幕間 マイ・スウィート・ハニー
――どこからかイイ匂いがする。
鼻腔をくすぐる甘い香りについ足を止める。空腹を煽るのは、ほんのりと表面を焦がしたような香ばしい甘味の匂いだ。軍事機関には似つかわしくないそれは、どうやら食堂の方から漂ってきているらしい。
夕方近くの疲れもあって、誘われるままに明かりの漏れるそこへ顔を出す。
整然と並ぶ長机に白い大皿に載った焼き菓子が置かれていた。きれいな焼き色とふっくらとした見た目は、出来立てほやほやと言わんばかりだ。そこを囲む女性隊員たちが甘味をつまみながら、会話を弾ませていた。
「おや、『秘密のお茶会』に気付かれてしまったかな?」
どういった集まりなのかと考えていた時。背後からとん、と肩を叩かれる。
「あっ、聖大佐! 先日はありがとうございました。おかげでやっと精鋭にしてもらえました」
「いや、私は何もしていないさ。君の努力が牙雲少佐の目に届いたのだろう。よく頑張ったね」
そんな労いの言葉にはにかんでいると。
「そうだ、まだ残りの菓子がいくつか余っている。焼き上がったばかりだし、急ぎの用事がなければ君も食べていかないかい?」
「いいんスか!? 腹減ってたんで超うれしいっス!」
「なら、こちらにおいで。女性陣の歓談を邪魔するのはあまりスマートではないからね」
ウィンクに誘われ、紅葉は食堂の隅へ向かった。調理室では忙しなく厨房を行き来する隊員の姿が見える。
夕餉の仕込み中だろうか。扉越しに見えたのは、火にかけられた無数の大きな鍋と立ち上る湯気だ。ほんのりとした香辛料の匂い。今日は煮込み料理らしい。
戦地では冷たい保存食と乾いたパンばかり口にしていたが、本部や拠点での食事は満足のいくものにありつけている。故郷の集落では、ときどき物資の一部が滞ることもあったし、配給が遅れた時には調達が一苦労だった。
一方、ドラーグドに入ってからは配給品にない食材を口にする機会も多い。単純な自分はそれだけでもここに来た価値があると思っていた。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
隊員たちの胃袋を満たすための用意を眺めていると、聖がどこからか皿を運んでくる。こんがりと焼けた表面には砕いた木の実が散らされていた。甘い香りと相まって、つい溢れかけた涎を拭う。
「いただきます!」
はむ、と勢いよく齧りつく。見た目はふわふわと柔らかそうだったが、口に入れると密度のあるしっとりとした生地だ。炒った木の実の香ばしさと、まだ温かくて舌の上で溶けてしまう砂糖の味がたまらない。
たまに食後の口直しで出てくる果実の甘さも嬉しいが、こうして手のかかった菓子は見舞いの品ぐらいでしか口にしなかった。
「どうだい」
「めちゃくちゃウマいっス! お世辞じゃなく毎日食べたいぐらい!」
「それは良かった。私も少しは腕を上げられたようだ」
「えっ? もしかしてコレ、大佐のお手製ですか」
「ああ、ちょっとした趣味が高じた結果さ。単に自分で食べるだけではもったいないから、試食会を開いて彼女たちに振る舞ってみたんだ。そうしたら案外好評で楽しくなってしまってね」
「秘密のお茶会ってそういうことか」
聖が言うに、自身の紅茶好きが高じて茶菓子を作ったところ、それが女性たちに大ウケしたらしい。以来、不定期に厨房の一角を借りて、彼女たちにこっそり菓子を振る舞っているのだという。
「厨房の隊員に迷惑をかけるから、邪魔をしない品書きの時に声をかけてもらっているんだ。初めは自分の部屋で作っていたんだが、大勢に振る舞うとなると話も変わってくる」
「大佐の部屋には色んな設備があるんスね。てっきり料理する場所なんて、」
「そう、そんなものはなかったからわざわざ作らせたんだよ!」
隊員たちが集まる寄宿舎と違って、位持ちの上官は本部内に部屋を構えている。常に呼び出しがある負担を考慮して、私室だけは持ち主がくつろげる空間にして良いという決まりがあった。大佐の位ともなれば、かなり自由度の高い私室の改造も叶うらしい。
「でも、なんで急に部屋でお菓子作りなんかやり出したんスか? 作るだけだったら、今みたいに厨房借りればよかったのに」
指先についた砂糖をついばんでいると、聖が含み笑いを返してきた。
「当時はどうしても私の部屋で作る必要があったんだ。なぜだと思う?」
「あっ、そうか! 誰か部屋に呼びたい人がいたんスね?」
