-祝福されし傷-
* * *
――最初に感じたのは、異様な寒さだった。
牙雲は閉ざしていた青い瞳を開いた。いや、開いたはずが、前に広がるのは闇ばかりだ。
薄れた五感だけが辛うじて残っている。末端まで通う血が足りず、手足がひどく痺れていた。
遠くで喧噪が聞こえる。死地に一人残った部下が仇と対峙している。彼は互いが生き残るために戦っていた。嗚呼、こんな時にだけ、律儀に自分の言うことを聞く彼が憎い。
早く自分が立ち上がらなければ。その焦燥が重たい鉛となって四肢へ巻き付いていく。自分はずっと溺れていた。恐れと怯えの間で沈んでいた。
「……く、れは、……死ぬな、」
何があっても彼を死なせる訳にはいかない。これでは自ら口にした約束を破ることになる。駄目だ、起きなければ。戦わなければ。彼が死んでしまう。また失ってしまう。
これだけ必死に研鑽を積んできたのに。全てを犠牲にしてまで求めているのに――どうして自分は、皆を救える“力”を得られないのだろうか。
淀む思考を遮ったのは温かな熱だった。広がる篝火が闇を照らしていく。炎の狭間で浮かぶ蒼い背中が見えていた。彼は迫る脅威を必死に退けようとしていた。
だが、あの男には勝てない。その命の灯火が吹き消されてしまう前に、自分が倒さなければ。
今だけでいい。どうか、目の前にいる仇を、“殺す”ための力を――
* * *
「……違う、俺はっ、守りたかっただけだ……ッ!」
――今、恐ろしい思考が自分の脳裏を埋めている。それに気付いた牙雲は、叫びながら両の瞼を無理に抉じ開けた。
見えたのは石畳の天井だった。次いで、消毒液の匂いが微かに鼻先へ触れる。覚えのある病室の寝台に身体を横たえるのは久しぶりだった。
嫌な光景を思い出したせいか、ひどく脈が乱れている。心拍も落ち着かない。
枕元に腕を伸ばせば、見舞いの品が置かれていた。その一つに添えられていたのは、いつも目くじらを立てながら見ていた不格好な筆跡だ。
「今度は、俺の方が重症患者だな」
大きな安堵と同時に、いつかの病室で交わした彼との会話が思い返される。
紅葉が自分を止めようとしたところまでは、朧げながら記憶がある。だが、誰にどうやって本部まで連れて来られたのかは、何も覚えていない。
一通りの状況を把握し終えたら、不意に喉の渇きを感じた。水差しへ手を伸ばすと、浴びるようにしてそれを飲む。すっと伝い落ちていく水分が、胸につかえていた苦しさを押し流していった。
この分ではかなり長く眠っていたらしい。全身につながる管を数えていると、控えめなノックと共に病室の扉が開く。
「まあ、意識が戻られたのですね!」
起き上がった自分を見て、やってきた医療班の隊員が慌てて医務官を呼びに走った。
それから少しも経たず、白衣の隊員たちが自分の元へ集まってくる。口々に心配と安堵を囁く彼らに頷きながら、牙雲はしばらく診察を受けていた。
「――失血も多く、感染症の危険もありますので、所見としては当面の絶対安静が必要です。ただ、奇跡的に障害は残っておらず、外傷さえ治れば部隊へ復帰できます。牙雲少佐の生命力の強さに加え、現地での処置の早さが功を奏したのでしょう」
結果を聞き、牙雲は白い敷布の上で拳を握り締めた。あの状況下で死ななかったのは、きっと亜久斗が様々な事態を想定して手を回していたからだろう。
自分は《組織》の代弁者である彼に生かされた。それに報いなければ、あの惨状へ巻き込まれた隊員たちに申し訳が立たない。
「……手間をかけるが、早期の部隊復帰に向けて支援してほしい。取り留めたこの命を一時も無駄にしたくないんだ」
「我々も尽力します。それと、亜久斗中将が牙雲少佐にお話があるとおっしゃっていました。ただ、目覚めたばかりなので後日にでも」
「いや、中将には聞きたいことがある。本来なら俺が伺うべきだが、詫びを添えてここへ呼んでくれ」
