではないと思うっスけど」
「そうかい。それは私も同意見だよ。では出雲はなぜお前を迎えに来たんだろうね?」
「もちろん、それが出雲にとって国益になるから……」と言いかけて、ニニギが顔色を変えた。「ってことは、もしかしてあれっスか? 俺、人質にされるっスか?」
「この子はようやく気付いたのかい」
アマテラスが苦笑いを浮かべた。しかしそこには孫への慈愛も込められている。
「私たちが甘やかしすぎたのかね。お前はまだ国と国との駆け引き、謀略に疎い。でも去年スサノオ王がここに来ただろう。あの時にお前を見て、簡単に篭絡できると考えたんだろうね。自分たちの考え方を刷り込んで、将来の友好につなげるもよし。いざとなれば人質にするもよし。どう転んでも向こうの利益につながるだろうね」
「それなら俺、断ったほうがいいっスか?」
「そう単純な話でもないよ。わざわざ出雲から使いの者を寄こしてきたんだ。それを手ぶらで帰したりしたら、向こうも格好がつかないからね。私の見立てでは、あのスサノオという男は一見粗暴だけど、頭の回転が速くて抜け目がない。だからこちらの対応次第では何か言いがかりをつけてくるかもしれないし、それを周りの国に言いふらされても面倒なことになる」
「そんなあ」ニニギが弱り切った声を上げる。
「こうなったら、お前は出雲に向けて出発するほうが良さそうだね。あの男を敵に回したら、のちのち大変だ」
「でもそうしたら……」
「出発して、出雲までたどりつかない方法でもあればねえ」
アマテラスは右手を頭に当てて思案する。それが何かを考えるときの彼女の癖だった。
「族長様、不穏なお言葉はおやめください。それではニニギ様はどうなるのです?」
突如として割り込んできたのはウズメだった。地面に座ったまま、下半身は動くことなく上半身だけ乗り出している。
「ウズメ、お前は賢い子だ。だから逆に訊くけど、お前ならどうするね?」
「私なら……」
ウズメは思案した。そしてしばらくしてから、深々と頭を下げる。
「族長様。私はこれまで族長様のおそばに仕えすることで、さまざまな知識を授けていただきました。心から感謝しております。その上で勝手なお願いをすることをお許しください。私はお暇をいただき、ニニギ様の旅に同行いたしたく存じます」
それを聞いたアマテラスが少し表情を曇らせる。
「それは一体どういう心づもりなんだい?」
「あとで族長様にだけお話しします」
ウズメは少しだけ頭を上げ、上目遣いでアマテラスを見た。その瞳にはたしかな決意が宿っている。
「先走ったらダメだよ。ニニギにもウズメにも長生きしてもらうことが絶対条件だからね。その上で、あのサルタヒコという男の顔も立ててやらないといけないんだよ」
「はい、承知しております」
ウズメの決意が揺らぐ様子はない。それを確認したアマテラスがふっと力を抜いた。
「ふっふっふ、なにやら腹案がありそうだね」
そしてオシホミミとニニギを手で追い払う仕草をする。
「さあ、ここからはガールズトークの時間だよ。お前たちはさっさと自分の住居に戻りなさい」
アマテラスにこう言われてしまえば、男たちは黙って引き下がるしかない。
「はい、承知しました」
オシホミミはアマテラスに頭を下げ、ニニギを伴って族長の家を出る。
遠くから聞こえてくる潮騒の音が大きくなり、空には幾多の星たちが瞬いていた。
その十日後、ニニギはサルタヒコの道案内で出雲の国へと旅立つことになった。天つ国からはアメノイハトワケ、アメノタヂカラオ、アメノコヤネ、フトダマ、オモイカネ、イシコリドメ、タマノオヤ、そして紅一点であるアメノウズメが同行する従者として選ばれた。船のこぎ手や給仕係、護衛の兵士などを含めると総勢で百人を超える大所帯になる。
ちなみにアメノコヤネの子孫は中臣氏、藤原氏である。そして藤原氏のY染色体ハプログループはO1b、つまり大陸系だと判明している。
そうであれば、この時点でアメノコヤネがニニギにつき従っていたのかは疑わしい。日本書紀の編纂時に権勢をふるっていたのは藤原 不比等であり、自分たちの先祖が最初から天皇家につき従っていたように改竄させた可能性もある。
旅立ちに際し、アマテラスはニニギに八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の三品と稲穂を授けた。
「我が孫よ、この鏡を見るときには、私を見るつもりでご覧なさい」
アマテラスがそう語る鏡は、交遊のあった九州の狗奴国から贈られたものである。あのスサノオが来た時に異国の文字を刻み込まれており、それが今も残っている。剣はアマテラスとスサノオの誓約の際にスサノオから贈られたものであり、勾玉は縄文時代から伝わる装身具の一つである。
これらが後世の天皇家に伝わり、三種の神器と呼ばれるようになる。天皇であってもそれらを直接見ることはできないが、天皇家の重要な式典には必須となる品々だ。
しかし長い歴史の中には、それを目にした人物がいたらしい。その目撃証言では「剣は楠の木箱に入れられ、全体的に白色であった」とされる。楠に含まれる樟脳の腐食作用を受けてもその色を保っていたのだとすれば、その材質は鉄ではなく銅である可能性が高い。つまり青銅の剣ということになる。
こうして三種の神器を携えたニニギ一行は、多くの人々に見送られ、三十人あまり乗れる大型の準構造船五隻に分乗して、天つ国を旅立った。
これが世にいう天孫降臨である。
しかしそれを取り巻く情勢は複雑であり、必ずしも前途洋々と言えるものではなかった。後世の記紀編者がこれを記述するとすれば、何らかの改変が必要になったであろう。