「あっはっは、君は察しがいいな! 全ては『マイ・スウィート・ハニー』のためさ」
「はあ……そういえば、全軍円卓会議が終わった後、20年ぐらい口説いてる人がいるって《骨喰公》に話してましたっけ。その人、誰なんですか」
「ああ、彼女は《第二部隊》の部隊長だよ」
「ってことは、もう一人の《大佐》ですか!?」
垂れた眦を細めた聖が頷いた。
「元は私の部下だったが、あれよあれよという間に追いつかれてしまってね。とても健気な努力家で、少し気が強くて天邪鬼なところがまた魅力的なんだよ。ただ、中央区画からしばらく帰って来ないから心配しているんだ」
聖がきらきらとした赤い瞳を伏せる。彼は日々戦闘に明け暮れる相手を思って、心安らげる場を設けていたらしい。ただ、その口説きにはこんな答えが返ってきたという。
――最初に口説いた時は『自分よりも偉い男はお断り』。同格になって尋ねた二度目は『自分よりも弱い男はお断り』。そして、中央区画へ遠征に向かう前の三度目は『そもそも軍人はお断り』。
こちらが聞いて申し訳なくなる程に、けんもほろろな内容ばかりだ。
「お茶を用意しても帰還してこなければ誘えない。残念ながら、今回の休戦中も警戒のために《竜のとぐろ》へ残るという連絡を受けていたから、せめてもの代わりとして、物資と一緒に私から菓子を送っているんだ」
「さっきの話では完全に脈ナシって感じですけど。ちなみに最近の反応は?」
「直近の手紙では『ご馳走さま。でも甘いものは太るからやめて!』とだけ」
「え? なのに、わざわざまたお菓子を贈るんスか」
「いいや、この返事だからこそさ」
傍目から見たらありがた迷惑になっているのにも関わらず、上官は悪戯な笑みを浮かべている。
「最前線にいる彼女はドラーグドの一番槍だ。激しい戦闘を続けているから、菓子の一つや二つを食べたところで影響はない。それに私の好意だと知りつつも、目の前にあるとつい食べてしまう――つまり彼女は甘い物が好きなんだ!」
深読みも過ぎる気がするが、それも一理ある。自前で菓子をこしらえていたのは、想い人が気に入ってくれるものを揃えたかったからだろう。
「なんていうか、めちゃくちゃ入れ込んでますね」
「上官としても、一人の男としても、彼女には幸せになってほしいんだ。たまには緊張を緩める機会がないと心がすり減ってしまう。私たちは“物”ではないのだから」
守るものが多ければ、それだけ自身が前へ出る機会も増えるだろう。しかし、部隊長や位持ちとはいえ、やはり人の子であることに変わりはない。どれだけ強靭な肉体と精神力を以てしても、負荷が続けば様々な影響が出る。
「特に軍というのは同質性が高く、堅い組織だから声を上げにくい。だが、行き過ぎた圧力は誰にとっても不幸だ。そうならないよう、私も組織の中で何ができるのかを常に考え続けている」
その瞳は遠く過ぎ去った日々の光景を映し出していた。長く心に留めていた感情を、彼は穏やかな口調に隠して紡ぐ。
「――《内乱》の時、我々は誤った統制で多くの隊員を失った。私自身がこの手にかけた者もいる。当時の選択が正しかったとは思っていない。もっと内政に気を配っていればと何度も悔やんだ。
同質化が進み過ぎると、組織は歯止めが利かなくなる。それを理解しながらも、私は日に日におかしくなるそれを他人事として、目の前の戦に逃げていたんだ。そのせいで最終的には自分の下にいた彼女も巻き込んでしまった。とても仲間想いで、心優しい者たちを苦しめた。彼女の言う通り、私は今も偉ぶっているだけの弱い男だよ」
自分には組織を統べる度量がなかった。老兵の哀しげな微笑みを見て、紅葉は皿に載っていた菓子を手に取った。
「それでも、何かが変わるかもしれないって思ってるから、大佐はこうして行動してるんスよね」
――もし、本当に現状の変化を諦めているのだとしたら。敏い彼は無駄な労力など割かないだろう。この掌に載っているのは彼が口にしなかった本当の気持ちだ。
「ああ、そうか。そうだな。君の言うように、私は諦めたくなかったのかもしれない」
組織のことも、想い人の幸せも。日々の行動一つでは何も変わらないかもしれない。だが、彼の振る舞いは他の隊員がよく見ていた。たとえ誰もが羨む完璧な存在でなくとも、組織の中で彼は最も重要な役割を担っている。
