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第二章 ユダヤ人

 ユダヤ教と神道の類似点について触れています。

 諏訪大社の宝物殿にある狛犬は、片方の頭上が壊れて穴が開いています。

 最初はユニコーンのような角があったのを、何かの理由で隠そうとしたのかもしれません。

 元伊勢と言われる籠神社と眞名井神社の狛犬も、片方の頭上に角が生えています。

 ここにヤシロがある。

 境内のまわりは杉材で囲まれており、その幅は22~23メートル、奥行きは45メートルほどである。入口の左右には二本の赤い柱が立っており、ここはトリイと呼ばれている。その先の参道の両脇には灯籠が並べてある。境内を入った右手には洗盤があり、参拝者はまずここで手を洗い清めてから神に祈りをささげる。

 その先には聖所と至聖所と呼ばれる二つの建物があり、それぞれ別棟になっている。その屋根には柱がⅤ字型に組み合わされて突き出ている。聖所の手前両側には狛犬のような二体の像があり、片方には角がある。これらはライオンとユニコーンである。

 一般の参拝者は聖所の手前で神に祈りをささげるが、神官とともに聖所の中に入ることもある。その奥にある至聖所は聖所から階段を上った少し高い場所にあり、ここには限られた神官だけが年に数回入ることを許されている。そこには鏡が安置されているが、それ自身は神の依り代に過ぎない。


 あらかじめ言っておくが、これは神社ではない。ユダヤ教神殿の構造である。ヤーはユダヤ教の神ヤァウェを短く表したものであり、シロは神が降臨する乗り物のことである。だからユダヤ教の神殿をヤシロと呼ぶ。

 ユダヤ教の神殿ではレバノン杉が用いられ、日本の神社と同様に奥行きのある構造になっている。トリイとは、ユダヤ系の人々が用いたへブル・アラム語で「門」という意味であり、これが赤いのには宗教的な根拠がある。なお日本最古と言われる奈良県 大神(おおみわ)神社の鳥居は、二本の柱が上部でつながっている一般的な形状ではなく、二本の柱のあいだをしめ縄で結んだだけの構造になっている。これはユダヤ教神殿の「門」に酷似している。

 日本の神社では手と口、ユダヤ教のヤシロでは手と足という違いがあるが、神に祈りをささげる前に水で清めるという手順は同じである。そしてもちろん神に祈りをささげる儀式では塩も用いられる。

 聖所の手前両側にはライオンとユニコーンの像が立ち並ぶが、獅子は南ユダ王国の王族ユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族エフライム族の紋章である。現在でもフランクフルト出身のユダヤ人富豪であるロスチャイルド家の家紋には、ライオンとユニコーンの姿が描かれている。

 一方、日本の神社でみられる狛犬は名前こそ犬だが、その姿かたちと毛並みは犬よりもライオンに近く、しかも古い神社では片方に角が見られることがある。先入観を捨ててこれらを眺めれば、二匹の犬よりもライオンとユニコーンに見えてくるかもしれない。

 奥に進んでいくと、手前には一般人にも開放されることが多い聖所、そこから階段を上った奥に一部の神官しか立ち入ることを許されない至聖所がある。この両者を拝殿と本殿という言葉に置き換えると、その構造と機能は日本の神社にそっくりである。

 しかも酷似しているのはハードだけではない。

 ユダヤ教主席ラビであるシェロモ・ゴレン氏は、伊勢神宮の警備の仕方、交代の仕方、交代の儀式、人数などが、ユダヤ教のラビの口伝を集成したミシュナに書かれている古代イスラエルの第二神殿で行われていた様式とまったく同じだと指摘している。

 ソフトもまた瓜二つなのだ。

 しかし洋の東西、遠く離れた日本とイスラエルで、その宗教施設のハードとソフトが偶然酷似する確率はどれくらいのものだろうか?

