-新米の仕事-
「次は少佐が狙いか」
弩の矢が将の心臓を射抜こうとしている。それに気付いた紅葉は前進する自軍の群れに逆らって移動した。蒼い群れに身を隠しながら、敵がいた木立の近くまで忍び寄る。この距離なら十分だろう。
「そうはさせるかってのっ!」
不意を突き、紅葉は暗がりにいた相手へ飛び掛かった。既に引き絞られていた矢が近くの木肌を削る。しかし、咄嗟の反応速度では身軽な相手に分があった。
「鈍いトカゲのくせに、邪魔すんな!」
「っ、待て!」
強靭な脚力で大きく跳んだ影を捉え切れず、放った拳が空を切る。闇に紛れようとする背を追い、木々の合間を駆け抜けていた時。
「いッ……!?」
何かがずきりと右腕を抉った。見れば赤い鱗に弩の矢が突き刺さっている。幸いにも入りは浅かったが、自分の装甲を貫通するほどの威力だ。かなり近い距離からの攻撃だろう。
闇に目を凝らすと微かに気配が残っている。だが、篝火から離れた場所では遠くまで見通せない。今になって牙雲の指示を思い出すも、後の祭りだ。
「馬鹿なトカゲが来たぞ、やっちまえ!」
周囲で低い嘲笑が響いた。仕留め損ねた獣の声がいつしか自分を取り囲むように増えていく。狭間で再び糸を引き絞る音が聞こえた。咄嗟に茂みへ飛び込んだ直後、自分のいた空間を複数の矢が横切る。
「どう切り抜けるかな」
まんまと敵の本陣に誘い込まれ、その多くから標的にされている。置かれた立場を理解して、紅葉は短い髪を掻き上げた。味方の隊列は鬱蒼とした緑の茂みを挟んだ向かいだ。その手前には敵が居座っている。
すぐには覆せない劣勢に鼓動が早まっていく。腕の鱗はひどく逆立ち、握った拳は震えていた。
「上手くいくかわかんないけど、今はコレに頼るしかないか」
ぎり、と弓の引かれる音がする。鼻が利く相手を前に悩んでいる暇はない。自分の鱗なら一撃は持ち堪えられる。
深く息を吸い込んだ、次の瞬間。ばしゅ、と重い射出音が茂みへ放たれる。狩りの合図に獣人たちが生い茂る緑の奥へ襲い掛かった。
「燃えろッ!」
刹那、月冴の届かぬ闇が突如として鮮烈な光源に包まれる。敵の矢が刺さる直前、草木を焼きながら立ち上る火柱が辺りを覆い尽くした。
獣人たちは業火が生む激しい熱と光にたじろいでいる。この紅蓮は自分が扱える唯一の魔法だった。しかし、扱い慣れていないせいで、一時的に敵を脅かすのが精一杯だ。
だが、今はそれで十分だった。炎の合間から手を伸ばし、近くの獣人を力ずくで地面へ引き倒す。包囲網が崩れ、戻る道筋が見えてきた。立ち込める黒煙で敵の嗅覚を惑わせつつ、篝火の色を頼りに木立を駆け抜ける。
「良かった、ちょっとヒヤッとしたけど何とか……わッ!?」
近づいた蒼い群れの気配に安堵の溜息を漏らした瞬間、視界が複数の影に遮られた。柔らかな篝火が闇へ消える。潜んでいた伏兵には気付かなかった。
「死ね!」
至近距離で鱗の無い胴を狙われたら、致命傷は避けられない。眼前で突き出された爪に頭が真っ白になる。構えることも忘れ、紅葉は心臓を抉る一撃をただ見ているだけしかできなかった。
周囲の景色がやけにゆっくりとした動きになる。左胸にある隊章を、鋭利な獣の鉤爪が掻く。
「――紅葉ッ、横に跳べ!」
凛とした咆哮が停止していた思考を冴えさせる。弾かれたように地面へ滑り込むと、中途半端な受け身で背中をしたたかに打ち付けた。だが、痛みは気にしていられない。大地を転がれば、振り下ろされた鈍色の刃が真横に落ちる。背中が生温いもので湿っていく。
「はあぁッ!」
目の前には長い軍服の裾を翻す牙雲の姿があった。襲ってきた敵の胴を分断すると、彼は血染めの斧で次の相手を袈裟斬りにする。片腕を落とされた獣人は呻いていたが、すぐに矛先で胸部を穿たれて沈黙した。
ただ、ハルバードの猛攻を掻い潜った一人はまったくの無傷だ。しかも牙雲は背面を取られている。
「少佐っ、後ろ!」
木立の合間で長物の刃先を地面へ降ろしていた彼と、既に両手の短刀で斬りかかろうとする相手では、動きに各段の差があった。