「軍では『こうしなきゃ』で動いてる人が多いっスけど、大佐は自分が『そうしたいから』って理由じゃないですか。だから規則や命令と違って、オレや他のみんなも素直に受け取れるんだと思います。特にウチの少佐はルールで雁字搦めになってるタイプなんで、大佐が心配してるのはオレもわかります」
「参ったな。君は人が好きで、よく観察しているようだ」
「アハハ。オレは思ったことすぐ言っちゃうだけなんで」
そう言ってつまんだ菓子をかじっていると、聖の目元に柔らかな皺が刻まれる。
「相性を心配していたが、君が牙雲少佐とうまくやってくれているようで良かったよ。実は、もともと君の配属は第六部隊になる予定だったんだ。ただ、偶然にも戦地にいた牙雲少佐から増援要請があって、直前でやむを得ず部隊を変更した経緯がある」
「やっぱそうだったんスか! オレと一緒にドラーグドに入った幼馴染が代わりに第六部隊へ行ったんですけど、どう見ても柄じゃないよなぁって思ってて」
初陣の際の裏話を聞いて合点がいった。自分と時平は前から馬が合うと思っていたし、控えめな飛翼と慎重派な牙雲の相性がいいというのは頷ける。ただ、聖はあえてそうしなかった。
「たまに既存とは違う気質の隊員を入れてみるのも、組織を活性化させる方法の一つだ。事実、時平少佐は人を育てる資質を一段と成長させている。ただ、最初は毛色の違う問題児に随分と手を焼いていたとは聞いたがね」
「あー、まあ、それなりに手はかかるかもしれないっス」
飛翼が第六部隊に入ったばかりの頃。あがり症の彼は他の隊員と馴染めず、修練場で幾度も気絶していた。それを案じた時平は、彼を鍛えるためにわざわざ個別で早朝訓練の時間を取っていたのだ。
ただ、その近辺で侵攻戦を控えていたこともあり、飛翼の見舞いで病室を訪れた時、彼が心労から寝落ちてしまったという噂話を聞いたことがある。
「幼馴染も時平さんのことをすごく信頼してるって言ってました。ウチの少佐もあれぐらい腹割って話してくれれば、手を貸しやすいんスけど」
「牙雲少佐はその誠実さと責任感ゆえに、人を頼れないのだろう。それこそ最初は彼が軍からの命令で、君のことを預かっているのだと思っていた。ただ、選抜試験の様子を見た限りでは、私の杞憂だったらしい。手がかかる部下ほど結びつきは強くなるものだからね」
「あ、オレ、かなり目ぇつけられてます?」
「はは! かけられているだけだから安心したまえ」
他愛のない冗談に二人で思わず小さく笑う。そんな彼の鷹揚な人柄に救われている隊員も多いだろう。強さだけではなく、“人”として導いてくれる存在。どの組織にも彼のような者が必要だ。
その時、食堂に置かれた古時計から時を知らせる鐘が鳴り響く。甘味に舌鼓を打ちながら、すっかり話し込んでしまったらしい。
「やべ、オレそろそろ戻らないと。お菓子ごちそうさまでした!」
「よかったら残りは持って行ってもいいよ」
「ありがとうございます! 少佐からお小言食らいそうになったら、これで口止めさせてもらいます」
「上官の口を菓子一つで黙らせようなんて。君のそういう怖いもの知らずな所は昔の私にそっくりだ」
「じゃあオレもがんばって大佐みたいに偉くなりますね」
「ああ、期待しているよ。気が向いたらまたおいで」
聖が菓子を詰めた紙袋を差し出した。まだほんのりと温もりの残るそれを懐に抱える。
「次はハニーの馴れ初めとか色々聞かせてください。今日のお菓子、気に入ってもらえるといいっスね!」
廊下で手を振った聖が、柔和な顔立ちにふわりと笑みを描く。彼のもたらす無償の愛は、巡り巡って彼女にも届いているはずだ。
そんな甘いおこぼれに預かるのも悪くない。紙袋に手を突っ込みながら、紅葉は石畳の階段へ足をかけた。
fin.
いつも作品をご覧いただき、ありがとうございます。
EP.6開始まで小休止を挟みます。
EP.6自体は完了しているものの、ストックの残りや見直しの時間、テンポよく配信した方が良いという判断から、書き溜めを優先します。
復帰は12月頃となりますので、もし追いかけていただけるようであれば、ブックマークをお願いいたします。
(2024/11/05時点)
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次章、やっと待望の女性キャラクターが登場です。
ここまで主人公サイドで一人もネームドの女性が出ていなかったことに自分でもびっくりです。
前半は壊れたテンションでお送りしつつ、後半は重ためな内容を予定しているため、寒暖差(?)にご注意ください。