第一章 縄文時代
この章では日本人の信仰と縄文時代の先進性について触れています。
あなたにとって、亡くなったご先祖様は近くで自分たちを見守ってくれている精霊のような存在ですか?
それとも不浄で汚らわしい存在ですか?
今から五~八万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスは、長い年月を経て世界中へと散らばっていった。その中には太陽信仰に目覚め、東へ東へと移動を試みた一団もいただろう。そして今から四万年前、その一部が日本列島へとたどり着いた。これが縄文人の祖先である。
当初は旧石器時代であり、火を使うことはあっても直焼きしかできなかった。しかし今から一万六千年ほど前に縄文式土器が生まれ、彼らは煮るという調理法を手に入れた。これによって今までは硬くて食べられなかった食材を口にできるようになり、彼らの食料事情は一変したと考えられる。実は世界で最初に土器で煮炊きする調理法を発明したのは縄文人だとも言われている。
ここで青森県にある三内丸山遺跡を見てみよう。縄文時代前期~中期(紀元前約3900~2200年)の大規模な集落跡である。
ここでは大型の掘立柱建物跡が発見されている。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートルで、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていた。これが縦に三本、横に二列で計六本見つかっており、かなりの大型建造物だったと思われる。そしてこのうち縦に三本並ぶ線は冬至の日に太陽が昇る方向を指し示し、対角線は春分、秋分の日に太陽が昇る方向を指し示していた。
ここから想像できるのは、彼らが文字を持っていたということである。
春分の日を定めるには、日時計による正確な観測を行い、それを記録することで、冬至と夏至の日を見つけ出さないといけない。その上で冬至から夏至までの日数(約183日)を数え、それを2で割ることで初めて春分の日が分かるのだ。この作業を頭の中だけで行い、その計算結果を周りの人間と共有することが、数字や文字なしで果たして可能だろうか?
仮に作者が文字もカレンダーもない社会に生まれたとして、春分の日を定めるには数年もあれば充分だろう。
その際、最初にすることは覚え書きや計算のための文字と数字の作成である。一日を石一個に見立てて数字や文字の作成を回避する方法も可能ではあるが、かなり効率が悪い。そしてそれを周りの人に伝え、理解してもらうおうとすれば、文字や数字の介在が必須である。文字と数字を使わずに、小学生に183を2で割る方法を教えてみれば、おのずと分かるだろう。
日の出と日の入りが百八十度真逆の方向の日を見つければ良いという考え方もあるが、その結論に至るまでに、やはり同程度の観測と記録、そして計算が必要になる。
彼らは現代の日本人と同程度の知能を持ち、複雑な言語を話す能力を持ったホモ・サピエンスに過ぎなかった。たかだか人口五百人程度の集落に、覚え書きの文字すら必要としない、生まれつきの計算能力と記憶力を兼ね備えた天才が何人もいたと考えるよりは、誰かが文字や数字を考え出し、それをみんなで共有したと考えるほうがはるかに現実的である。
実際に日本では、漢字伝来前の神代文字と呼ばれるものが複数見つかっている。彼らが文字を用いていたとしても何ら不思議ではない。
ただし三内丸山遺跡に住む人たちにとって、その文字を何千年も先の人に残す必要はなかった。地面や木の葉に、あるいはひもの結び目で表現した彼らなりの文字は、きっと歴史の中に埋もれていったのだろう。
三内丸山遺跡からは北海道や長野で産出されたものも見つかっており、彼らが広域で交易をおこなっていたことも判明している。特に津軽海峡は潮流が複雑な海の難所として知られており、そこを交易のために行き来するだけの操船技術を彼らが会得し、のちの世代に伝えるための方法を持っていたことを示唆している。
少し時代が下るが、紀元前1800年ごろの北海道戸井貝塚からは、遠距離航海に耐えうる準構造船を模したと思われる舟形土製品が出土している。
縄文人は大海原に乗り出す能力を持った海洋民族だったのだ。
また三内丸山遺跡の周囲から見つかった栗のDNAはかなり均一なものであり、彼らは栗の栽培という農業を営んでいたと考えられる。
縄文時代というと、こん棒を持った半裸の原始人たちが獲物を追いかけ、片言しか言葉を話さなかったイメージを持つ人がいる。しかしそれは、声帯が未発達なため複雑な言語を話せなかったネアンデルタール人の姿に近いというべきだろう。
三内丸山遺跡に住む縄文人たちはホモ・サピエンスであり、農業を行い、大型船で複雑な潮流の中を航海し、交易をおこない、太陽を正確に観測し、183を2で割る算術を持っていた。この高度な知的社会が文字と数字なしで成立しうるのは、ファンタジーの世界だけである。
なお彼らの食生活は四季によって異なっていた。だから正確なカレンダーを必要としたのだろうが、そのために冒頭のような大型の掘立柱建物を建造する必要性は乏しい。これは彼らが太陽を崇める民だったことを示唆している。太陽を求めて東へ東へと旅した果てに、日本の東北地方へとたどり着いたのではなかろうか?