集まっていた白衣たちは会釈をして部屋を出て行った。
静まり返った個室に取り残され、ふとした寂莫を覚える。一人でいると悪い感情に呑まれてしまいそうだ。柄にもなく隣に居てくれる存在が欲しいと思いながら、牙雲は招いた上官の訪れを待った。
* * *
「失礼します」
いくらか時計の針が進んだ頃、淑やかな声がかかる。入ってきた相手と視線を合わせ、牙雲はその場で深く頭を下げた。
「お忙しい中、ありがとうございます。助けていただいたのに、立っての礼ができずに申し訳ございません」
「とんでもない。むしろ僕がこの調査へ声をかけてしまったこともあり、貴方の経過を案じていました。意識が戻られて何よりです」
抱えていた書類を脇に置くと、亜久斗はそこでようやく本物らしい笑みを見せた。
「第五部隊の被害状況や、事件の経緯についてはこちらの報告書にまとめました。質問には答えますので、いつでも声をかけてください」
「お心遣い、誠に痛み入ります」
抱いていた心配を汲んでくれた上官に、牙雲は再び首を垂れた。
「では、無事を確認したので改めて――牙雲少佐、おめでとうございます」
「……それは、どういった意味でしょうか?」
亜久斗の前でつい青い瞳を瞬かせる。すると、唐突な祝福の理由を記した書面が差し出された。
「貴方は《覚醒》を経験し、強靭な肉体と精神をもって窮地を乗り越えました。今日は貴方が《中佐》へ昇格する必要条件を満たしたことをお伝えする目的で、こちらに伺った次第です」
ドラーグドでは昇格において様々な条件が設けられている。戦闘部隊の場合は、個々の能力、任務遂行における貢献度、挙げた戦果、上官の推薦といった項目が存在していた。《少佐》の位を持つ自分も、数ある条件をすべて満たした一人だ。
そして、《中佐》への昇格は従来の項目以外に、今しがた提示された《覚醒》の経験が必須だった。だが、聞いた話に困惑を隠せない。
「……自分は本当に《覚醒》したのですか? 深手を負っていたせいか、半ば意識が薄れたまま戦っていたので」
通達の端を持った自分の前で、亜久斗が懐から透明な液体の入った注射器を取り出す。
「これは僕が秘密裏に開発した《覚醒》に対する鎮静剤です。全軍への配給前の物ですが、その効果を確認できた点が物理的な証拠となります」
どうやら知らぬ間に一服盛られていたらしい。つい苦い表情を浮かべれば、相手は肩をすくめた。
「配給前といっても治験済みですので、そこはご安心を。ただ、貴方に自覚がないのも当然のことでしょう。若い竜人が《覚醒》を起こす時は、往々にして自らが命の危機に瀕しているのですから」
――そもそも《覚醒》とは、竜人が有している竜の力を完全に発現させることだ。
一般的に《覚醒》は竜人の肉体や精神が成熟し終えた、壮年期以降に迎えることが多い。そして、《覚醒》した竜人は、一時的に身体能力の大幅な向上と魔力の高まりを得られる。しかし、代償として本能的な行動が優先されるようになるという諸刃の面もあった。
軍に配属された際、牙雲もそうした竜人の生態について習った覚えはある。だが、同時に例外的な《覚醒》の契機を思い出した。
「味方の命を蹂躙された上、死地に追い込まれたことで、自分は負の感情に呑まれて“竜”になっていたのですね」
半ば確信を持って尋ねれば、亜久斗はゆっくりと頷いた。
「外傷の有無もいくらか影響しますが、特に強い心理的な負荷に晒された個体が《覚醒》する事例が報告されています。ただ、器が成熟しないうちに《覚醒》を引き起こされた竜人は、その力によって危機を退けたとしても、心身に大きなダメージを負っている状態です。様々な要因で本能を制御できず、力に吞まれて命を落とす可能性が高い。
――それでも貴方は生き延びました。普段の貴方が持つ高い自制心が、貴方自身を救ったのだと僕は思っています」
