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第四章 アマテラスとスサノオ

 天照大神が住んでいたとされる高天原での話です。

 高天原は沖縄にあったとする説もありますが、沖縄では10世紀までの長い間、狩猟採集の生活が続いていました。12世紀に農耕社会となり、15世紀に入って当時の三勢力が統一され、琉球王国が誕生しました。

 弥生時代の沖縄に高天原という農耕を基盤とした小国家が存在して、それから狩猟採集の生活に戻り、統一王朝が生まれるまで千年以上を要したというストーリーには無理がある気がします。

 現在の茨城県鹿嶋市、JR鹿島神宮駅から徒歩数分の場所に鹿島神宮がある。

 創建は神武天皇元年とされ、武道の神タケミカヅチを祭神としている。記紀によると、彼はアマテラスの命を受け、出雲に住むスサノオの子孫オオクニヌシに国譲りを迫り、その子タケミナカタを諏訪の地に追放したとされる人物である。

 鹿島神宮の境内には東西に参道が伸び、今でこそその脇に本殿が建っているが、かつては参道の先から登る太陽そのものがご神体であったともいわれている。そしてその参道からまっすぐ東に進むと、今でも高天原(たかまがはら)という地名が残されている。

 今より海面が高かった縄文後期~弥生時代、ここは海岸線のすぐ近くだった。


 西暦146年8月12日、高天原(たかまがはら)

 内海に向かって複雑な地形のリアス式海岸が広がり、その海岸線に沿っていくつもの縄文人の集落が連なっている。

 このあたりは水はけがあまり良くないので、彼らの好物である栗を栽培することはできない。代わりに水稲や海産物を近隣の集落に持っていき、物々交換をするのが常だった。

 晴れた日には、のちに利根川となる内海をはさんだ向こう岸に銚子半島の姿を望むこともできる。そこは冬至の日に、この縄文の国で最も早く日が昇る場所として知られていた。太陽は彼らにとって信仰の対象だが、実際には陸路での交易がやや不便なこともあって、内海の対岸で暮らす人の数が圧倒的に多かった。

 家々からは囲炉裏で煮炊きする煙がまっすぐ立ち上り、今にも雨が降りそうな曇天(どんてん)の中へと消えていく。

 ここは自分たちを(あま)つ民、そして自らの国を(あま)つ国と呼ぶ縄文人たちが暮らす集落だった。

 普段であればそこにはのどかな風景が広がり、人々の笑い声が絶えない。海の幸に恵まれ、優れた海運力を持ち、交易によって生活に必要なものはおおよそ手に入れることができる。

 この時代、東北地方は寒冷になって人口が減ったが、その代わりにここ関東と東海地方が縄文人たちの一大集積地になりつつあった。彼らは緩やかな縄文連合を築き、そこでの情報交換と交易をすることで、平穏な日々の暮らしを守ろうとしていた。

 中でも、縄文の国で最も早く日が昇る場所を支配地とする天つ民の一族は、他の地方からも一目置かれる存在であり、その族長は縄文人全体の精神的支柱ともいえる存在であった。

 現在の族長は年老いた女性であり、その名をアマテラスという。

 伝統を重んじるあまり、やや偏屈なところもあったが、基本的には温厚な性格で、多くの縄文人たちはその笑顔を慕った。また今は亡き夫と同様に、的確な情勢判断のできる知性をも併せ持っていた。

 その老婆が男物の甲冑に身を包み、石槍を持って険しい顔をしている。彼女の両脇や後ろには、やはり武装した多くの男たちが立ち並び、石斧や槍、弓などそれぞれの得物を手に、臨戦態勢を保っていた。

 垂れこめる雲はますます暗くなり、やがてあたりに雷鳴が響き渡る。にわかに大粒の雨が降り出し、そこに立ちつくす兵士たちの顔を横殴りにする。

 この日、彼らの集落へとやって来たのは出雲国のスサノオ王だった。


 この時代をさかのぼること数百年の昔、西の大陸には秦という巨大国家が誕生し、この縄文の国すべてを合わせたよりも広大な土地を一人の皇帝が支配したという。しかしその統治は暴虐を極めたため、多くの民がその地を逃れて縄文の国へとやって来た。その中には皇帝の家来であった徐福と呼ばれる者もいた。徐福は永遠の寿命を得られる仙薬がこの縄文の国にあるという噂を皇帝の耳に入れ、それを探しだすという名目で一族や多くの家来を連れてこの国に渡ってきたという。

