第六章 天つ国と出雲
純粋な考察回です。
記紀では、アマテラスとスサノオはイザナギとイザナミから生まれた姉弟ということになっている。
彼らが住むのは天つ国という天上界であり、スサノオは地上に降りる前に姉であるアマテラスに挨拶をしに来る。しかしスサノオが歩くたびに大地が揺れ、暴風雷鳴がとどろいた。アマテラスはそれを自分にとって代わろうとする邪心の表れととらえ、男物の甲冑を着込み、数々の武器を持ち、臨戦態勢でスサノオを迎え入れる。
一方のスサノオはアマテラスに旅立ちの挨拶をしに来ただけだと言い、邪心がないことを証明するために「誓約」の勝負を申し込む。
果たしてアマテラスがスサノオに渡した勾玉からは五柱の男神が生まれ、スサノオがアマテラスに渡した剣からは三柱の女神が生まれる。この結果をもって、なぜかスサノオの勝利になるのだ。
その後のスサノオは調子に乗って狼藉を働き、これに怒ったアマテラスは天の岩戸に引きこもってしまう。世界は闇に閉ざされるが、アメノウズメが舞を披露し、皆が拍手喝采するさまを聞き、アマテラスは外の様子が気になってしまう。そしてほんの少し岩戸を開いたところを、タヂカラオによって力ずくで連れ出される。
この後、スサノオは天つ国を追放され、出雲へと至る。そこでヤマタノオロチを倒し、その尾から草薙剣を見つけ出し、アマテラスに献上する。
以上がこれまでの物語のベースになった部分である。
それから時は流れ、スサノオの六代目の子孫であるオオナムチには八十神という意地悪な兄たちがいた。オオナムチは因幡の白兎を助け、ヤガミという美しい女性と結ばれる。しかしそれに嫉妬した八十神たちによって二度も殺されてしまい、その都度生き返る。さすがに身の危険を感じたオオナムチは根の堅州国へと逃げ、そこで出会ったスサノオの娘スセリと恋に落ちる。
つまりスサノオの六代目の子孫がスサノオの娘と恋に落ちたことになる。この時点で、記紀は何らかの時間的な改変をしていることが分かるだろう。
それはさておき、スサノオが課すさまざまな試練を乗り越えたオオナムチは、スセリとともに出雲へと戻るのだが、その際にスサノオから「お前を苦しめた八十神たちを追い払い、今後は大国主と名乗れ。そしてわが娘スセリを妻とし、出雲に住んでこの世を治めよ」と激励される。
もし彼らがユダヤ系だとすれば、これは「縄文人たちの信じる八百万の神を追い払い、この出雲に唯一絶対信を崇拝するユダヤ教の王国を築け」と激励したようにも受け取れる。
そしてその傍証として、出雲市の荒神谷遺跡からは銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が出土している。それまでに全国で出土した銅剣の総数が約300本であったことを考えると、大変な物量だろう。青銅は柔らかく、実際の戦闘には使えないこともあり、これらの剣は何らかの信仰にともなう祭器であったと考えられる。なおこれらの現物は、島根県立古代出雲歴史博物館に行けば見ることができる。
出雲国風土記によれば、出雲には399の神のヤシロがあったとされる。もともとはそれぞれのヤシロに一つの青銅器が祭られており、その一部が紛失したと考えれば、銅剣、銅鐸、銅矛あわせて380という数になりそうだ。ちなみに荒神谷遺跡から発見された銅剣の多くには×印がつけられており、「今後の使用を禁止する」という意味にも受け取れる。
仮に出雲の国を治めた大国主ら古代出雲王家がユダヤ教徒であり、彼らが青銅器を祭る偶像崇拝を禁止したとすれば、荒神谷遺跡から発掘された青銅器の状況をすっきりと説明できる。出雲国399のヤシロに安置されていた偶像崇拝の的である青銅器が一か所に集められ、邪教の教えとして廃棄させられたのである。そしてその発掘状況からは、名残惜しそうに「大事に捨てられた」ことが伝わってくる。
こうして出雲からいち早く祭祀用の青銅器が姿を消した数世代後、今度は日本全国から祭祀用の青銅器が姿を消す。
そればかりか各地で環濠集落や高地性集落が解体しはじめ、長く続いた戦争状態が終わりを告げる。