 限りなくゼロに近いことに異論はないだろう。

 それよりはかつてどちらかの宗教がもう片方に持ち込まれたと考えるほうが、はるかに現実的である。

 さらに言えば、古代の日本にはライオンもいなければユニコーンの概念もなかった。古い神社にみられるライオンのような毛並みの狛犬と角が生えた狛犬、これらのモチーフは中東やヨーロッパから持ち込まれたとしか考えられないのである。


 ここでユダヤ人の歴史を振り返ってみよう。

 その歴史は、紀元前十七世紀ごろ、アブラハムという人物が唯一絶対神(主)の声を聴いたことで始まる。アブラハムは主との契約を守り、カナンの地を与えられた。

 晩年、年老いたアブラハムとその妻サライのあいだに男の子が生まれ、イサクと名付けられた。イサクはアブラハムの後継ぎとして健やかに成長したが、ある日アブラハムは主の声を聴く。

「アブラハムよ、あなたの息子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。そこで息子イサクをいけにえとして捧げなさい」

 アブラハムは葛藤しながらも主の声に従い、息子イサクの胸に剣を突き立てようとした。まさにその時、天使が現れてアブラハムに告げた。

「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者であることが今わかったからだ」

「あなたの子孫を天の星のように、海の砂のように増やそう。地上の諸国民はすべてあなたの子孫によって祝福を得る。あたなが主の声に聞き従ったからである」

 アブラハムはイサクを開放し、角をやぶにひっかけていた一頭の羊をかわりに生贄として捧げた。

 こうしてイサクは成長し、その子孫がユダヤ人になった。

 そしてその後、イスラエルのモリヤの山で行なわれる過越祭では七十五頭の羊が生贄にされたという。

 

 ちなみに長野県の諏訪大社には、このイサクのエピソードそっくりの神事が江戸時代まで伝わっていた。

 それは守屋(もりや)山のふもとで行われ、ミサクチの祭りと呼ばれている。ミ・イサク・ティン、略してミサクチとはユダヤ系の人々が用いたへブル・アラム語で「イサクに由来する」という意味である。

 神官が竹のむしろの上に神使(おこう)と呼ばれるいけにえ役の少年を寝かせ、小刀で刺そうとした瞬間、馬に乗った諏訪の国司の使者が登場してそれを中止させる。そして少年は解放されるのである。

 この儀式では七十五頭の鹿の頭が供えられ、その中には必ず耳の裂けた鹿があったという。古来、日本には羊がいなかったので、これを鹿で代用したのかもしれない。

 現在、諏訪大社のホームページでは御頭祭として紹介され、七不思議の一つとされている。しかしこの見事なまでの類似性を知ってしまうと、ユダヤ人が創始した行事としか思えなくなる。

 真意を隠して物事を自分たちに有利な方向へと運ぶユダヤ人と、愚直なまでに伝統を守り続ける日本人。この両者がコラボすれば、元々の意味を失ったまま、千年以上の長きにわたって、一つのエピソード記憶が語り継がれることも考えられる。

 少なくとも江戸時代の隠れキリシタンたちは、世代を経て儀式本来の意味が分からなくなってからも、その形式だけを幕末まで守り抜いたという。


 ユダヤ人はエジプトの地で繁栄をつづけたが、やがてエジプト王からの圧政に苦しむようになった。

 紀元前十三世紀ごろ、モーゼは彼らを連れてエジプトの地から逃げ出し、約束の地を目指して旅だった。エジプト軍が後を追ってきたが、モーゼは海を二つに割ることによって、ユダヤの民を無事に逃がすことができた。

 紀元前1020年に初代王サウルによってユダヤの王制が始まり、同1000年にエルサレムがその首都となった。

 エルサレムとはユダヤの言葉で平安の都、すなわち平安京という意味である。またエルサレムの北東にはキネレット(日本語ではガリラヤ湖)と呼ばれる湖があり、キネレットとは琵琶を意味する単語である。つまりエルサレム(平安京)の北東にキネレット(琵琶湖)が存在していることになる。

 またエルサレムの近くには、塩分濃度が高すぎて生物が住めないという死海もある。彼らが塩で消毒し、塩で清めるという着想を得たとしても不思議ではない。

 紀元前930年には王国がユダとイスラエルに分裂し、720年ごろ、イスラエル王国がアッシリアに敗北したことで彼らの十二支族のうち十支族が追放された。これが「失われた十支族」と呼ばれるようになり、その子孫はイスラエルの失われた十支族調査機関アミシャブによって、近年シルクロードの各地で確認されている。

 アフガニスタンとパキスタンの国境付近のユスフザイ。インド、イラン、アフガニスタン、パキスタンのパタン人。中央アジアのブハラ・ユダヤ人。インドと中国の紛争地帯に住むカシミール人。インドのカナン人とベネ・イスラエル人。ミャンマーのシンルン族。タイ北部に住み、首長族としても有名なカレン族。中国四川省のチャン族などである。