 かれらは縄文の国の各地を巡り、おのおのが気に入った土地を見つけるとそこに住み着いた。彼らの中には治水や養蚕、製鉄などの技術を持った職人も数多くいた。

 その他にも大陸から亡命、渡来した弥生人たちは数多く、今ではアマテラスたち縄文人よりも弥生人のほうが多くなってしまったのではないかとも言われている。

 この日、出雲の国からはるばるこの高天原にやって来た治水王スサノオも彼ら弥生人の一人である。

 西の大陸ではすでに秦の皇帝がいた時代から巨大な治水工事が行われており、その中でも都江堰(とこうえん)と呼ばれる施設は巨大な河川の流れを変え、高天原の西に広がる霞ヶ浦よりも広大な土地の灌漑に用いられるようになったという。

 スサノオはその流れをくむ技術者であり、大陸から朝鮮半島の東部(後世の新羅)を経て、出雲の国に移り住んだ。彼は出雲の自然とそこでの穏やかな生活をたいそう気に入り、やがて地元の言葉を覚えると、

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

(雲が幾重にも湧く出雲の地で、妻との新居によい場所を見つけた。 妻のために垣根を幾重にも造ろう)

 というこの国で初めての和歌を詠んだ知識人でもある。

 スサノオが出雲に移り住んだ時、地元では斐伊川の氾濫に苦しんでいた。その地を治める族長だったアシナヅチはそれを竜の怒りであると恐れ、自らの娘七人を氾濫する川にいけにえとして捧げたが、竜の怒りはその後も止むことはなかった。

 それを見かねたスサノオは斐伊川の治水を行って竜の怒りを鎮め、アシナヅチの娘クシナダと結ばれた。和歌に出てくる妻とは、このクシナダのことである。そしてアシナヅチから、出雲の地を治める族長の地位を引き継いだ。

 だが、自然という人智を超えた存在に対して、いけにえを捧げることしかできない縄文人たちの非科学的な風習を()の当たりにして、スサノオには縄文人を見下し、彼らに対して傍若無人に振舞うところも見受けられた。


 記紀にはスサノオによるヤマタノオロチ退治の話があるが、これは斐伊川の氾濫を治水で沈めたことを暗喩したのではないかとする説がある。一方で出雲はたたら製鉄で有名な場所であり、製鉄の際にできた赤い水が川を流れたのがモチーフだとする説もある。しかし、たたら製鉄が始まったのは六~七世紀であり、年代的に合致しない。

 古代鉄器研究の第一人者奥野正男氏は「弥生中期~古墳前期に作られた鉄剣はその139例中93例が九州北部になっている」と指摘している。

 また広島大学考古学研究室の川越哲志氏が2002年に作成した弥生時代鉄器総覧によると、鉄の矢じりは福岡398個、熊本339個、大分241個、京都112個、岡山104、宮崎100,山口97、奈良4などとなっている。

 この時代、鉄利用の先進地は福岡をはじめとする九州勢であり、出雲での利用は少なかった。

 

 ここで物語に戻るが、スサノオは異国の神を信奉しており、出雲の人々が石や木、自然などに祈りを捧げようとすると、激しく怒り出すことでも知られていた。

 そのような男が二百人もの随行者を伴って、この国へとやって来たのである。アマテラスをはじめとする天つ国の民たちが恐れをなしたのも無理はない。

 スサノオとその配下たちは、すでにアマテラス側と大声で話し合えるほどの距離まで来ていた。およそ半数は武装している。上空に向けて矢を放てば、そのうちの何本かは敵陣に届くであろう。アマテラスの両脇に控える大盾を持った男たちが、いざとなればいつでもその身をかばえるように身構えている。

 両者は雷雨の中、一言も発することなく相手を観察していたが、やがてしびれをきたした中年の男がアマテラスの背後から現れ、大声を張り上げた。

「私は族長アマテラスの長男オシホミミである。貴兄らは一体何の用件でこの天つ国まで参られた?」

 それを聞いたスサノオ軍の一部がざわめいた。と同時に、なにやら一喝する声があがる。そこを中心に兵士たちの群れが二つに割れて、一人の男が現れた。背が高く、筋肉質な体躯(たいく)の持ち主で、両耳の前のびんの毛を長く伸ばして結わえた不思議な髪型と長い(ひげ)が印象的である。

 これは後世の日本でミズラと呼ばれる髪型であり、ユダヤ人のペイオトと呼ばれる髪型とも似ている。旧約聖書、レビ記の一説には「あなたがたのびんの毛を切ってはならない」と記されており、現代でも伝統を重んじるユダヤ人はそれを守っている。