奈良の地に、最初から環濠を持たない巨大な宗教都市と考えられる纏向遺跡が誕生する。これは二世紀末から三世紀の初頭にかけて、東西約二キロ、南北約一.五キロに及ぶような巨大集落が突然、それも都市計画をもって誕生したものである。そこに多くの人たちが各地から自前の土器を持って集まってきた形跡がある。
その後は大きな戦を経験した形跡もなく、古墳時代へと移行していく。
この状況は、武力ではなく宗教的な力による日本統一があったことを示唆している。突然新しい宗教が生まれ、縄文人と弥生人の両者がそれに帰依することによって、日本が平和になったのだ。
この時代にそのような偉業を成し遂げた人物がいたとすれば、それは天下を初めて治めた天皇をおいて他には考えられない。その人物が現在の日本に息づく神道を発明し、それを日本中に広め、自らがその祭祀王になった。
作者には、そう思えてならないのである。
なお記紀では、大国主が出雲の国を支配したのち、国譲りのエピソードが描かれている。ここではアマテラスの一族を天つ神と呼び、大国主の一族を国つ神と呼んでいる。
前述の通り、天皇家のY染色体ハプログループは縄文系のⅮ1bだが、古代出雲王家もⅮ1bと判明している。
一方で、古代出雲王家はインドからの移民であることを、その直系の子孫が認めている。来日後、どこかで女系相続があったのかもしれない。出雲では末子相続が主流だったと伝えられる。
昭和時代に、産経新聞の重役を務めた富 当雄という人物がいた。彼は司馬遼太郎の記者時代の同僚でもあり、その一族は古代出雲王家の末裔だという。富家に伝わる口伝では、彼らの遠い祖先は南インドのドラビダ族の王だったクナトという人物だとされている。
1970年代の末、学習院大学の大野晋教授は、日本語の起源は南インドのタミル語に求めることができるという説を発表した。教授は日本語とタミル語の間にコメ、アハ、ハタケ、タンゴなどの稲作農業に関する言葉の音韻が同一であることを指摘し、文法や五七五七七という歌の形式、様々な農耕儀礼、甕棺などの墓制などでも両者の間に近親性があると考えた。これらを持ち込んだのが、古代出雲王家だったのかもしれない。
このタミル語を話すタミル人は、ドラビダ系の民族である。そして古くはインダス文明を築いた民族でもある。
この血を引くとされる古代出雲王家の口伝については、当雄氏の子息であるペンネーム斎木雲州著「出雲と蘇我王国」で詳しく知ることができる。そこに書かれている歴史は記紀とは大きく異なり、かつ屈辱の感情が渦巻いている。一般的には、この感情が強いと、記憶が自分に都合よく改変されたり、都合の悪い事実を隠したりすることがある。そのため、作者はこれをすべて真に受けることには慎重な立場である。
斎木雲州氏は、自分たちの祖先であるクナト大王をクナト大神と呼び、男女ペアのサイノカミを信じていたと主張する。
しかし現代日本人とドラビダ族のY染色体ハプログループを比較した限りでは、弥生時代に多くのドラビダ族が日本列島に移住したとは思えない。
また手足が長く、寒冷地での体温維持には不向きな体形をしたドラビダ人が、寒冷なヒマラヤやバイカル湖を超えて日本列島に北からアクセスしたという彼らの伝承も信じがたい。
古代出雲王家が語り伝える規模、経路での大規模な移住はなかっただろうと、作者は考えている。
ここで記紀の話に戻る。
アマテラスはこの地上を自分たちのものだと考え、大国主に支配権を譲渡するよう求めた。そしてアメノホヒら数人の天つ神を順に派遣するが、みな大国主に取りこまれてしまい失敗する。
そこで最後に武道の神タケミカヅチを派遣したところ、大国主とその息子である事代主はあっさりと同意する。しかしもう一人の息子タケミナカタはこれに同意せず、力比べを挑む。その結果、彼は武道の神タケミカヅチに圧倒されてしまい、長野県諏訪市まで逃走して「自分の一族はこの地から一歩も出ない」と約束する。
そしていつしかタケミナカタを祭神とする諏訪大社では、旧約聖書に出てくるイサクのエピソードとそっくりのミサクチの祭りが伝承されるようになる。この祭りは、敬虔なユダヤ教徒であったタケミナカタ、またはその信仰を引き継いだ後世の関係者が創始したと考えられる。
一方、古代出雲王家の口伝では、タケミナカタは諏訪にサイノカミ信仰と伝えたとされる。だとすれば、サイノカミ信仰とはユダヤ教のことではないだろうか?
