-因縁-
目の前が灰の砂嵐に染まる。激しい気流に阻まれて動けない。何が起きたのか分からないまま、紅葉は巻き起こる旋風の狭間に取り残されていた。
「アイツ、中にいたはずじゃ……ッ!?」
吹きおろす風圧で足元を掬われる。立ち上がろうと何度も向かい風に抗った。だが、全身が透明な掌に押さえつけられ、ぴくりともしない。
肉体と吹きつける風の力が常に反発している。足掻くほどに体力が削られていく。圧迫感に息が詰まる。起こしかけた背骨がひどく軋み、また下へ押し戻された。
――水牢に閉じ込めていた敵の力が、今は自分の身を襲っている。それを理解したのと同時に、頭上から落ちてきた声へ戦慄が走った。
「この程度で殺せるとでも思ったか? そんな甘ったれた覚悟なら、持ってねぇのと同じだな」
吹き荒ぶ風がふつりと消える。紅葉はようやく伏せていた身を起こした。目の前に立っていたのは、間違いなくあの鬼神だ。ただ、纏っていた着物の片袖は焼け落ち、覗いた肌は火傷で赤くただれている。
「まさか、あの炎を突き破ってきたのか」
「命と比べりゃあ、腕の一本ぐらい安いもんだ――で、“ビビった”面してんのは俺か? それともテメェか?」
低い嘲笑が辺りに響き渡る。紅葉は咄嗟に上官の気配を探った。しかし、暴風が止んだ今になっても自分を呼ぶ声は聞こえて来ない。
静まり返った地表はからりと干乾びていた。水牢は跡形もなく消失している。直前の光景を思い返すと、牙雲は切迫した様子で自分に退避を命じていた。あの時、彼が真に伝えようとしていたのは、仇を討つ目前で力を使い果たしてしまったことだった。
「ウソだ、少佐が、やられたなんて」
乾いた風に吹かれ、視界の隅で何かがひらりと舞う。千切れた白い腕章の先にあったのは、血溜まりへ沈む蒼い背中だった。牙雲の全身には深い裂傷が無数に刻まれている。最後は自分の身を守る力も残っていなかったのだろう。
山吹色の瞳がとうとう自分の頸部に照準を合わせた。庇ってくれる上官はいない。協力する味方も失っている。もう打つ手がなかった。
生温い風が吹いている。それが運ぶ死の匂いに、紅葉はぎゅ、と目を閉じた。しかし。
「……く、れは、……死ぬな、」
消え入りそうな声が、自分に呼びかける。
『――俺がお前の馬鹿を治すまで、死なせない!』
初陣の時に告げられた言葉が鮮明な音になって蘇った。牙雲にはまだ息がある。希望が潰えていない限りは抗うべきだ。彼と共に、必ず生き残らなければ。
「――ッ!!」
放たれた死の息吹が、ごう、と激しい音を立てた。だが、首に刃が触れた感覚はない。
代わりに全身には燃え滾る血が巡っていた。これまでにないほどに体温が上がり、鼓動が大きく跳ねている。煮立つような肉体の隆起と、それでいて神経の細部に渡るまでの奇妙な感覚の冴えが同時に襲ってくる。
開かれた瞼の向こうで眩むような炎熱が爆ぜる。握った拳を覆う真紅の鱗が燦然と輝き出す。己の身体から溢れた紅蓮が一帯を覆っていた。
「次から次へとうざってぇなァ。さっさとくたばりやがれ!」
止めを刺し切れなかった飆が、苛立ちに任せた烈風を放つ。だが、仇の鎌鼬が裂いたのは、自分の《逆鱗》だ。
「――アンタの、好き勝手に、させるかッ!!」
吹き荒ぶ風を纏う炎で打ち払い、紅葉は咆哮を上げて鬼神へ突進した。制御不能な暴威が内に宿っている。目の前の仇を焼き尽くせと、本能が訴えている。
爆ぜる炎熱を迎え撃とうと、飆が空気を凝縮させた気弾を放った。だが、紅葉はそれを突き破って相手に肉薄する。
灼熱の中で互いの双眸が交わった。持っていたはずの恐れは既に溶けている。牙雲は守るための力を自分に示してくれた。その意志が己の背中を強く押し出す。
