-闇に潜む獣-
「あー、ちょっといいっスか。ここ、実は敵の本陣が近くにあって」
「なぜそんな重要なことをすぐに言わなかった!」
「だってさっきは少佐がイイこと言ってる雰囲気だったから……わーっ、ほらやっぱり見つかった!」
全身を敵の血で濡らした紅葉は、上官の袖を引いて足早に陣営へ戻ろうとした。しかし、木立の奥から急速に何かが接近してくる。
闇の中でぎらぎらとした獣の双眸がそこかしこに浮かび上がる。嘲笑うような唸り声と四方に響く獣たちの息遣いが緊張を煽った。
死角から致命傷になる矢が飛んでくるかもしれない。鱗に覆われた拳を握り締め、底知れぬ闇の向こうを睨む。だが、敵が仕掛けてくる様子はなかった。
――いや、違う。彼らは合図を待っているのだ。
「おやおやァ、こんな所にたった二人で乗り込むなんて。自ら餌になりに来たのか?」
影の中から響いた声が二人の横をすり抜ける。肌へ纏わりつく嫌な空気が辺りを包んだ。つい視線を送れば、牙雲が小声で告げる。
「今のは敵将だ。付近にいる兵とは持っている覇気が違う。姿さえ見えれば戦えるが、この闇では厳しい」
「そんな! じゃあオレたち、アイツらに頭から食われて骨までしゃぶられて、」
縁起でもないことを呟けば、くつくつと喉を鳴らす音が聞こえた。後ろを振り返るも、木立が風に揺れるだけだ。すると、こちらの動揺を手に取った相手が口を開く。
「安心しろよ。トカゲの肉なんてこっちから願い下げだ。鱗ばっかり硬くて食えたもんじゃない。ところで、デカい方のお前――」
「うッ!」
突如、黒い塊が胴に衝突した。回避も叶わず、遠くの地面まで弾き飛ばされる。起き上がる前に上から何かが圧しかかってきた。背骨が軋み、一時的に声も奪われる。霞む視界で捉えたのは、暗がりに鎮座する黄色い双眸だ。
「……くっ、な、んだ、コイツ」
対峙した存在はこれまで見てきた獣人とは全く違う。彼らのほとんどは人の姿をしており、耳や尾、鉤爪を持つ手足だけに獣の特徴を残していた。
だが、自分の上に乗っているのは人よりも大きな黒豹だ。漆黒の毛並みはこの闇で姿を隠すのにさぞかし都合の良かったことだろう。
鋭利な爪を持つ前足が首にかかる。ずらりと犬歯の並んだ豹の口が、目の前で憤怒の表情を形作った。
「服から弟の匂いがする。お前だな、オレの兄弟を殺ったのはッ!」
兄弟、と言われて紅葉は記憶を巻き戻した。黄色い瞳――そうだ。牙雲を襲った相手の目も、この獣と同じ色だった。生えていた耳も黒い毛並みに覆われていた気がする。だが、戦場で殺意を見せた相手に手加減はできない。反論しようと口を開きかけた時。
「そんな新米に何ができる。仇を見誤るとは、兄弟揃って目が節穴だな」
ハルバードを構えた牙雲が乾いた声を上げた。普段の彼らしからぬ挑発に、顔からさっと血の気が引いていく。
「小生意気な奴め。絶対に許さねぇぞ! まずはお前から嬲り殺してやるッ」
案の定、黒豹が低く唸った。獣人はプライドが高く、苛烈な気質の者が多い。相手を熟知していた牙雲はわざと自身に注意を惹いたのだ――部下である自分を守るために。
紅葉は懸命に頭を横に振った。だが、離れた暗がりにいる牙雲には決して見えない。
「その小さいトカゲの首を捕ったら、オレから軍に昇格の口利きをしてやろう。手段は問わない、すぐにかかれ!」
ガチガチと牙を打ち鳴らした漆黒の獣が狩りの合図を下した。