なお大国主は国譲りの際に「自分のためにこの国で一番高いヤシロを建ててほしい」という条件をつけ、これがのちの出雲大社になる。出雲大社の社伝によれば、最古の本殿の高さは四十八メートルもあったとされ、実際にそれを裏付ける遺構も見つかっている。
これはたしかに当時の日本で一番高いヤシロだったが、普通に考えれば一国の支配権と引き換えるだけの価値あるものではない。しかし彼がその支配に行き詰まるか、軍事的敗北の後だったとすれば、話は違ってくる。
前述の通り、島根県は今でも縄文系の割合が高い地域である。そこに突然、この物語のように治水に長けたユダヤ教徒が入植して支配権を得てしまい、己の信仰を押し付けてきたら、やがて多くの民は統治者に対する不満を募らせるに違いない。そのせいかは分からないが、出雲国風土記でスサノオの扱いはあっさりとしている。
「この国は小さい国とはいえ大変住みよく、国として治めるにはまことに価値のあるところだ。だから私の名前を木や石のようなものにつけまい」
という台詞が出てくる程度である。神道ができる以前の日本では、木や石をご神体として崇める風習があったとされるが、スサノオはその信仰を見下しているようにも思える。
もし彼の子孫とされる大国主がユダヤ教徒であり、何らかの理由で支配権を手放すことになったとすれば、自分にとって一番大切なものをこの国で一番高いヤシロに祭り、みずからの信仰だけでも守りたいと思ったかもしれない。
なお出雲大社の本殿内で、大国主は参拝者と正面から向き合わず、ユダヤ教の聖地であるエルサレムの方角を向いていることは以前にも述べたとおりである。
だとすれば、大国主が本当にこの国で一番高いヤシロに祀って欲しかったのは自分自身ではなく、唯一絶対神に祈りをささげる自分、ひいては唯一絶対神だったのかもしれない。
出雲大社の参拝者は大国主に礼拝し、大国主は唯一絶対信に礼拝する。この構図であれば、参拝者は間接的に唯一絶対神に礼拝しているように見えなくもない。この時に行う礼拝方法は、通常の神社とは異なる二例四拍手一礼である。参拝者が大国主に二拍手して、大国主が唯一絶対神に二拍手して、合計四拍手。これによって、その間接的な礼拝は唯一絶対神に届くのかもしれない。
ただしこれは作者の妄想に過ぎず、由緒正しい出雲大社に参拝する人がそのような戯言に心を迷わせる必要はないということを申し添えておく。
ともあれ、こうして平和裏に大国主からアマテラス系への国譲りが完了し、満を持してニニギが天つ国からこの地上へと降り立つというのが、記紀の伝えるエピソードである。
しかしこれはどこか不自然だ。古事記では出雲系のエピソードに紙面全体の三分の一を割くなど、天皇家の敵対勢力でありながら、破格の待遇を与えている。天皇家が日本を統一する上で最後の難敵、つまりラスボス(ラストのボス)が出雲系だったと考えたくなる状況なのである。
ちなみにロールプレイングゲームであれば、レベル1の勇者が冒険の旅に出て成長し、最後にラスボスを倒すのが通常の流れである。現実や神話の世界でも似たり寄ったりだろう。
しかし記紀では、その半生をしっかりと描いたラスボスである出雲の神が平伏してから、レベル1の勇者ニニギが満を持して冒険の旅に出ている。
ここに記紀作者が作り出した時間のずれ、すなわち捏造の作為を感じる。
またスサノオと大国主の間には世代という時間のずれが存在しており、ここにも捏造の作為を感じる。
もしかしたら出雲の国譲りは、ニニギが冒険の旅に出た後で、スサノオの子孫とされる大国主がいた時代、すなわちニニギの曾孫である天下を初めて治めた天皇が即位した時代に行われたのかもしれない。
だとすれば、記紀は時間のずれを作ってまで、いったい何を隠そうとしたのだろうか?