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蒼い背中  作者: kagedo
EP.4 無差別襲撃事件 調査任務編
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-目覚め-

 伏せられていた眼が再び自分を捉える。静まり返っていた辺りに、びょうびょうと透明な音が集まってきた。


「“ヤツ”のことを知らねぇなら、テメェを生かしておく理由もない」


 互いがこれ以上退けないのならば。今からここは、己の《正義》を賭けた戦場になる。


 山吹の髪が宙になびく。差し向けられた袖から覗いていたのは数多の古傷だった。それこそが彼の葬ってきた《正義》の数なのだろう。だが、生へ執着する仇を打ち倒すために、自分はそれを上回る覚悟を持たなければならない。


「アンタは飛翼や時平さん、第五部隊の仲間、そして少佐のことを傷つけた。オレにとっての大切なものをアンタは奪った。今のアンタは自分が憎む存在と同じことをしてる。オレはそうなりたくないから、アンタが間違ってるってことを証明しなきゃならない」

「口の減らねぇガキだな。まあ、いい。どうせすぐにしゃべれなくなる」


 山吹の瞳がぎらりと光る。刹那、自分の懐に鬼神が潜っていた。追い風を受けた蹴りが脇腹へ減り込む。防ごうと掲げた左肩がみし、と悲鳴を上げた。


 衝撃で目の前が霞む。深手を負った半身が崩れ落ちていく。


 ダメだ、ここで踏み留まらなければ――


「これで仕舞いだ」


 無情な死の宣告。かざされた掌に鎌鼬が集束する。きん、と周囲の空気が冴える。透明な鬼の禍爪が倒れた自分に振り下ろされた。


 ――ざく、と何かを抉る音が耳元で響く。


 不思議と痛みはない。首を落とされたとばかり思っていたが、それにしては妙な感覚だ。紅葉は無意識のうちに閉じていた瞼を持ち上げた。


 広がっていたのは、目の前を埋め尽くす冷めた光。その中に佇む蒼い背中がぼんやりと浮かび上がる。


「……牙雲、少佐……?」


 解けた彼の銀色が、いつも見つめていた背にかかっていた。淡い青の輝きを放つ鱗の腕が伸びている。鬼の一裂きを弾き返したそれは、逆に相手の胴を貫いていた。


「ッ……ああ、その目には、覚えがある。テメェも正気じゃなくなったか」


 喘鳴交じりの飆が零した言葉と、過ぎ去った朧な光の後に残された様を見て、紅葉は小さく息を呑んだ。


 ――自分の前に立っているのは、間違いなく牙雲だった。


 しかし、普段より隆起した肌の鱗と、背中に広がる翼、頭部から突き出た角。そして、何よりも彼が放つ覇気が異質な物に成り代わっている。


 彼の力の源泉は、他者を守りたいという純粋な願いのはずだ。ただ、今の彼から発せられているのは、その想いのひとつひとつを歪な鋭い結晶にした、ひどく禍々しいものだった。


 姿形は確かに敬愛する上官なのに。紅葉には、それが自分の知る彼だとは思えなかった。


「“トカゲ”のままなら大した手間じゃなかったが、“竜”になったのなら話は別だ」


 ぐるる、と低い唸りが響く。同時に飆が修羅の形相を見せた。


 懐へ深く入った牙雲の鉤爪を掴むと、彼は至近距離から気弾を撃ち込んだ。破裂音と共に赤い飛沫が舞う。飛び散った互いの命が大地に吸われていく。


 だが、間合いを取ろうとした相手の陣羽織を、竜の瞳は逃さない。


「――がぁあアアァッ!!」


 長い咆哮が乱気流の間に轟く。呼び声に応えた水脈が次々と地表から噴出した。宙へ逃れようとする標的を水の槍が穿つ。応戦する鎌鼬が水圧を割ろうと派手な飛沫を立てていた。


 牙雲の喉からは人のものとは思えない声が零れている。だが、紅葉の耳には、長く抑圧されていた彼の叫びが確かに聞こえていた。


 重責を背負うには、余りに至らぬ力への嘆き。守れなかったことへの悔恨。奪われることへの恐怖。その全ては自らの弱さに帰結するのだ、と。


 どくん、と地盤が大きく波打った。目の前にある蒼い背中には、次々と真紅の染みが浮かぶ。それを見てやっと思い出した。牙雲は全身に自分以上の深手を負っている。立っていることさえできなかったはずだ。


 今の彼は制御できない感情に突き動かされているだけだ。その状態であれだけの竜の力を使ったら――


「……牙雲少佐ッ!! もういいっ、もういいからッ……!」


 耳の奥に谺していたのは、命を削る咆哮だった。それに気づいた紅葉は肉体へ走る痛みを忘れて立ち上がった。


 歩を進めるたびに血が零れ、意識が濁っていく。流れ出る血に熱を奪われ、冷え切った身体が思うように動かない。


 先へ進もうとしてぬかるみに足を取られた。この数時間で何度もここに膝をついている。


「……っ、少佐、」


 それでも諦めきれなかった。傷ついた叫びを聞きたくない。泥の中を這うようにして、彼の背へ手を伸ばす。飆の魔力と干渉した水飛沫が今も虚空へ散っている。ひどく冷たい天の慟哭になったそれが、自分たちへ降り注いでいた。


