-フルスロットル-
冷めた青い光を帯びた横顔が、こちらを振り返ろうとしている。
固く結ばれた唇から零れる言葉は聞かずとも分かっていた。それでも追いかけてきた背中が消えるのを認めたくない。紅葉は息を切らせてハルバードの柄を掴んだ。
「っ、何をしている! 来るなと命じたのに、」
「……上官だからって勝手なことばっかりしないでください。オレとの約束、破るつもりですかッ!!」
虚を突かれた牙雲が、赤い鱗を逆立てた腕を振り解こうとする。だが、決して鈍色から手を放さなかった。
「……紅葉。俺は、お前まで失いたくない」
仇に守るべき者を奪われ続けた彼は、心を折りかけている。だが、償いのために己の身を挺そうとした上官へ、紅葉は必死に訴えた。
「たとえオレだけが助かったとしても、次の被害は防げません。けど、少佐なら亜久斗さんたちと協力して、後ろに残してきたみんなを守れる――だから、少佐こそ死んじゃダメなんですッ!」
彼自身に言われ続けていたから分かる。この説得は、身勝手な私情であると同時に、より多くを生かすための選択でもあった。
すると、しばらく視線を伏せていた牙雲が、赤い鱗からおもむろに手を放す。
「――お前の言う通りだ。俺には、まだやるべきことが数多く残されている」
牙雲はドラーグドの隊員を守るだけでなく、郷の者を守る務めも負っている。その志を果たすためにも、ここで膝をつくことは許されない。
今、必要とされているのは、脅威へ立ち向かう闘志だ。
「いいか、紅葉。あの場へ抑え込んでいるうちに奴を仕留めるぞ」
冷静さを取り戻した上官の命令に、紅葉は大きく頷いた。肉眼では捉え切れない速度の敵を広い空間に放てば、攻撃を当てられない。今が最大の好機だろう。
一人では困難なことでも、二人ならできる。共に生き残るための選択肢がようやく目の前へ浮かんだ。
「へへ、そうこなくっちゃ。じゃあ、オレが今からぶん殴ってきま、」
「待て、無闇に行っても犬死にするだけだ。というより、お前は先の考えも無しに俺を止めたのか?」
「いや、まずは少佐が早まらないようにと思ってですね」
痛い所を突かれてしまった。啖呵を切ったものの、気持ちが先行していたのは事実だ。暴風を防ぐ方法がなければどのみち共倒れになる。
しかし、水牢は既に風圧で膨張し始めていた。膜が薄く引き伸ばされ、今にもはち切れそうだ。
「奴は魔法も体術も位持ちに匹敵する手練れだ。反応速度も常人の比ではない。あの空間に封じただけで弱体化させることは難しいだろう」
「そうは言ったって生身の人ですし。オレの炎は明らかに避けてましたよ」
――思えば、飆は牙雲の放つ水流には躊躇なく攻撃をぶつけていた。だが、風を得ることで、燃焼速度と範囲を広げる自分の業火は都合が悪いのだろう。
すると、それを聞いた牙雲が閃いたように告げた。
「奴を捕らえている牢にこれから穴を開ける。お前はそこを狙って炎を放て」
「え、けど、閉じ込めたまま倒すんじゃないんスか?」
「あの中はほぼ密閉されている。内部の廃材を燃焼させれば、短時間で酸素を奪えるだろう。一時的に穴を作ったとしても、着火した段階でそこを塞げばいい」
「ふーん。それなら暴れさせずに倒せますね」
示された策は敵を確実に沈黙させると同時に、危険を最小限に抑えるものだった。この方法なら上手くいけば相手からの反撃を受けずに済む。
「可能な限りの安全策を取ったが、あまり調子に乗るなよ」
「今日はわりとイイ子にしてたじゃないっスか」
「さっさと逃げろと言ったのに、俺の命令は聞きやしない」
「だって最初に少佐から『俺の後ろにつけ』って言われましたし」
