-真拳勝負-
* * *
「――なあ、澪。そろそろ諦めろよ」
「紅葉こそ降参したら?」
「二回も仕切り直してんのに、今更降りるなんてありえないっしょ」
「なら、最後まで付き合うけど」
頬を伝う汗を拭った自分の向かいで、普段は涼しい顔の相手も珍しく肩で息をしている。
ここに来るまで、互いは白線を境に激しく競っていた。一度は澪を弾き出すことに成功したものの、次の試合では自分が外へ流されている。
ペナルティの数を考えると、こちらはもう後に退けない状況だ。早々に決めないとミスを誘発されて負けかねない。
「結構タフだよなぁ、澪くんは」
「紅葉も技の威力が落ちてない。まともに蹴りを受けると、かなりきつい」
「じゃあそろそろ全力出せってば」
「そのうち、かな」
相変わらずの動じない態度。それが最も大きな懸念だった。
「次はおれから」
たん、という軽い爪音と、浅葱色の残影が迫ってきた。振りかざされた鉤爪が二度、三度と心臓へ向かう。全ての刺突を防ぎ切ったら、脆くなった鱗が何枚も剥がれ落ちた。
受け止めながら引きつければ、警戒した澪がまた後ろへ跳ぼうとする。だが、身体を離すタイミングが分かってきた。
「あ、」
「よっしゃ、捕まえた!」
触れた裾を掴めば、澪がわずかに声を上げる。ここで逃しはしない。すばやく身を翻し、片腕を抱えて引き倒そうと目論む。背中を地面につけたらこちらの勝ちだ。
「焦ってるね」
だが、組み付こうとした瞬間に足を払われる。カウンターを堪えようとすれば、意識の外だった脇腹へもろに肘が入った。拘束を振り解いた澪が、動きを止めた自分の頸部を狙う。
「ぐっ、……!」
ガキンと赤い鱗が鳴った。相手の爪を受け続けているせいで、もう表面はボロボロだ。
「おれは紅葉を傷つけたくない。降りてくれないか」
彼の見立て通り、次に同じ場所へ爪が当たれば皮膚まで届くだろう。続けるなら流血は避けられない。
その時、向かいにいた牙雲が口を開きかけた。だが、視線を合わせるときつく唇を結ぶ。
――ああ、もう。「絶対に贔屓はしない」と言っていたのに。今の自分よりも余程悔しそうな顔をしているのは一体誰なのか。
「……ケガの一つにビビってちゃ、前衛なんか立てないっての!」
敬愛する上官に二度とあんな顔をさせるものか。抗う心を奮い立たせる。どうにか鉤爪を払い退けると、間合いを取った澪が掌を握り締めた。
「これなら威力は最小限。あとはおれが一回、押し出せばいいだけ」
爪を収めたのは彼なりの配慮かもしれない。だが、残念ながら逆効果だ。淡白な態度がなけなしのプライドに火をつける。虚勢でもいい。ここまできたら、絶対に勝つまでやってやる。
「これで、終わり」
大きく地面を蹴る音。白線を背に、紅葉は奥歯を噛み締めた。勢いのついた攻撃を何度も受けられる装甲はない。
相手の姿が迫ってくる。どのみち身体が耐えられないならば。まどろっこしい策など考えていられない。
「できるもんなら、やってみろッ!」
爆ぜる紅蓮を纏わせた腕を掲げる。咆哮と共に紅葉も前へ駆けた。加速度的に互いの距離が縮まる。視界で火花が舞う。
交わる視線、拳、衝突。
わずかな痺れが右腕に走った。直後、真っ向からぶつかった反動が全身を襲う。突き合わせた拳の先ではまだ澪が立っていた。
群青の双眸が自分を見据える。変わらない表情に、眠っていた闘争心が首をもたげる。
ごう、と燃え上がる焔が内へ宿った。それを境に一気に体温が上昇していく。訪れた高揚感。熱を上げた血が巡り、心臓が壊れそうなほどに脈打ち出した。
「っ、出力が、まだ上がって……!」
全身を押し返す熱波に、伏し目がちな群青がやっと大きく見開かれる。
「あっちの壁までブッ飛ばしてやるっ!!」
広がった火炎が澪の鱗に絡んだ。抵抗をもろともせず、捻じ込んだ赤い拳が胴を捉える。
はっと息を呑む音。対峙する頬へぶわりと浅葱色の鱗が浮かぶ。陽炎に揺れる視界を炎が包む。裾を焦がす匂いが満ちて――
