第三章 弥生時代
現代科学が解き明かす弥生時代の紹介です。
日本に水稲が伝わったのは紀元前十世紀ごろとされる。
かつては朝鮮半島から伝わったとする説もあったが、現在では否定されている。
水稲のRH1遺伝子にはAからHの八種類があり、中国にはこの八種がすべてある。八種のうちBが最も多く、Aが次いで多い。朝鮮半島にはこのうち七種があり、そのうちBが無い。日本には八種のうちAとBとCがあり、そのうちBが一番多い。そしてAが次いで多い。つまり日本の稲が朝鮮半島を経由して伝わった可能性は遺伝学的にありえないと結論できる。
では水稲栽培、いわゆる稲作が伝わったことにより、日本中にパラダイムシフトが起きたのだろうか?
縄文人をネアンデルタール人のような原始的集団と混同する人は、未開の地に先進的な稲作が伝わり、縄文人が嬉々として受け入れたというイメージを抱きがちだが、それは間違っている。
九州で稲作が始まったのは紀元前十世紀ごろだが、それが近畿まで伝わったのは紀元前五~七世紀、そして関東に伝わったのは紀元前一世紀なのである。
三内丸山遺跡を見ても分かるとおり、縄文人は海の難所である津軽海峡すら超えて、広域での交易をおこなっていた。それでも九州から関東まで稲作が伝わるのに要した期間は九百年ということになる。平安時代末期から現代までと同じ期間だ。
どうも稲作は縄文人たちにとってあまり魅力的ではなく、当初はそっぽを向かれていたようなのだ。
ではその理由は何だろうか?
鬼頭宏氏の「人口から読む日本」によると、紀元前200年ごろ、日本列島の人口は四十万人に満たなかったという。稲作は単位面積当たりで多くの人間を食べさせることができるが、過疎地域であればその必要性は乏しい。もともと豊かな風土の中でさまざまな四季の食彩を楽しんでいた縄文人たちが、狭い土地からの労働集約型農業によって収穫されるでんぷんの塊に興味を示さなかったとしても不思議ではない。
それに稲作では、縄文時代の生活以上に土地に縛られることになる。天変地異や災害があった際に、ほかの場所への移住のハードルが高くなるのだ。これは地震や洪水、土砂災害の多い日本ではデメリットになるだろう。
大阪府立弥生文化博物館に行くと、以下のような説明文を目にする。
「弥生前期の遺跡が多い河内地方では、主に弥生土器が出土する集落と縄文土器が出土する集落が、ある程度の期間併存しており、それぞれの土器を使う人々が住み分けるようにして暮らしていたことが理解できます」
「これらのことは、日本列島の人々が水田稲作をわれ先にと求めるようなあり方ではかなったことを意味しているといえるでしょう」
つまり縄文人は、弥生人の集落のすぐそばで暮らしながら、目の前の稲作や弥生式土器などを受け入れず、自分たちの縄文文化を守ろうとした形跡があるのだ。
その一方で弥生人は稲作をして、弥生式土器を作り、生活していた。そして弥生人の集落からは、縄文時代の遺跡でよく見られた貝塚が発見されることはほとんどない。つまり縄文人と弥生人では食文化が異なっていたことになる。普通に考えて、日本人の祖先が米を食べるようになった途端に貝を食べなくなるという合理的な理由はない。
そして食文化が異なるということは、民族や言葉も異なっていた可能性がある。先住民が縄文人で、渡来人が弥生人ということになるだろう。しかし時代の流れとともに縄文人たちも弥生文化を受け入れ、均一化していったと考えられる。
ちなみにその分布には地域差があった。
東京大学の渡部裕介氏、大橋順氏らは、本土日本に居住するおよそ一万人の全ゲノムSNPの遺伝子型データを用いて、縄文人由来の変異保有率を調べている。その結果、縄文人由来の比率が高かったのは鹿児島県、島根県、東北地方、茨城県などであった。逆に弥生人の比率が高かったのは四国と近畿地方である。
一方で小山修三氏が、全国の遺跡の密度や質を基礎データに、地域特性や環境要素などを加えた数理モデルから算出した人口分布によると、4300年前(三内丸山遺跡の末期)の日本の人口は、東日本に極端に偏っていて合計で261300人だった。
(東北46700人、関東95400人、北陸24600人、中部71900人、東海13200人、近畿2800人、中国1200人、四国200人、九州5300人)
それが1800年前(三世紀初頭)には比較的全国均一になり、合計で594900人となっている。
(東北33400人、関東99000人、北陸20700人、中部84200人、東海55300人、近畿108300人、中国55800人、四国30100人、九州105100人)