相変わらずの小言にいつもの軽口を返せば、牢から発せられる殺気も打ち払える。頬の鱗と抱いていた怯えが静かに引いていく。
「あ、そうだ。一応の確認ですけど、アイツ倒したらご褒美ぐらいもらえますよね?」
「どうだろうな。大量殺戮を起こしているとはいえ、軍事組織に属していなければ民間人の扱いだ。下手をしたら褒美どころか罰則かもしれないぞ」
「それマジで言ってます? ホント割に合わない話を受けちゃったなぁ――死んだら損だし、余計にがんばんないと」
「案ずるな。お前が罰を受ける時は俺も一緒だ」
「はは、さっすが少佐。一生ついてきます」
残念ながら自分はツキに見放されたのかもしれない。いや、これだけの暴威を前にしても命が繋がっているのだから、儲けものだろうか。どちらにせよ禍福はこの先の結果次第だ。
目ぼしい場所を探れば、渦巻く気流によって牢の淵に押しやられた木の板が目についた。
「あの辺りに開けてもらえますか? 遠くからじゃ吹き消されそうなんで、ギリギリまで行って一発ブチかましてきます」
「承知した。反撃には注意しろ」
「了解っス――それじゃ、お願いします」
ぬかるみを踏み締め、姿勢を低くする。合図に応えた蒼鱗が、冴えた透明な水面の牢に共鳴した。
開き出した亀裂に向かって駆ける。だが、水を隔てて対峙した山吹の双眸が、自分の動きを追っていた。
「風穴を開けてやろうと思ったが、手間が省けたな」
中で吹き荒んでいた灰の嵐が止んだ。飆が亀裂の前に掌をかざす。狙いに気付かれたらしい。
「紅葉、気をつけろ! 想定より早く破られそうだ!」
牙雲からの警告が飛ぶ。開きかけた穴を激しい風圧が襲った。膨張する膜がみしりと軋む。周囲にはさらなる白い亀裂が走り、隙間から既に微風が漏れ出していた。
透ける表面を流れる水が気流に沿って割れる。飛沫には鋭利な殺気が混じっていた。これ以上時間をかければ、自分の魔力では押し切れなくなるだろう。
「コントロールしてる暇もないな――だったら、初めから最大火力で行くぜ!」
ごう、と音を立て、生み出された紅蓮が渦を巻く。両腕に灼熱を纏った紅葉は、抉じ開けられた裂け目に拳を叩き込んだ。
高温になった淵がごぼ、と煮立つ。業火の色が水脈を伝って赤く溶けた。だが、生命の危機を覚える熱源を前にしてもなお、鬼神は有り余る風圧でそれを押し戻そうとする。
「乳臭せぇガキは引っ込んでろッ!」
穿つような殺気と同時に放たれた凶風が吹き荒ぶ。火花を散らす紅蓮が気流に煽られ、燃焼速度を上げた。触れた熱の色がみるみるうちに白く変わる。
僅かな隙間を走る鎌鼬が何度も硬質な鱗を抉った。突き出した腕の表皮が裂け、血で濡れていく。
「ッ、いってぇ、けど……オレだって、簡単に終わるとか、思ってねぇしッ」
頬の鱗を逆立てながら、紅葉はもう片腕に込めた灼熱を亀裂へ捻じ込んだ。対峙した飆が、自らへ吹き付けた熱風に初めて息を呑む。
「爆ぜろッ!!」
複数の暴発音を伴いながら、放たれた火種が乱気流に乗って宙へ拡散する。天蓋から烈火が降り注いだ。それを避けようと飆が身を翻す。
着弾した地表から次々に火の手が上がった。対流する空気がひどく熱を帯びていく。視界で揺らぐ陽炎が仇の姿を朧に溶かした。
「紅葉っ、早く下がれ!」
吹き消せないほどになった炎を見たのか、牙雲が退避を命じる。策を完遂した紅葉は、血の滴る腕を亀裂から引き抜いた。
「今の見てましたか、少佐? アイツ、オレの炎にすげぇビビった顔して、」
達成感に浮かんだ笑みを見せ、振り返った直後。びょう、という一陣の風が背中を過ぎる。
牙雲が青い双眸を見開き、何かを叫んでいた。だが、その言葉は引き裂かれるような音で掻き消えていく。次の瞬間には全ての感覚を覆い尽くす暴風が一帯に吹き荒れていた。