 ざあざあと流れ落ちる雫が頬を伝う。辿り着いた指先がやっと長い蒼の裾に触れた。濡れた銀の髪が自分を振り返る。だが、向けられた青い眼差しに浮かぶ物を見て、紅葉は伸ばしていた手を下した。


「……まだ、……足りない、……守るには、足りないんだ……俺には、何もかもが、」


 その瞳に宿っていたのは大きく波打つ水面だった。血の気の失せた唇から漏れたのは、強い渇望だ。根源にある願いを叶えようと、それが彼の中に棲まう“竜”を目覚めさせている。


「そのままだと、そいつは本当に死ぬぞ」


 雨音に紛れた鬼神の声が届いた。水圧を受け止める風が心なしか弱まっている。空から落ちてきた雫には血が混じっていた。仇も、上官も、自分も。全員が限界を迎えている。


「失ったら戻らねぇものがある。俺は取るべき選択を誤った。テメェはどうだろうな」

「……どういう意味だよ。アンタが奪ったんだろ。アンタがっ、オレから……!」


 返事の代わりに、飆は赤くただれた片腕を振り上げた。鎌鼬の前兆に身構える。だが、澄んだ風音は噴き上がる水の柱を分断するだけだ。


 魔力の消失に反応した牙雲が、次の水撃を仕掛けようと吼えた。しかし、その口元からごぼごぼと赤い血潮が零れ出す。発せられるのも掠れた吐息だけだ。傷が完全に臓腑へ達しているのだろう。


 残る水の力が仇を捕えようと牙を剥く。泥流が混ざり、土の色をした水が大地へ広がった。ただ、飆はもう届かない場所にまで逃れている。天に鋭く放たれた水槍も、虚しく地表を濡らすだけだった。


「ったく、柄にもなく深追いし過ぎたか――だが、その傷の具合じゃどうせ長くは持たねぇ。テメェらはそこで勝手に朽ちやがれ」


 穿たれた傷を押さえ、飆は険しい表情のままそう吐き捨てた。降り注ぐ雨粒を巻き上げた透明な風が、次第に白い嵐へ変わる。


 吹きつける風に紅葉は顔を伏せた。地面に落ちる雫が全て消え去った時。鬼神の姿は既にどこにもなかった。


「……グウうぅ、ぐガァアぁあッ……!!」


 しかし、標的を見失ってもなお、牙雲はまだ頬の鱗を激しく逆立てている。彼の怒りは収まっていない。青に覆われた横顔は竜になりかけている。その感情の矛先は、視界へ入った全てに向いていた。


 周囲に放たれた水撃が一瞬にして付近の瓦礫を粉砕する。荒れ狂う水流が、彼の意思とは関係なく地面を削っていった。


「少佐っ、やめてください! アイツはもういなくなったんで! そうやって、自分を傷つけちゃ、ダメですッ」


 暴走している彼を抑えようと、紅葉は最後の気力を振り絞る。隆起した背に組み付けば、青い翼が自分を振り払おうと大きくわなないた。


 血で湿った身体をどうにか押さえつける。ぎらついた瞳が後ろにいる自分を睨んだ。止めようとした腕に血塗れの爪が食い込む。激しい抵抗だった。負傷している左肩にはもうまともな感覚がない。


「少佐、お願いだから、聞いて! オレは大丈夫だから……ちゃんと少佐に、守ってもらったから!」


 言い切った後は息をするのもやっとだった。ただ、紅葉の前で、開き切った瞳孔がわずかに理性の色を取り戻す。


 ――音にはならなかった。だが、彼の唇が確かに自分の名を呼んだ。


「……はい、生きてます。オレは、ここにいます」


 人の言葉が届いているかはわからなかった。それでも安心させたくて、消えかけている熱を分けようと、紅葉はその肩へ額を押し付ける。


 だが、ぶるりと大きく震えた肉体が、再び全身の鱗を隆起させる。《逆鱗》を刺激された上、生命の危機を迎えたせいで、闘争本能が優位になっているのだ。


 爆発的な力の代償で傷が開くと分かっていても、自分にはどうすることもできない。慟哭を上げる彼を、押さえ切れなくなった時だった。


「――ただちにそこから離れてください!」


 毅然とした声が横から差す。振り返るよりも先に牙雲の腕へ何かが刺さった。小さな容器に入った薬液が注入されていく。直後、暴れていた相手の喉から、ぐるぅ、と弱々しい呻きが漏れた。


 全身にかかる力の反発がすっと消えていく。牙雲が眠るようにぬかるみへ沈み込んだ。それに引きずられ、紅葉も隣へ身体を横たえる。


「紅葉君! 無事ですか」


 返事をしたかったが、もう指先一つ動かすことさえ億劫だ。自分の顔を覗き込んだ紫紺の瞳に向かい、紅葉は何度か瞬きする。それを見た亜久斗がすぐに切り返した。


「君の傷は、牙雲少佐に襲われて受けたものでしょうか……そう、違うのですね。それなら良かったです」


 ぎゅ、と目を瞑った自分の意を理解して、彼は静かに頷いた。


「確認すべきことは多々ありますが、まずは君の命が最優先です。牙雲少佐のことも含め、後は僕が対応しますので、ご安心を――」


 色づいた唇から語られた内容を聞き取れたのは、そこまでだった。身体ごと泥の中へ埋もれるようにして、紅葉はその場でふつりと意識を失った。

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