「そこまでッ!」
不意に力の拮抗が止んだ。振り下ろされた手旗に、持っていた集中力と魔力が霧散する。
「澪隊員。場外へ出たため、二つ目のペナルティだ」
前にいた相手の靴先が、いつの間にか後ろにある白線を跨いでいる。状況を理解できずにいると、横に集まった上官たちの会話が耳に入ってきた。
「――牙雲少佐。私の目には、澪隊員がわざと線の外へ逃れたように見えたのだが。これはどう判断すべきだろうか?」
「攻撃を回避する目的で“故意に線を出る”という行動については、特に規定されていません。現行のルールに則るのであれば、押し出された場合のペナルティの適用で問題ないかと」
「ふむ、ならばその処理で進めよう……それにしても面白い試合だ。隊員時代の君と時平少佐の手合わせを思い出すよ」
「ご冗談を。時平とはここまで拮抗していませんでした」
「あっはっは! 彼の方にも聞いたら、君と全く同じ答えが返って来そうだな」
紅葉は唖然とした顔で澪を見つめた。あのままの勢いで畳み掛けていたら、相手に膝を着かせていたかもしれない。だが、最小限の労力で場を均した彼の方が、一枚上手だったようだ。
ただ、最後のカードを切った以上、彼も後に退けなくなった。
「いい加減、本気出すところなくなるぜ? 澪」
煤けた鱗の表面を撫ぜながら、朴念仁がゆっくりと口を開く。
「紅葉、もう一度聞く。諦めるつもりはないか」
頷いた自分に、澪はそっと瞳を閉じた。審判がこちらへ戻ってくる。手旗が構えられた。共に開始位置へ向かう。これが最後の一本勝負だ。
「試験、再開!」
合図と共に互いはまったく同じ姿勢を取った。低く構え、限界まで胴を捻る。駆け引きなしの拳。真紅の鱗から烈火が爆ぜる。
対峙したのは、浅葱色の右腕を覆い尽くす闘志の証だ。
「イイじゃん、その隠し技――超アツい展開でさッ!」
臨んだ蒼い焔に、紅葉はニヤリと笑みを浮かべた。相手からは自分の扱う烈火との明確な温度差を感じる。純粋な力比べなら大歓迎だ。あれこれと策を弄するのは性に合わない。
その覇気に触発され、噴き上がる紅蓮がごうごうと勢いを増す。熱された空気が周囲で渦を巻いた。普段の余裕を消し去った彼は、どんな攻撃をしてくるのだろうか。
「こんなところで使うつもりは、なかったけれど」
躍る蒼炎を従えた彼の唇から、ひどく冷めた声音が零れる。ぼう、と浮かび上がる青白い面が、おもむろに前を向く。
「あれって、……ッ!?」
――ほんの一瞬だった。対峙した双眸にぎらりとした輝きが覗く。逆立つ鱗と、群青の奥底に宿る禍々しい波長。見覚えのある瞳に視線を奪われていると、蒼い篝火を連れた澪が眼前まで迫っていた。
高温に揺らいでいた空気がきん、と澄み渡る。息を呑めば、喉の奥を無数の針で突かれるような痛みが走った。霞のかかった拳が肉薄する。咄嗟に後ろへ跳ぼうとしたが、足が動かない。
「これが、おれの“本気”」
白い吐息が視界を覆う。凍りついた足元を見て、紅葉はやっと理解した。彼が扱うのは単なる炎ではない。燃え盛る熱源さえ氷結させる《絶対零度》の冷気だ。
睫毛に淡い霜が降りる。浅葱色の拳から伸びた氷刃が首に触れていた。鎌を模したその形を、この状況で潜り抜けるのは難しいだろう。
不意に合わせた瞳にあったのは、あのぎらついた輝きではなく、一切の感情を排した虚無だけだった。
「勝負あり!」
審判が持つ手旗が上がる。眼前にいた澪が、我に返ったように腕を収めた。それでも、冷え切った肌はまだ刺すような痛みを訴えている。
もう足元の氷は解けているはずなのに。かけられた言葉が、凍結した頭には何も入って来ない。とうとう立っている感覚がなくなって、紅葉は膝から崩れ落ちた。
――負けた。完全な敗北だった。
横で肩を叩く上官の顔はとても見ていられない。人の形に戻した腕を引き寄せると、紅葉はその場でしばらく顔を伏せていた。