 彼ら失われた十支族の中には、太陽信仰に走る者もいたという。旧約聖書には「主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた」(エゼキル書、八章の十六)という記述がある。

 放浪の民となった彼らが、東の果てにある日いずる国、日本を目指した可能性は十分ある。

 その後、紀元前63年にはローマ軍司令官ポンペイがエルサレムを占領し、やがて国を失ったユダヤ人たちは世界各地へと散っていった。


 こうして見ると、失われた十支族や祖国を失った残りのユダヤ人たちの一部が弥生時代の日本に来ていても、別に不思議ではないことが分かるだろう。

 ただし一つだけ謎が残る。

 シルクロードの各地で確認された失われた十支族の子孫たちは、現在まであまり地元民族と交わらず、独自の文化を守り続けてきた。だからこそ、イスラエルの失われた十支族調査機関アミシャブは、近代になってから彼らを見つけ出すことができた。

 しかし日本にたどり着いたと思われる集団だけは、いつしか地元の日本人と融合し、そこに溶けこむかのように消えてしまった。

 ここで、その謎に答えるヒントとして、元駐日イスラエル大使であるエリ・コーヘン氏の言葉を紹介しておく。

「私は神を敬うユダヤ人です。その私の目から見て、ユダヤ文化と日本文化の間に、いくつかの類似点があると感じました。1986年に、イスラエルの空手チームの一員として日本に行った際に、ある神社を訪問しました。神主が詳しく説明してくれたのですが、その中にいくつかの興味深い話がありました。建物の石は金属に触れてはいけないという禁則があるそうですが、これはユダヤ教の神殿の場合と同じです。また、神主は四つの房が付いた衣服を身に着けていました。二つでもなく六つでもなく、四つでした。敬虔なユダヤ教徒が身に着けている房も、それと同数です。他にも説明できないような共通点がいろいろとありました」

「イスラエルのある教授が、日本人の宗教は多神教を信じていて、偶像崇拝だと言いましたが、私は『それは違う』と答えました。私は宗教学者でも哲学者でもありません。しかし、日本との体験から申し上げることができます。知識の上だけの学者は分かっていません。神道は偶像崇拝ではないと思います。八百万(やおよろず)の神といいます。これはあらゆるところに神がいることを意味します。日本人は、偉大な、または驚異を覚えるもの、神聖と感じたものを神として崇めます。ユダヤ人も同様な感情を覚えると、神のシエキナー(臨在)が現れたと言います。神道の神社に行っても、そこに何の偶像も発見しません。神の像を持っていませんね。ユダヤ教では神は一つと言いますが、ユダヤ教も神道も、フィロソフィー(哲学)においてはとても良く似ています」

 神はこの世界のあまねく場所にいて、我々はいつでもその存在を感じることができる。これが神道とユダヤ教に共通する感覚である。

 神道は、多神教の日本人だけでなく、一神教のユダヤ人も受け入れやすいという不思議な宗教なのだ。このような包容力のある宗教は、世界広しといえども神道だけであろう。


 では、この神道という宗教を作ったのは誰だろうか?

 縄文人の自然崇拝とユダヤ教の双方に詳しい人物だったことは間違いない。

 ユダヤ教に詳しい縄文人。

 縄文人の自然崇拝に共感したユダヤ系渡来人。

 両方に精通した中国系や朝鮮系の渡来人。

 この中で一番可能性が高いのはユダヤ教に詳しい縄文人だろう。

 現在の一神教徒を見る限り、ユダヤ系渡来人が縄文系の多神教に共感したとは考えにくい。

 また中国系や朝鮮系の渡来人が、自分のルーツとなる文化をまったく織り込まずに神道を創設したとも想像しにくい。少なくとも現在の神道からは、中国系や朝鮮系の影響は感じられない。

 ちなみに天皇家のY染色体ハプログループ遺伝型(父系の祖先)は、三万年以上前に日本列島で誕生したD1bである。これは東山天皇の男系子孫複数名の遺伝解析から判明した事実であり、今上(きんじょう)天皇にも同じY染色体が受け継がれているはずである。

 つまり遺伝学的に見る限り、ユダヤ教に詳しい縄文人が神道を創設し、その祭祀王である天皇家のルーツになったと考えられる。

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