-因果応報-
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「――今回もありがとう、亜久斗クン。キミの調査のおかげで話が把握できたよ」
天板に広げられた分厚い報告書を前に、スマイリーは恭しく首を垂れている部下を労った。
赤い絨毯の敷かれた瀟洒な一室は、ドラーグドの上層階にある自身の執務室だ。重厚な机の隅で、厳粛な空気を和らげる一輪挿しの白薔薇が咲いている。
手慰みにその花弁へ触れながら、スマイリーは大きな憂いを溜息へ乗せた。
「将来的なことを考えると飆の存在は看過できない。いずれは討伐に動くつもりだけれど、今は第五部隊と第六部隊が大きなダメージを受けている状況だ。ボクたちだけが犠牲を強いられる方向に、あえて舵を切る判断をすべきかは悩ましいね」
無差別な殺戮を繰り返す脅威を放っておけば、今後の障害になる可能性が高い。しかし、ただでさえ少ない人的資源が枯渇すれば、戦況に差し支えるだろう。解決を急ぎたい課題が山積している。さて、どう紐解くべきか。
「大将、僭越ながら申し上げます」
不意に口を開いた部下に頷き、先を促す。
「まずは臨時で第七部隊と第八部隊の編成を行うのはいかがでしょうか。救護部隊からも、少佐の二人が戦線へ復帰できる見込みはまだ先だという話が来ています」
「情報が早いなぁ、キミは。確かに今から部隊長を立てて訓練させておかないと、通常の戦闘にも討伐にも影響が出る。それで、彼らの経過はどうなの?」
「時平少佐は回復傾向にあります。ただ、牙雲少佐は今も意識が戻っていないようでした」
「彼の場合、負ったのは外傷だけではなさそうだからね」
「鎮静剤の投与が間に合ったのは不幸中の幸いでしたが――あとは本人の生命力を信じるしかありません」
「結果的にキミが傍にいて良かったよ。でなければ、確実に彼を失っていただろう」
重傷者欄に記された若き将の名前を、スマイリーは指先でそっと撫でた。彼には話があったのだが、それは本人が目覚めた後で亜久斗から伝えてもらうことにした。
「まずはボクから各戦闘部隊の隊員を集めるように、大佐へ掛け合ってみよう。既存の部隊も配置を変更する方向で要請するね」
「承知しました。お手伝いできることがあれば、何なりとお申し付けください」
「助かるよ。まだ調査の事後処理が残っているようだけど、またいくつか頼み事が増えそうだ」
部下の顔を上げさせると、スマイリーは報告内容に視線を落とす。
『第六部隊の失踪事件』と『中央区画近隣の無差別襲撃事件』を亜久斗に調べさせた結果。ここに至るまでの背景も含め、一連の事件には複雑な思惑が絡み合っているように見えていた。
「――ねえ、亜久斗クン。ボクが《ノーバディ》の立場だったら、機密を握る者が逃げた時には真っ先に始末すべきだと思うんだけど。どうして彼らは飆を生かしているんだと思う?」
「その事情については理由を説明できます」
広げられた報告書の上に亜久斗が別の紙束を差し出す。それを受け取ると、スマイリーは淀みない考察へ耳を傾けた。
「以前、牙雲少佐の故郷に当たる北部の地域で精霊族との戦が起こりました。ただ、当時の各軍の動きを遡ると、我々が刃を交えるよりも前に、精霊族の持つ水源地に対して人間が攻撃を仕掛けていたのです」
「わざわざ南側から人間たちが遠征して、精霊族にちょっかいをかけるかなぁ?」
「僕も不審に思って大陸地図を俯瞰したところ、その近辺に緩衝地帯へ通じる道が多く存在していました」
「なるほど! 飆は《ノーバディ》から逃れようと、緩衝地帯を通って北に潜伏していたのか。それを斥候に嗅ぎ付けられてしまったんだろう」
「《ノーバディ》は彼の存在を隠すために、わざと精霊族を刺激して、我々の水源地を襲わせるように仕向けたのだと思います。そこで騒ぎが起きれば、彼らは飆を追い立てることに専念できるので」
「……彼らは飆が多くの兵を殺せる力を持っていることも、追手を撒くために殺戮を働くことも、知っていたはずだ。彼を南の方へ追い立てることで、中央区画へ向かうボクたちや他軍の主要部隊へダメージを与えていたということかな」
「左様です。彼らは飆の動きを操作しているのだと推測できます。彼を泳がせておけば、その存在が隠されている限りは優位に立てるでしょう」
仮に自分たちが中央区画へ兵を送り込んだとしても、道中で飆に鉢合わせればすべての計画が狂う。脱走兵に咎を負わせ、自らの手を汚さない彼らの策は、皮肉な称賛を送りたくなるほどだ。
ただ、それ以上に懸念しているのは、これまで鳴りを潜めていた人間たちの動きが活発になってきていることだった。
「なんだかイヤな感じだなぁ。ウェスカー中佐の暗殺未遂があったり、移動経路で時平少佐たちに対する襲撃が起きたり、軍で影響力のある将校たちが立て続けに狙われている。偶然にしては多過ぎるね」
「おっしゃる通りです。現に、ウェスカー中佐の暗殺未遂事件と砲台の情報流出、およびケーブルの損傷は、本部の中にいた《ノーバディ》の内通者によるものだったと判明しました。下手人については僕の方で既に処分しています」