「ぐッ……!」
がり、と硬い物を削る音。青い鱗を生やした片腕で牙雲が直に刃を受けていた。対峙した敵は肩口の筋肉を大きく隆起させる。体格の優位を見て、その腕を圧し斬ろうとしているのだろう。
食い込む切っ先に細かな鱗が何枚か剥がれ落ちる。しかし、酷く表情を歪めながらも、牙雲はハルバードの柄で相手の片腕を押さえ込んだ。
「何だてめぇ、貧相なナリのくせして位持ちじゃねぇか」
膠着状態の中、黒い毛並みの獣人が煌々とした黄色い瞳を細める。その視線は武器を握る左腕へ注がれていた。有力な敵将を討伐した者が、自軍から高く評価されるのは当然だ。
「へへ、その首取ったら昇格に違いねぇ!」
「どいつもこいつも、俺の見た目ばかり好き勝手に言って。やれるものなら、やってみろ」
気丈に振る舞う牙雲へ覆い被さるようにして、大柄な相手はじりじりと体重を乗せていく。このまま体勢を保てなくなれば、おそらくは――
「牙雲少佐っ!」
痛む背を無視してすばやく身体を起こすと、紅葉は獣人を羽交い絞めにした。弾みで青い鱗から刃が離れる。やるなら今しかない。
「食らえッ!」
浮いた両脇を掴み、獣の身体をそのまま地面へ投げ倒す。死のもたらす緊張が解け、滞っていた全身の血が滾っていた。牙雲が制止を叫んだ気がした。だが、それを掻き消すように吼え、地に伏した仇の顔面を何度も殴りつける。
――咆哮と共にいくつの拳を打ちつけただろうか。振り上げた腕をふと宙で掴まれる。
「もういい。死体に構うな」
はっとして下を向けば、凹んだ頭蓋とぴくりともしない獣の身体がその場に転がっている。自分がやったとはあまり思いたくない。だが、上官を喰らおうとした相手を見て、何かが自分の逆鱗に触れたのは事実だ。
鱗に覆われた腕を下ろし、紅葉はゆっくりと後ろを振り返った。冴えた水面の眼差しを受け、負の感情に呑まれていた心が凪いでいく。反対に、牙雲の頬には青い鱗が連なって浮かんでいた。つり上がった瞳からもまだ感情が昂っているのが見て取れる。
腕を掴む力がまた強くなった。表情を一層険しくさせた彼に、紅葉は気の利いた言葉を探して口を開こうとした。しかし。
「この大馬鹿者が! あの場に俺が間に合っていなかったら、お前は死んでいたぞ!」
身をすくめた自分に構いもせず、彼はそう吼えた。
牙雲の袖は大きく破け、鱗の上から血の滲む裂傷が覗いている。自分が命令に従っていたのなら受けなかった傷だ。もし、不慮の出来事で指揮官を死に追いやってしまったとしたら。もし、これからの戦いにまで支障が出てしまったら。到底、自分には償えない。
「……はい。すみません、でした」
戦場は常に死と隣り合わせだ。牙雲の指示は多くの味方を守った上で、勝利を引き寄せるためのものだった。ついその場で項垂れた自分へ、大きな溜息が返ってくる。
「俺の命令を無視したぐらいだ。納得できる理由を言ってみろ」
「隊列の中で戦ってたら、弩で少佐を狙ってる奴を見つけたんです。で、それを追いかけてたら、いつの間にかここに」
「嘘じゃないだろうな」
「ホントですって! ほらっ、オレも攻撃されたんですよ!」
「使われたのが粗悪品だから良かったものの、精霊族の矢なら腕を失っていたぞ。新入りのくせに無茶をして」
「だって、オレの役目は少佐を守ることだと思ったから」
牙雲がわずかに青い瞳を見張った。しかし、すぐに首を横に振る。
「自惚れるな。今のお前は『生き残ること』が一番の仕事だ。人の心配をするのは、自分で自分の身を守れるようになってからにしろ」
掴まれていた腕が強く引かれる。言葉は相変わらず厳しかった。ただ、相手の頬に浮かんだ鱗と眉間の皺はもう消えていた。
「もし、それができるようになったら――いつかは俺の背中を任せてやる」
「……はい!」
大役を果たすにはまだ遠い道のりだ。だが、上官から諭された話であれば、手の届きそうな目標だった。そのためにはこの一戦を乗り越えて、次に進まなければならない。
大きく頷いたところで、紅葉はふと身体に染みた鉄の香を思い出す。