木立にざわめきが走る。にじり寄る足音が迫る。すると、牙雲の横顔へ淡く光る青い鱗がぶわ、と現れた。闇の中で浮かぶ顔立ちにあったのは、これまで見たことが無いような怒りの形相だ。
「こちらもお前たちのせいで随分と辛酸を舐めてきた。人的な被害も決して少なくない――だから、たとえ刺し違えてでも俺はここを守り抜く」
竜と獣の咆哮が谺する。周囲にいた獣人たちはそれぞれの爪牙を剥き出し、竜将の首を狙った。向かってきた全ての敵が間合いに入った瞬間。彼の瞳がより深い青に染まる。
「水神の怒りを見よッ!」
突如、視界を覆う白波が溢れ出す。蒼い軍服を中心に現れた逆巻く水流が、獣たちの身体を慈悲もなく呑み込んだ。ごうごうと荒れ狂う竜巻が地面を抉り、有象無象を薙ぎ倒す。凄まじい水圧は敵を押し流すだけでなく、その質量で骨身さえ打ち砕いた。
地響きをさせながら過ぎ去った水龍の力に、紅葉は瞳を見開いたまま呼吸を忘れていた。
「雑魚ばかり寄越しても無駄だ。その気があるなら《少佐》の牙雲が受けて立つぞ」
全ての波が引いた後、その場に立っていたのは牙雲だけだった。彼の魔力が及んだ範囲には、ひしゃげた獣の身体が転がっている。自分の目にそれが見えたのは、余波による倒木で深い闇に月の光が通るようになったからだ。
牙雲の逆鱗は味方の命を脅かされることだった。そして、そこには自身が持つ膨大な魔力も含まれている。だから彼は自身の戒めとして、不得手な近接戦の修練に励んでいた。だが、今は射程内に敵兵だけしかおらず、持てる力を全て解放したのだろう。
獣たちへ加護を与える夜の帳が消えた。ぬかるみを踏みしだき、牙雲は敵将へ歩を進める。月明かりを受けた鈍色の刃と、魔力を宿した竜の瞳がぎらりと輝いていた。
「……たかがトカゲ如きに散々コケにされた挙句、手ぶらじゃ帰れねぇ。良いだろう、直々にオレが相手してやる」
水飛沫で濡れた毛並みを振るった黒豹が低く唸った。みしみしという音が耳元で響く。上を見れば、しなやかな黒い肢体を作っていた骨格が次々に組み変わっていった。豹の顔は浅黒い肌を持つ人の面影へ、前足も筋張った腕に変化している。
獣の姿を脱ぎ捨てた黒髪の男は、構えた竜将に黄色い双眸を細めた。その瞳には前よりも強い身の危険を覚える。人の姿を取ったはずが、そこには理性の色がまるでない。
「《男爵》・ノワール――お前の腹を引き裂き、その血を全て撒くまで退きはしない!」
黒い毛並みに覆われた肩口が膨れ上がる。地獄の底から響く声で名乗りを上げた男――『ノワール』は《爵位》を持つ実力者だった。
これから始まるのは将同士の一騎討ちだ。ここでいつまでも自分が敵の下敷きになっていたら、牙雲が応戦できない。
「っ……こ、の、やろッ、」
「ったく、大人しくしてろよ」
何とか逃れようと紅葉は身を捩った。だが、現実には圧倒的な力の差が存在している。足掻けば喉笛に指を押し込まれ、気道が狭まった。
「何をするつもりだ」
覇気を纏った牙雲の問いに、ノワールは地面へ背を預けている自分を見下ろした。ぎらついた瞳に息を呑めば、その口元が残忍な笑みを形作る。
「単なる殺し合いじゃつまんねぇだろ。せっかくだからちょっとした余興を入れてやるよ。お前がオレのカワイイ弟や部下を殺したのと同じ目に――いや、もっと長引く苦痛をコイツに与えてやるのさッ」
開き切った瞳孔が視界に迫る。まずい、と思った時にはもう遅かった。