-出来損ない-
* * *
「はあ、手ぇ痛いなぁ」
ペンを握り締めていた右手の付け根を擦る。朝に開始された筆記試験を終え、食堂へ向かう隊員たちは解放感から晴れた表情だ。
「そこまで書き込む問題はなかったと思うけど」
「ウソだ、最後の小論文なんていくら書いても正解わかんなかったのに」
「思ったことを根拠立てて書くだけだ」
「ちぇっ、澪は頭イイからそれも難しくないんだろうけどさ」
鱗も愛想もない彼の頬をつつきながら、紅葉は肩をすくめた。
《全軍円卓会議》から帰還して早一週間。牙雲の出迎えを受けてから、時間が矢のように過ぎていった。想定外の出来事ばかりで疲弊していたのに加え、試験勉強の追い込みで飛翼に毎晩叱咤され続けていたからだ。
「筆記はできた気しないんだよなぁ」
「そういう時の方が、点数がいいという話もある」
「そうなの? 澪くん、珍しく慰めてくれるじゃん」
「おれはそう思った試しはない」
「うん、やっぱさっき言ったことナシな」
筆記の点数が望み薄なのは許容範囲として。実技試験は明日に予定されている。肩の荷が降りたタイミングだというのはありがたい話だと思ったのだが。
「あっ! そういやオレ、大佐宛の報告書まだ提出してないじゃん」
「提出は今日までだ。牙雲少佐が夕方の定例会議に持っていくだろうから、急いだ方がいい」
「やっべ、すぐ取りに行ってくるわ」
帰還後に聞かされた実地研修の報告をすっかり後回しにしていた。試験期間中はどこで何を見られているかわからない。
澪の前で踵を返すと、紅葉は慌てて寄宿舎まで駆け戻った。
* * *
「――では、本日の会議を終了する。解散!」
聖の号令と共に上官たちが次々と席を立つ。夕霧の立ち込める窓を背に、牙雲は綴じた書類を抱えた。
手のかかる部下から珍しく提出物の期限延長をせびられなかったのは何よりだ。
そんなことを考えながら、部屋を出た聖の後を足早に追いかける。部下たちの報告書を渡すのに加え、明日に控えた試験の評価方法も相談したい。
「……聖サン、少し時間をもらってもいいかな? 全軍円卓会議での件、まだ話していなかったと思って」
「ああ、構わない。聞こうか」
自分よりも先に彼を呼び止めたのはスマイリーだった。
急ぎとはいえ、上官同士の間に入るのはさすがに憚られる。口を噤んでいる間に、二人は廊下の先にある資料室へ消えた。
「仕方ない。待ってみよう」
壁に背中を預けながら一つ溜息をつく。すると、静まり返った廊下でかすかに中の声が漏れ聞こえてきた。
横を見れば、建て付けの悪くなったそこが薄く開いている。余計な話を聞くべきではないと思い、牙雲は静かにそこから離れようとした。しかし。
「――事前に伝えなかったことは謝るよ。けど、あの場で紅葉クンを“囮”にすると言ったら、許可してくれそうになかったから」
耳にした名前に心臓が小さく跳ねる。良くないことだと分かっているのに、靴裏が床へ貼り付いてしまったかのように動けない。
すると、聖が珍しく尖った声を上げた。
「当然だ。私には部下を守る責任がある。あの引き立て方をしたら、彼はかなりの危険を背負うことになるぞ」
「彼にはボクから“あの人”の件は他言無用だと言っていたし、最後まで判断を悩んだ。でも、《組織》としてはこの動きが正しい」
「スマイリー、お前は一体何を考えている」
「聖サンも彼の耳飾りに気付いたでしょ? この疑い深い性格はボク自身も嫌になるよ。亜久斗クンにも調べてもらったのに、まだ信用できないんだから」
色々な騒ぎのせいですっかり頭から抜け落ちていたが、紅葉はあの耳飾りの持ち主を探していたはずだ。だが、戦況管理部隊の保管庫から帰ってきて以来、その続きを望んでいるという素振りは見えなかった。
そして、なぜ関わりの薄い上官の口から、彼の個人的な話が出たのだろう。思考の端に何かが引っかかっている――紅葉は自分に大きな隠し事をしているのではないか。
だが、湧いた疑問を遮るように、聖が反応を返した。
「今の状況は私も理解しているつもりだ。とはいえ、お前のやり方には感心しない。万が一のことがあったらどうするつもりだったんだ?」
「それが怖いから、信頼できるアナタに預けたんじゃないか。でも、賭けに出た分の成果はある。会議の場で相手を煽った以上、遠くないうちに仕掛けてくるはずだ。
そして、もし紅葉クンを狙った動きがあれば、彼が“あの人”と裏でつながっていないことが証明される。隊員一人と引き換えに危険が察知できるなら、全体へのダメージは最小限で済むだろう」
牙雲は唇を噛んだ。話の仔細は分からなかった。ただ、参謀の彼が、紅葉を犠牲にしたことだけは理解できる。
スマイリーは将校を同行者とする従来の決まりを意図的に曲げた。組織の統制を図る彼がそのような判断をしたぐらいだ。紅葉は想像した以上の揉め事に巻き込まれていたらしい。
「なぜこうも厄介に首を突っ込むんだ、アイツは」
紅葉たちを送り出す直前。自分は一抹の不安に駆られて柄にもなく聖を引き留めた。案の定、出来の悪い部下が遅刻しかけたのを察していたこともある。だが、それ以上に彼が自分から離れた場へ赴くのを望んでいなかった。
彼に関する嫌な予感は皮肉なぐらいに良く当たる。上官の命令もあった手前、避けられない選択だと分かっているからこそ、余計に苦しい。
やはりこの話は聞くべきではなかった。胸を押さえている間も、室内にいる二人の口論は続いている。
「その方法ならお前の望む結果が出せるかもしれない。ただ、戦い以外の場で人命を扱うことについては、輝月も良い顔をしなかったはずだ」
「だから説得したんだよ。ボクは“あの人”みたいに、一人でなんでもできる能力があるわけじゃないから。完璧にできなくても、それに近づけるようにやらなくちゃ」
「……15年前の件で、傷心した輝月をお前が想っているのは知っている。だが、解決できるかは彼自身の問題だ。彼を庇うことと《組織》を守ることは違う」
「わかってるよ。それでも、当時と同じ過ちを繰り返さないために、輝月サンはボクを信じてドラーグドを任せてくれている。だから、ボクの正義は彼の願いと同じだ。
ボクは誓った――散る時は必ず一緒だと。輝月サンが望む限り、どれだけ汚れ役を被っても、ボクはこの《組織》と共に生き残らなきゃ」
「お前たちの絆は否定しないが、前線に立つ隊員をないがしろにしてはならない。ドラーグドは《組織》のために、あらゆる《個》を犠牲にする場所ではないんだ。苦しい戦況でも我々が兵の志願制を貫いているのは、それが理由だったはずだろう」
「……アナタと違って、ボクは誰かの命を差し出さないと自分さえ守れない。だってボクは“出来損ない”だから」
それきり部屋は静かになった。牙雲はすっかり忘れていた呼吸を取り戻した。同時に扉の方へ気配が近づいてくる。
逃げるように辿り着いた廊下の角で身を潜めていると、渋い顔の聖が歩いてくるのが見えた。
――偶然を装って接するべきか。あらぬ話を聞いてしまったことを白状するべきか。
「おや、牙雲少佐。こんな所で何を?」
「いえ、その……提出物のお渡しと、選抜試験について大佐にご相談があって」
上官の前で自分が口にできたのは、それだけだった。