大きく踏み込んだ地面が黒く焦げた。吹きつける暴風が熱波で抉じ開けられていく。透明な鬼の爪が朧げな陽炎と化す。
「食らえッ!」
振り抜いた拳が仇の胴へ初めて触れた。感触は掠った程度だった。しかし、飆は明らかに表情を歪めていた。鱗を覆う炎が届いている。
確かな手応えに紅葉は次の一歩を踏み出した。振りかぶった拳が退いた敵を捉える。全てを裁断する鎌鼬が吹き付けた。頬に刻まれる裂傷。だが、痛みを感じる以上に、燃えるような血潮の熱が自分を奮い立たせていた。
「邪魔するんじゃねぇ。“ヤツ”への《復讐》を果たすまで、こっちも死ぬわけにはいかねぇんだよッ!!」
吼えた飆が地面に気弾を叩きつけた。立ち昇る土埃が視界を覆う。姿を眩ませた相手の気配を追っていると、頭上に影が差した。
咄嗟に顔を上げれば、既に相手が炎熱を穿つ勢いで向かってきた。振り下ろされた踵がかざした鱗に噛む。しかし、重力の助けを借りた一撃が腕を圧し折ろうとしていた。
「っ、ぐ……!」
「テメェは俺に勝てない」
再び交えた瞳の奥で、山吹の瞳孔がかっと見開かれる。次の瞬間、左肩に大きな衝撃が走った。爆ぜていたのは自分の肩口だ。至近距離から放たれた真空刃が頑強な鱗を裂いていた。
飛び散った紅色が血染めの陣羽織に吸われていく。追って神経を伝う痛みに紅葉は大きく呻いた。背負っていた気迫が途絶え、纏う炎の勢いが弱まりかける。
仇の視線が告げた。次に落ちるのはその首だ、と。
再び吹き荒ぶ風の中で、ぎり、と歯を噛み締める。この距離では自分が拳を振るうより、敵の刃が頸部を掻き切る方が早い。
こうして思考できる頭と胴がつながっているのは、あと数秒か――
「おい、その耳についてるのは何だ」
問いかけを境に全ての音が止んだ。いつの間にか飆が自分の胸倉を掴んでいる。彼の視線は左耳にある黒環に注がれていた。返す言葉を探していると、痺れを切らした相手が口を開く。
「それは“ヤツ”の耳にもあった飾りだ――俺を追って来るのはてっきり黒ずくめ共だけかと思ったが、他にも刺客を用意してやがったとは」
「さっきからワケわかんないことばっかり言って! アンタは何がしたいんだ」
一方的な追及を阻もうと、傷が開くのも構わずに飆の腕を振り払う。間合いを取った自分を彼は追っては来なかった。だが、山吹の双眸はまだこちらをねめつけている。
「“ヤツ”について知っていることを全部吐け。それまで殺すのは待ってやる」
「オレはこの持ち主について探してたぐらいだ。アンタの方こそ何か知ってるのか」
「とぼけてんなら殴るぞ。“ヤツ”と関わりがあったからそんなもんを持ってんだろ。さては身内だな?」
「変な因縁つけるのはやめろよ。このピアスはオレが小さい時に命の恩人からもらった物だ。アンタの勘違いじゃないか?」
「――いいや、見間違えるはずがねぇ。あの野郎のツラを一日たりとも忘れるものか」
飆の剣幕は本物だった。憎悪に任せて暴れ出そうとする風を、無理矢理に抑え込んでいる。
「さっさと弱みの一つぐらい言ったらどうだ? でなけりゃテメェの手足を切り落としてでも口を割らせるぞ――俺は“ヤツ”に必ず復讐する。“ヤツ”だけは生かしちゃおけねぇ。それだけのことをやった野郎だ」
飆が鬼の形相で問い詰める。自分を救ったはずの黒環の持ち主が、実際には第三者から大きな怒りを買っていたとでもいうのだろうか。しかし、幼い時に見たあの蒼い背中と、かけてくれた言葉は自分の記憶にしっかりと刻まれている。湧いた疑念を振り払うように、紅葉は同じ熱量で食ってかかった。
