-手折られた矛-
* * *
「これは、あまりに惨い」
空虚な景色を彩っていたのは、夥しいまでに溢れた鮮明な赤と、鼻をつく鉄錆の匂い。四肢に生えた鱗と引き裂かれた蒼、そして、僅かな人肌が深紅の大地にまだら模様を描いている。
――飛翼が現れた方角を手分けして捜索していた時。亜久斗から呼び立てられ、紅葉は上官と共にこの場を訪れた。
風向きが変わった途端、あからさまな血の芳香が辺りに充満する。横では牙雲が口元を覆っていた。他にも視線を伏せる者が後を絶たない。朽ちた白い地表と刈り取られた命の色が織り成す様は、まるで悪趣味な絵画だ。
「牙雲少佐。もし見るのが辛いようであれば、」
「……問題ありません。中将を補佐するのが我々の役目です」
「では、調査への同行を願います」
牙雲の声音は普段の毅然としたものだった。しかし、この景色を臨んだ瞬間、彼の頬に青い鱗が連なっていたのを紅葉は見ていた。
「時平さん、生きてますよね」
「あんな図体をしているヤツが簡単に死ぬわけないだろ。きっと馬鹿の一つ覚えで敵を追いかけて、遠くまで行っているだけだ」
そんな憎まれ口を紅葉も信じたかった。しかし、現実には軍で随一の屈強さを持つ隊員たちが、見るも無残な目に遭っている。
歩を進めるたび、大地に染み切らなかった同胞の血潮がぬちゃ、と嫌な音を立てた。彼らが襲撃を受けてからそれほど時間は経っていない。生存者を探す上でも、手がかりを得る上でも、調査は続行すべきだと皆が考えていた時。
ひゅうひゅうという微かな音が耳に入った。亜久斗が太股の鞘から苦無を抜く。目配せをした彼から、出どころとなる大きな岩を左右から囲むように指示が下る。武器を構えた牙雲の横に控えると、紅葉は静かに岩陰の裏を覗き込んだ。
――からん、と乾いた音を立てて鈍色が地面へ転がる。音の正体を見た瞬間、牙雲が蒼白な顔でハルバードを取り落とした。
「時平ッ!」
岩肌へもたれかかるようにして、血みどろの巨体がその場に坐していた。鋼の肉体から零れるにしては、あまりに弱々しい呼吸。軍が誇る豪傑の変わり果てた姿に、周囲は一様に表情を強張らせた。
牙雲が彼の元へ駆け寄ろうと足を踏み出す。だが、血でぬかるむ地面へ靴先が沈み込んだ。鋼と見紛う煉瓦色の鱗が綻んだ事実こそが、襲撃犯の脅威を雄弁に物語っていた。
「っ、こんな所で寝るんじゃない!」
ぼろきれ同然になった軍服の肩へ牙雲がやっと触れると、伏せられていた瞳がゆっくりと開いた。
「……最期に、見る顔は、……テメェ以外なら、誰でもいいと、思ってたんだが」
「馬鹿な冗談はやめろ。死ぬにはまだ早過ぎる」
「そう、だな……テメェの面を、見ちまった、せいで……オレも、死に切れねぇ」
苦しげな吐息を溢しつつも、時平は自力で立ち上がろうとした。だが、大きく裂けた四肢の傷が開き、呻きながら岩肌を掴む。
まだ血を流し続ける大柄な体躯を支えようと、紅葉は急いで自分の肩を貸した。
「時平さん! 無茶しちゃダメですよ」
「……紅葉、テメェもいたのか。飛翼と、会ったんだな」
「アイツから時平さんたちのことを助けて欲しいって言われて。傷だらけでしたけど、命に別条はないんで安心してください」
生き残った部下の存在に時平は安堵の溜息をついた。すると、横で控えていた亜久斗が口を開く。
「申し訳ありません、時平少佐。僕たちからの連絡が遅れたせいで、このような惨事を招きました。調査班の長としてまずはお詫び申し上げます」
「いや、本部からの連絡は届いてました。けど、道中で、色々とあって」
時平の荒い呼吸が落ち着くまで、彼の怜悧な容貌は伏せられたままだった。
「……実はこの経路から引き返す時、親とはぐれた竜人の子供と会ったんです。あの連絡を受けちまった手前、放っとけねぇんで、ひとまず部隊の大半は別の経路で進ませて、残ったオレらで一時的に保護してました」