 作者の知る限り、縄文時代の土偶でミズラの特徴を備えたものはなく、弥生時代になると人型の像そのものがほとんど見られなくなる。その後、ミズラが見られるようになるのは古墳時代の埴輪(はにわ)からである。

 現在、高天原から南西に三十キロほど離れた千葉県の芝山古墳・はにわ博物館には、鼻が高く、とんがり帽子をかぶり、髭とミズラを伸ばした埴輪が展示されている。これを現在のユダヤ人たちの写真と比べてみると、もうユダヤ人にしか見えなくなるレベルでそっくりだと思うに違いない。つまり古墳時代までに、この地にもユダヤ人たちが入植していた可能性が高い。

 そのような不思議な姿をした男が出雲の治水王スサノオだった。

「天つ国の諸兄よ。この悪天候の中、盛大に我々を出迎えてくれたことにまずは感謝する」

 スサノオは、皮肉だが空気の読めない外交儀礼だかよく分からない台詞を口にした。その言葉にはどこか異国のイントネーションがある。

「われわれ出雲の国でも、天つ国の族長アマテラス殿のお人柄とご威光は遠く聞き及ぶところである。そこで私はアマテラス殿と兄弟姉妹の誓いを交わしたく、こうしてはるばるこの国へと参った次第である」

 その言葉を聞いたスサノオ側の武装兵たちが一斉に得物を振りかざし、歓喜の声を上げた。敵対的なのか、友好的なのか、どうにも判断が難しい連中である。

「それならそれなりの礼儀作法があるでしょう。見たところ、あなたたちの姿はあまり友好的には見えませんが」

 天つ民の軍勢から一歩前に進み出たのはアマテラスだった。今でこそ歳を重ねてしわがれてしまったが、若いころの美貌と美声はあまねく世の男たちを虜にしたとも言われていた。

「ははは、それはもっともですな。さすがはアマテラス殿」

 スサノオも軍勢から一歩進み出て、アマテラスに歩み寄る。

「ところであなたは普段、ご友人と会う際にいつもそうやって甲冑を着こむのですかな?」

 痛いところを突かれてアマテラスが絶句する。そこにスサノオは言葉をかぶせる。

「我々に邪心はありません。ただ、あなた方の態度を見てこちらとしても最低限の備えをしたまで。まずはお互い武器を下ろしましょう」

「ならば邪心がないことを証明できますか?」

 まだアマテラスの言葉にはとげがある。それを感じ取ったスサノオが誓約(うけい)の勝負を申し込んだ。契約とはこの当時よく行われていた、正邪を判断する占いの一種である。特に明確なルールはないが、自分がいかに本気かを相手に伝えることができれば勝ちというものだった。

 今回はお互いに邪心がないことを示すために、アマテラスとスサノオがお互い相手への贈り物を用意して、それを間近な距離で交換することになった。

 アマテラスはしぶしぶその勝負に応じ、自身の集落に伝わる勾玉(まがたま)をスサノオへの贈り物とした。一方のスサノオは出雲から持ってきた青銅の剣を贈り物とした。前述のとおり、この当時の出雲には鉄製品は少なかったが、青銅の剣は十分な量を保有していた。この剣は、雷雨のなかでアマテラスに贈られたことから、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けられた。のちにヤマトタケルが使用して草薙(くさなぎ)の剣と改名されたものであり、現在では三種の神器の一つとして熱田神宮に安置されている。

 アマテラスはもしもの狼藉(ろうぜき)に備えて、五人の武装した男たちとともに前へと出た。一方のスサノオは三人の女を引き連れて丸腰でやってきた。

 そして両者が贈り物の交換を終えたところで、スサノオが勝ち名乗りを上げる。

「この勝負、私の勝ちですな。アマテラス殿は私を信用できず、五人の男兵士を連れてきた。一方の私は丸腰の女三人だけだ。これで私に邪心がないことを分かってもらえたでしょう」

 こう言われてしまうと、アマテラスとしても返す言葉がない。両者の体格差を考えれば致し方のない用心だったとは言え、スサノオに対して精神的な負い目ができてしまった。

「分かりました。あなたの言葉を信じて、両国が友好国になることを約束しましょう」

「それはありがたい。これで我々は兄弟姉妹です。見たところあなたのほうが年上ですから、さしずめあなたが姉で、私が弟といったところですかな」

 スサノオが「ガハハハ」と品のない笑い声をあげた。

 見たところ年上と言われてしまい、アマテラスが苦々しそうに顔をしかめる。その頃になってようやく嵐がやみ、空から一条の光が差し込んできた。しかしアマテラスには、それさえ(うと)ましく思えた。

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