それを聞いた牙雲は、彼の推測が珍しく外れていると感じた。瞳を閉じれば、網膜の裏に当時の光景がぼんやりと蘇ってくる。
あの時、自分の暴走を止めたのは紅葉の存在だった。わずかな時間だったが、守るべき存在を認識して、自分は“人”としての理性を保ったのだ。そして、彼の呼びかけが届かなければ、確実に自分は吞まれていた。
この身を律する意志など、何の枷にもならない。自分はいつ発現するかわからない“竜”を抱えている。
次の高みを目指すためには避けて通れない道だった。しかし、守るべき者に害を及ぼすほどの力を、本当に持つべきなのだろうか。
「亜久斗中将、自分には自信がありません。制御できないあの力が、もしも誰かに及んでいたとしたら、」
「――それなら、僕が貴方を殺してでも止めます」
不意に亜久斗が自分の肩へ触れた。長い睫毛に覆われた硝子玉の奥に、怯えと弱さを体現した己が映る。
「僕の使命は《組織》に仇をなす存在を排除することです。だから、貴方が味方を襲ったのなら、必ず僕が殺します」
微笑む紫紺の華に、牙雲はしばらく何も返せなかった。救ったはずの命を、平然と殺すと彼は言い切った。単なる気休めにしては残酷で、本音にしては空虚な言葉。
《組織》の代弁者として見れば、亜久斗が口にした内容は至極真っ当なものだ。だが、牙雲には今の彼が《組織》の役割に大きく囚われているようにも見えた。
「……中将のおっしゃる通り、上に立つ者ほど時に非情な判断が必要となることは、自分も理解しています。この昇格条件が置かれている理由は、仮に配下の隊員が《覚醒》した時、上官が身体を張って止める責を負うからでしょう。資格を持つ自分がそれを放棄してしまえば、《組織》としては大きな損失になります」
「その通りです。《覚醒》を抑える鎮静剤も万能ではなく、場合によっては必要な“措置”を講じざるを得ないこともあります」
返された答えに牙雲は唇を噛んだ。自分が狂うのも、味方を殺すのも、彼や他の上官に手を汚させるのも。《組織》で高みを目指すなら、どれかを切り捨てなければならないのだろうか。
「……自身もドラーグドの名将として、名を馳せたい思いは強くあります。それでも、やはり味方に危害を加えたくない。この力を安全な形で使う方法を、考えていただけないでしょうか」
見つめる紫紺の瞳に向かい、牙雲は喉につかえていた本心をようやく吐露した。
「そうですね。《覚醒》のコントロールは至難の業と聞きますが――事実、戦闘部隊にいる現役の上官たちはそれを克服しています。確約はできかねますが、まずは貴方の希望を上層部へ伝えてみましょう」
無理難題にも関わらず、亜久斗は嫌な顔をせずに理解を示してくれた。方法があるなら《組織》にとって有益だという判断もあったのだろう。
「数日後に関係者との会議がありますので、詳細はその結果をもってお伝えします。今は焦らず、心身の回復に専念してください」
「分かりました。様々な面でご対応いただき、感謝します」
「貴方と同じように、僕もこの《組織》をあまねく守りたいと考えています。要望には可能な限り応えましょう。それでは、お大事に」
伸びた背筋が扉の向こうに消える。
亜久斗は本当に読めない人物だ。非情なのか、優しいのか。その唇からは一切の本音が見えて来ない。それでも、彼がこの《組織》の平穏を真に願っているということだけは理解できた。
「……うっ、……少し、無理を、し過ぎたな」
不意に懐がまた痛み出す。望んだ力を正しく使うためにも、今は先に備えて休息を取るべきだ。それでなくとも他の皆には心配をかけてしまっている。
それと――部隊に戻ったら、一番に彼の顔を見たかった。本当に守ってやれたのかをこの目で確かめたかった。
置かれた見舞いの品に触れると、牙雲は沈むように寝台へ身を預けた。




