-静なる鐘-
むくれる自分に澪が薄い唇へ弧を描いた。
朴訥とした相手が初めて表情を綻ばせた直後。ぐわんぐわんという反響音が延々と耳朶を打つ。
――いや、違う。耳の奥で何かの呼び声が響いているのだ。
『――気高き竜の子らよ。掟に従い、その爪牙を収めよ』
高い天井に広がっていた音が消える。周囲では手合わせ中の隊員が手を止めていた。牙雲も指導書を片手にその場で固まっている。
「なんだ、今の声?」
聞き覚えのない、しかし、なぜか懐かしさを感じる咆哮。それが戦火を交えぬように諭してくる。
「何か聞こえたのか」
「いや、今もずっと響いてるだろ? こう、自分の中から聞こえてくるような声が」
首をかしげている澪に状況を伝えようとした時。高い灰の壁を超えた観覧席で、不意に人影が立ち上がる。
「――若い隊員の切磋琢磨する姿を見に来たつもりが、水を差されてしまったね」
瞳に紅玉の輝きを宿した人物が、鷹揚な足取りで二階から降りてきた。すると、牙雲が我に返った様子で敬礼する。
「挨拶もせずに大変失礼しました。まさか《大佐》がここにいらっしゃったとは存じ上げず、」
「構わないよ。今日はお忍びで試験監督の予行練習をしにきただけさ」
《大佐》と呼ばれた壮年の男は、牙雲へ顔を上げるように促した。後ろへ撫でつけた黒髪の堅苦しさを中和するのは、目尻に笑い皺を刻む顔立ちだ。
集まってきた隊員たちに向けて、彼は悪戯っぽく片目を瞑った。
「諸君の中には初めて顔を合わせる者もいるだろう――改めて、私はドラーグドの戦闘部隊を統括する《大佐》の『聖』だ。よろしく頼むよ」
茶目っ気のあるその仕草と、歴戦の兵が持つ堂々たる佇まいが、彼の周囲では不思議と調和している。
「聖大佐。今聞こえている声は本部内の者からの報せでしょうか」
「いや。これは《静なる鐘》の音だろう」
隊員たちの間に進み出た彼は、つい耳を傾けてしまう穏やかな口調で牙雲の問いに答える。
「《静なる鐘》は大陸全土の人族に対する“警鐘”の意味を持つ。この鐘が鳴ったら、各種族の軍はただちに戦闘行為を止め、一定期間内に軍の長やその代理人が一堂に会する決まりとなっているんだ。
ちなみに、この鐘の音は各種族によって聞こえ方が異なる。我々竜人たちには『始祖の竜』と呼ばれる存在が、停戦を呼びかけるように聞こえるそうだ。私も長く軍にいるが、耳にしたのは片手で数えるほどだな」
聖いわく、この鐘の音は精霊族ならば精霊、獣人には母なる獣、人間には故人の声が聞こえるらしい。ただ、それが鳴らされたということは、どこかで不測の事態が起こっている。
「音の正体は我々も理解しました。ですが、今回は誰が何のために鐘を鳴らしたのでしょう?」
「一連の指示をしたのはスマイリーだ。君のよく知る例の襲撃事件の解決に向けて、他の種族に働きかけることを決めたのだろう」
これまで上層部で閉じられていた情報が公になったらしい。飆の起こした被害はドラーグドだけに留まらない。他の人族との間で停戦や連携の合意が取れるなら、妥当な判断だ。
「左様でしたか。ただ、聞いた話では《静なる鐘》が鳴らされた後、10日以内に軍の代表者が中央区画にある監視塔へ赴かなければならないと聞いて、」
「――中央区画の中にそんな建物が? 毎日戦をやってる所に塔なんて建てても、あっという間に壊されちゃうんじゃないっスか?」
余計な口出しを咎めようとした牙雲を手で留めると、上官が明朗な笑い声を上げる。
「普段の我々が赴くような地域なら、君の言う通りに塔の一つなど跡形もなくなっているだろうね。実を言うと、中央区画の中心部には非武装地帯が存在している。《静なる鐘》はその中に建つ監視塔に設置されていて、それぞれの人族が共に一帯の秩序維持をしているんだ」
「へえ、そんな場所があるなんて知りませんでした」
「……紅葉、今の話は試験範囲だぞ。受かりたいなら地理を一から勉強しておけ」
「アハハ、文字だとなかなか頭に入って来なくて……あ、そうだ! 現地訪問すれば覚えられるかもしれないっス!」
「お前は調子に乗るんじゃ、」
「ほう、それは面白い意見だ! 座学の知識も必要だが、百聞は一見に如かずとも言う」
牙雲に詰め寄られていた自分の前で、聖はまた愉快そうに口を開いた。
「今回は監視塔でドラーグドの《大総統》を発起人とした《全軍円卓会議》が開催される。そこで、牙雲少佐に折り入って頼みがあるのだが――よければ第五部隊の精鋭候補たちを、現地会場の警備役として私に貸してくれないだろうか?」
「……連れて行くのは精鋭候補、ですか。規定では精鋭か将校が向かうのでは?」
「若い隊員に様々な経験を積ませるのも悪くない。敵との大きな衝突は想定されていない任務だから、社会科見学にはうってつけだ」
唐突な打診に、牙雲は吊り目がちな青い瞳を何度も瞬かせている。ただ、精鋭候補の同行について、聖は別の目算も持っていた。
「本来ならば現地には数人の将校を置く予定だったが、君や時平少佐は怪我で現地までの遠征は難しいだろう。各部隊の精鋭たちも、異動の最中で満足な体制が組めていない。本部や各拠点の守りも手薄にできない以上、組織の観点からも悪くない選択だと考えているが。牙雲少佐はどう思う?」
「……自分の身体については弁明できません。大佐のご判断とあらば、従います」
牙雲は渋々ながら頷いた。同時に紅葉も拳を強く握る。
彼の口ぶりや事前情報から、牙雲の課す選抜試験の採点者は聖である可能性が高い。それに、高位の上官と接触する機会が転がり込んできたのは悪くない成果だろう。時には無理を言ってみる物だ。
「では、決まりだ。準備期間も短いため、精鋭候補を含めた機動部隊を結成しよう。本日中には牙雲少佐を通して必要な事項を伝える。これが諸君らの良き学びになることを期待しているよ」
《静なる鐘》の声はいつの間にか止んでいる。代わりに修練場を去っていく明朗な笑い声だけが空間に満ちていた。
「これでは試験の計画が大幅に狂ってしまう――紅葉、お前がいらない口を挟むからだ!」
「えー、聖大佐は何事も経験だって言ってたじゃないっスか。それに危険だって少ないって話ですし?」
「減らず口ばかり叩いて……いいか? 大佐の前で失礼を働くんじゃないぞ」
「わかってますよ。だから少佐は本部でゆっくりしててください」
「お前の行動が心配過ぎて、逆に体調を崩しそうだ」
「オレ、そんなヤバいことするヤツに見えてるんですか? 心外だなぁ」
「紅葉のことだから、当日に寝坊ぐらいはやらかしそうですね」
「うっ、そこはちょっと否定できないのが、」
「澪、コイツから目を離してくれるな。どうか無事に遠征を終えられるように図ってくれ」
「はい。おれも聖大佐の前で、部隊全体の印象を悪くさせたくないので」
「もー、二人してひどいな! オレが一体何するっていうんスか」
「何をするのかわからないから怖いというのに……頼むから、絶対に問題だけは起こすなよ? お前に言いたいのはそれだけだ!」