この間に人口が増えたのは西日本であり、弥生系の比率が高いのも西日本である。西日本では弥生系の流入が人口増加をもたらした傍証と言えよう。
ちなみに作者は、邪馬台国が大分県にあったと考えている。そして大分県では弥生系の割合が比較的高く、それ以外の九州では縄文系優位である。
魏志倭人伝では、邪馬台国に七万余りの住居があったとされるが、一世帯三人家族だとしても住民数は二十万人を超えてしまう。前述した三世紀初頭の近畿や九州の人口がいずれも十一万人以下だったことを考えれば、魏志倭人伝が過大な誇張にまみれているとすぐに気付くはずだ。
実は中国側にも、邪馬台国を強大に見せかけることで、その大国が朝貢してきた皇帝の威光がますます高まるという思惑があった。それに三国志を見ても分かる通り、魏は航海技術に疎かった。縄文時代から日本列島に伝わる航海技術を見て、多少なりともリスペクトしたのかもしれない。
しかしそれを差し引いた等身大の邪馬台国は、日本のどこかにあった小国の一つに過ぎない。
ここで改めて指摘するが、弥生人たちの来日、そして彼らの文化の伝播とともに、日本では争いが増え、剣や矢で傷ついた人骨が増えていった。
佐賀県の吉野ケ里遺跡では、発掘された人骨三百体のうち十体が、首がなかったり剣や矢で傷ついたりして戦死した者であった。率にして3.3%である。一方、太平洋戦争時の日本の人口は約7300万人で、戦没者は軍人、軍属、准軍属合わせて約230万人だった。率にして3.15%である。単純比較はできないが、それでも弥生時代の争いがどれだけ激しかったか想像できるだろう。
その背景を少しだけ考えてみたい。
西暦57年には倭奴国が漢の皇帝から金印を授与されている。有名な漢委奴国王印であり、福岡市博物館でその現物が展示されている。
また西暦107年には倭国王の帥升が洛陽へ上り、漢の安帝に拝謁を願っているが、この時に160人の生口(奴隷)を献上している。しかし奴隷を物として他国に献上する行為は、どう考えても日本古来の縄文的な思想とは異なるし、推升という名前も日本人らしくない。中国系弥生人の王が、縄文人の奴隷を献上して祖国に忠誠を誓ったと考えるのが妥当だろう。これが縄文人たちの反感を買ったことは想像に難くない。
また原初のユダヤ人入植者は自分たちの神にこだわり、日本各地で見られた銅鐸や銅矛を祀る偶像崇拝を拒絶したかもしれない。一神教の中でもキリスト教では偶像崇拝が認められているが、ユダヤ教とイスラム教ではタブーである。そしてスサノオやその子孫とされる大国主がいた出雲では、全国に先駆けていち早くこれらが姿を消したという考古学的な事実がある。
大国主と言えば、ワニに毛をむしり取られた因幡の白兎を助けたことで有名だが、弥生時代の日本にワニはいなかった。ここに出てくるワニは、サメだとする説もある。つまり諏訪大社に伝わるミサクチ祭で、羊をヤギで代用していたように、本来ワニだった外国のエピソードをサメで代用したのかもしれない。
また記紀(日本書紀と古事記)によれば、大国主は八十神と呼ばれる意地悪な兄たちを滅ぼしたとされるが、これは彼と対立した縄文人たちの信仰(八百万の神)を滅ぼそうとした一神教徒の行為を暗喩したようにも思える。だとすれば、そこには信仰の対立があったはずだ。
現在、出雲大社の本殿に祀られている大国主は、参拝者と向きあう南向きではなく、イスラエルの首都エルサレムがある西南西を向いている。これは、多くのユダヤ人が彼らの神に祈りを捧げる方向でもある。祭神が参拝者と正面から向きあわない神社は、日本全国でも珍しい。
もう一つ付け加えるなら、大国主の息子であるタケミナカタは父の国譲りに反対し、諏訪へと追いやられたとされる。このタケミナカタは、あの旧約聖書に出てくるイサクのエピソードそっくりのミサクチ祭を伝統的な神事として守り抜いた諏訪大社の祭神である。
現在でも島根県は縄文系の比率が高いが、そこに君臨した彼らの一族からはユダヤの信仰が感じられる。
このように縄文系と弥生系が入り乱れ、さまざまな思想の違いが対立を生み出し、やがて各地の集落で環濠と呼ばれる外堀が作られるようになる。そして二世紀後半になると、日本は倭国大乱という内乱の時代へと突入していく。
かつて太陽をあがめる縄文人の地に、中国系やユダヤ系などさまざまな弥生人がつどい、それぞれがおのれの夢と信仰を追い求めた激動と騒乱の時代があった。
この物語は、そのような時代に大和国家を樹立した「天下を初めて治めた天皇」、すなわち「縄文と弥生の王」の英雄譚なのである。