話を聞くに、時平たちは拾った民間人の子供を親元に送り届けようと、やむなくその場に留まっていたらしい。彼と別れた分隊は精鋭たちが率い、中央区画へ向かったという。直前で部隊を分割しており、彼らが全滅を免れたのは不幸中の幸いだった。
しかし、事情を聞いた亜久斗が柳眉を寄せる。
「妙ですね。『第六部隊が消息を絶った』という話を僕が受けたのは今から一週間前でした。ただ、襲撃は先に起きたばかりです。しかも、時平少佐が事前に僕の連絡を受け取っていたとなると――第六部隊が送ったはずの伝令兵は、どこへ消えたのでしょう?」
「オレはちゃんと返事を送ってますよ。けど、伝令兵がやられたせいで報告が届かなかったんじゃ? 生憎、ここ数日間で送った隊員は、誰も戻ってませんし」
空白期間へ対する疑問を受け、時平は厳つい顔をさらにしかめた。
連絡を受けた段階で、時平が本部へ了承の意を返していたとすれば。少なくとも、報せを持った隊員は数日中にどこかの拠点へ辿り着いていたはずだ。ただ、状況を俯瞰していた亜久斗が不審な点を指摘する。
「例の襲撃犯が、僕たちの拠点側へ向かった伝令兵をわざわざ始末してから、この緩衝地帯へ戻るのは不自然です。これまでは辻斬りのような形で被害が起きていますし、第六部隊だけが執拗に狙われる理由は見受けられません」
「冗談じゃない……戦で恨みを買ったのならまだしも、顔も知らないヤツに訳もなく殺されたんじゃ、コイツらも浮かばれねぇ」
「心当たりがないということは、相手の姿を見たのですね」
亜久斗の問いに鋭い眼光が伏せられる。しばしの沈黙の後、時平が重い口を開いた。
「戦場では見かけたことのないヤツでした。覚えてんのは、山吹の髪と血染めの陣羽織……あれはきっと“鬼神”に違いねぇ」
――それは情け容赦のない命の蹂躙だった。
一陣の風が吹けば、次の瞬間には誰かの肉体が切り刻まれている。透明な鬼の爪が、頑強な鱗の裏にある柔らかな人肌を引き裂く。無作為な方向から全身を抉る烈風が襲う。激しい風圧で身体が地に叩きつけられ、逃げ場のない死の息吹が眼前に吹きつけた。もはや肉眼では全ての禍爪を回避できない。
辛うじて留めた時空の狭間で臨んだのは、時の拘束すら引きちぎる暴風の化身。
「正直、力も速さも相手の方が上でした。単騎だったのに、オレらがまとめて掛かっても食い止め切れず――民間人の女子供も、それを庇おうとした第六部隊のアイツらも、そいつが全部殺しやがったんだッ!」
憤怒の咆哮と共に時平の頬へ煉瓦色の鱗が現れる。それがぱきぱきと逆立っていく音を聞いて、紅葉も奥歯を噛み締めた。
目の前で無情にも守るべき者の命を食らわれた彼は、どれほどの激情を覚えたのだろうか。証拠に、鱗に覆われた掌が大鎚の柄をへし折らんばかりに掴んでいる。
「……やりきれない思いはお察しします。ただ、時平少佐が一命を取り留めていたおかげで、多くの手がかりを得られました。後は調査班が責任を持って対処します。隊員たちの死を、無駄にしないためにも」
戦場以外で起きる様々な問題を解決するのが彼らの役割だ。戦の要となる《組織》を守るべく、亜久斗は誓いの言葉を残した。その約束を聞いた時平も次第に立てていた気を落ち着ける。
「そういや、今になって思い出したことがあります。襲ってきた相手は、オレに止めを刺す前に、何かに追い立てられてその場から消えたんです」
彼の口から残された新たな手がかりに、一同が顔を見合わせた時。
小さな呻きと共に、ごぼ、と濁った咳が零れる。倒れかけた時平の身体を、紅葉は慌てて支え直した。口元からは血が伝っている。臓腑にまで達した傷があるのだろう。
「時平、もう十分だ。今は休め」
体力の限界を迎えた同胞を案じたのか。しばらく口を閉ざしていた牙雲が、近くの隊員を呼び寄せる。傷ついた時平の体躯を部下たちへ預けると、彼は放り出していた鈍色を拾いに向かった。
だが、その後ろ姿に喘鳴混じりの忠告が刺さる。
「……よく聞け、牙雲。オレは、運良く命拾いしただけだ。変な気を起こすんじゃねぇぞ」
牙雲は何も答えなかった。代わりに、指の骨が浮き出るまで鋼の柄を握り締めていた。