「それを言うなら、アンタだって自分の目的のためだけに色んな人を傷つけて、殺して、許されないことをしてるじゃないか。なんでそこまでしないといけないんだよッ!」
「……個々の輩に恨みはねぇ。だが、余計なことを喋る『口』を一つでも残せば、居場所を嗅ぎつけられる。あらゆる犠牲を払って俺はここまで来たんだ。黒ずくめ共に捕まれば、二度と“ヤツ”への《復讐》が叶わない。だから、俺の視界に入った輩は全て殺す。一切の例外なく、だ」
飆が緩衝地帯で殺戮を繰り返していた理由。それは追手から消息を絶つためだった。
ノーバディの斥候たちはあらゆる場所に情報網を張っている。民間人も諜報員として扱えるとなれば、どこかに身を潜めることも困難だ。彼の口ぶりからも、捕まったら単に殺されるだけでは済まないのだろう。ただ、その答えを聞いた時、ふと別の疑問が生まれた。
「そもそも、アンタはノーバディとどんな関わりがあって追いかけられてるんだ。あの追われ方は普通じゃないと思うけど?」
「俺はあの組織を抜けた身だ。どこにも肩入れするつもりはねぇが、下手に内情を告げ口されると都合が悪いから、ああして追って来やがるんだろう」
飆は苦々しげにそう吐き捨てる。だが、紅葉にはそれが全ての真実ではないと思えていた。
亜久斗が手にした機密文書には、飆の追跡が指示されている。追い立てているのは最終的に捕縛のためだと分かるが、彼らは多くの人手と期間をかけていた。口封じだけでそこまでの目に遭うのであれば、彼は一体何を知っているというのだろうか。
考え込んでいると、相手が焼けただれた掌を握り締めて告げた。
「あの黒ずくめ共は兵が足りなくなると、貧民窟に集まる身寄りのない奴を中心に捕まえて、軍に送り込んでいる。俺もそれに引っ立てられた一人だった――まあ、この時世だ。どこかで戦場に立たされる覚悟はあったし、同じように腹を括った仲間も一緒だった。だが、徴兵先で“ヤツ”に目をつけられたのが運の尽きだった。口にもしたくねぇような扱いを受けた挙句、俺は“全て”を奪われたんだ」
重い淀みを纏う声に、紅葉はつい唇を閉ざした。剥き出しになった相手の棘に触れ、頬の鱗が大きく逆立っている。山吹の双眸の奥では、長く燃え続けている憎しみの炎が今も揺らいでいた。
「結局、欲しくもなかったこの力しか、俺の手元には残らなかった。それでもこの滾る“怒り”が内にあるだけ、まだ恵まれてんだよ。胸糞悪い企てに巻き込まれたせいで、俺以外は誰も正気を保っていなかった――だから、俺がやるしかない。あいつらの代わりに、クソったれたあの《組織》を壊す力が、“ヤツ”への復讐を許されていることだけが、今も俺をこうして生かしている」
復讐鬼になる前は、彼も大切なものを持っていたのだろう。ただ、失ったのは全て、二度と取り戻せないものだった。彼が一人になっても復讐の道を選んだのは、奪い返すものさえなかったからだ。
しかし、そうした背景があったのだとしても。彼の行いを認められるかと言えば、単純には頷けない。
「アンタにとっては復讐が一番なのかもしれない。でも、自分が奪われたからって、アンタが他から何もかも奪っていい理由にはならないだろ? オレたちは大切なものを守るために、正当なやり方で決着をつけているんだ。アンタの身勝手な都合で無関係の人を殺すのは、絶対に間違ってる」
敬愛する上官は、常に誰かを守るために力を振るっている。理不尽に他者から奪うこともない。自分は彼の行いに強く共感していた。だが、命の蹂躙者はその台詞を一蹴する。
「はっ。軍にいるくせに、テメェは何もわかっちゃいねぇな。それが“正当”かどうかを決められんのは、生き残った奴だけだ」