もちろんこの巨大な建造物が見張り台だったという可能性もあるが、その場合でも太陽や自然を観測するのが主目的だったに違いない。なにしろ彼らの集落には防御のための外壁や環濠がないのだ。敵襲に備えて見張り台だけ作り、集落そのものが無防備だったということはあり得ない。
それに縄文時代の遺跡からは、剣や矢などで傷ついた人骨が出てくることはほとんどない。それが圧倒的に増えるのは弥生時代に入ってからである。
そしてもう一つ、彼ら縄文時代の集落からは興味深いことが分かる。死者を自分たちの居住区の隣に、まるで生前暮らしていた時のような配置でとむらっていたのである。これは彼らの死生観を示している。人は死しても魂はその場に残り、生きている者たちと一緒に暮らすという考え方なのだろう。
日本では、不名誉なことをすると「ご先祖様が草葉の陰で泣いている」と言うことがあるが、これは縄文人の死生観に根差したものだと考えられる。死んだご先祖様は、すぐそばにいて自分たちを見守ってくれる精霊のような存在であり、そこには死者を不浄なものだとみなす価値観はない。
太陽を崇め、自然を畏怖し、ご先祖様に見守られながら生きていく。これこそが縄文人の宗教観であり、無宗教ともいわれる現代日本人の心の奥底でたしかに息づく価値観なのである。
しかしその価値観はいつしか変容を遂げていく。
八世紀に完成した日本書紀には、イザナギとイザナミの物語が出てくる。有名な話であり、一度くらいは耳にしたことがある読者も多いだろう。
妻であるイザナミを亡くしたイザナギは黄泉の国という死者だけが暮らす世界へと赴き、そこで醜い姿となった妻を見てしまい、あわててこの世に逃げ戻ってくる。そしてこう言うのだ。
「私は今まで、なんという嫌な、醜い、汚らしい国に行っていたのだ。ひとつ私の体のけがれを洗い清めよう」
そこには死者に見守られながら生きていくという縄文人の価値観はみじんもない。死者は醜く汚らしい存在であり、そのけがれを洗い清める必要があるという。しかしこの価値観もまた現在の日本に存在し、神道ではお葬式からの帰りに塩で清めるという風習がある。
縄文時代にはそばで見守っていてくれたはずの死者が、日本書紀の書かれた平安時代までに醜く汚らしい存在へと上書きされてしまった。そしてその両方の価値観が、現在の日本に残されている。
ではこの死者を醜く汚らしい存在と捉える価値観、そして塩で清めるという風習を日本に持ち込んだのはいったい誰だろうか?
中国では死者は鬼になるとされるが、彼らには塩で清めるという風習はない。キリスト教には聖水という水で清める風習があるが、これも塩ではない。
実は塩で清めるという風習を持つのは、日本の神道とユダヤ教だけなのだ。