部下がいる手前、顔には出さなかった。だが、自分には点で置かれた情報を結びつける線が、ありありと見えていた。
――次の標的は、一体誰なのだろうか。
水面下で大きな事が動いている。勘に訴えるのは、表層に現れた出来事の裏で手を引く、恐るべき指揮者の存在だ。
「……他に気になることは?」
「ありません――と、言いたいところですが」
背中に隠していたそれを見破られたと思ったのか。肩をすくめた亜久斗が封書を見せる。
「まだ裏が取れていないため、ご報告すべきか迷っていました」
「構わないよ。むしろ耳に入れておかないと判断を誤りそうだ」
謙遜していたが、腹心である彼の手腕はよく知っている。先を促すと、亜久斗が薄く紅を引いたような唇をゆっくりと開いた。
「これは今回の調査の際、現地で捕らえた数人の斥候に尋問して得た情報です。その一人から『《ノーバディ》がここ数年間で危険な人体実験を行っている』という噂を聞きました。様々な禁忌に触れる行為だったようで、内部でも詳細までは伏せられていたそうですが」
「……ふむ」
「そして、飆と接触した紅葉隊員からは、彼が『《ノーバディ》にいた何者かによって力を与えられた』と取れる話を聞きました。それを照らし合わせたところ、前述の件と関連性があるように僕は見ています」
「仮に飆が“手塩にかけた完成品”だったというのなら、彼らが駒を殺さずに利用しているのも説明がつく。噂の件は今後も調査を続けるように。あと、飆についても一緒に調べてくれるかな? もし必要であれば、長期の外部活動も認めよう」
「承知しました。大将のご期待に沿えるよう、必ず成果を挙げます」
「――この調査は極秘で進めてもらう。単独任務となる上、かなりの危険を伴うだろう。それでも、ボクがいつもキミを大切に思っていることだけは忘れないでほしい」
「嗚呼、身に余るお言葉です……貴方のために、僕はこの《組織》の平穏を保つ盾となりましょう」
そう言って彼は美しい微笑みを浮かべていた。それは深い尊敬――自分は、そんな眼差しを向けられるべき存在ではない。本当は彼に自分の役割を押し付けているだけだ。
愛でていた花弁から指先を放すと、スマイリーは前に佇む紫紺の華に尋ねた。
「そういえば、今回はキミに三つの調査をお願いしていたね」
「はい。報告した二件の調査事項に加え、紅葉隊員の身辺についても調べがつきました。結果は限りなく“白”だと言えます」
「理由を聞いてもいいかな」
「本部内と、今回の調査で彼の動きを見ていましたが――敵の指示を受けていたならば、多くは保身に走るはずでしょう。しかし、暴走しかけていた牙雲少佐を、彼が最後まで一人で止めようとした姿をこの目で見ました。紅葉隊員も深手を負っていたので、とても演技だったとは思えません」
「そっか。保管庫で不審な動きをしていたから気になっていたんだけど、ボクの杞憂だったようだね」
「念のために調査を続けますか?」
「いや、その必要はない。好奇心が過ぎるところは玉に瑕だけど、今は見守るだけにしておこう」
「そうですか。僕としてはからかいがいがあって好みのタイプだったのですが。残念です」
「キミが言うと冗談に聞こえないよ?」
黒革の触れる唇から微かな笑みが零れる。他者を蠱惑する瞳も、今は緩く弧を描くばかりだ。
組織を立ち回る上で相応の毒を呑んでいる亜久斗は、普段から本心を覗かせなかった。ただ、彼は自分にだけ不変の忠誠を誓っているのだと言う。
腹心の彼は常に己の役割を深く理解していた。表舞台に立つ隊員たちが、戦い以外の苦しみを負わないように。裏方にいる自分たちが、先にその芽を潰さなければならない。
時には犠牲を伴う判断も、ともすれば憎しみの矛先を向けられることさえも、亜久斗は厭わずにやってくれる――いや、彼はその生き方しか知らないのだ。彼自身が幸せになる道を、自分は教えられなかった。
ふう、とまた一つ溜息をつく。口にできない自分の心を慰めるのは、いつも凛々しく咲いているこの白い花だけだ。
「……今回の調査結果については、キミの働きも含めてボクから《大総統》に報告しよう。ボクたちが不利にならない立ち回りも思いついたから、その相談も兼ねて会いに行くつもりだ」
「この短時間で難局を覆す策を思いつくとは。敬服いたします」
「まあ、すべての役者が交渉の場についてくれればの話だけどね。ただ、指をくわえて待つよりも、できることは試した方がいい」
「大将のおっしゃる通りです。それでは、僕はそろそろ戻ります」
「あっ、そうだ! 今回の任務の“ご褒美”はどうする?」
机に散らばった用紙を片付けていた相手に尋ねると、彼は長い睫毛を伏せた。しばらく思索した後で、亜久斗がようやく望みを口にする。
「でしたら、捕まえた斥候の身柄をください。伝令兵を殺された“報復”がまだでした。お咎めなしでは時平少佐が許さないでしょう」
「ああ、そういう話なら持っていっていいよ。どこかの軍と違って、ボクたちはドラーグドの皆を大事にしているからね」
「ありがとうございます。悪いことをすれば、必ず裁きがある――この世は《因果応報》ですので」




