-将のプライド-
* * *
ぼんやりとした篝火の色が足元を照らしている。これといった大事は起きていないが、斥候たちの存在が圧力になっているせいか、疲弊していく兵の士気は下がる一方だ。
墨色に坐す月明かりは雲居に紛れ、昨日よりもどこか頼りなく映っていた。
「しょーさぁ。敵なんかぜんっぜん出てこないじゃないっスか。ウェスカー中佐のいる南側と違って暇過ぎますよ」
「不謹慎なことを言うんじゃない。見回りで済んでいるだけありがたいと思え」
片眉を吊り上げた牙雲に窘められ、紅葉は小さく溜息をついた。《竜のとぐろ》の北側に位置する塀の外周で夜警をする最中、何度も欠伸を噛み殺す。
遺体の数に関する報告を元に牙雲が説得した結果、ウェスカーから条件付きで夜間の巡回に参加する許可を得られた。しかし、許されたのは、最低限の人員で外周の限られた範囲を守ることだけだ。
北側は《竜のとぐろ》自体が巨大な影となっている。夜目が利く獣人の兵以外は近づきにくい上、ウェスカー自身が狙撃をする際にも不利だ。彼もそれを理解していたので、北側は拠点の人員を警戒に当たらせ、自身は南に張り込んでいたらしい。
「そういえば、ドラーグドは戦闘部隊から偵察兵を出しますけど、他の軍は専門部隊がいるんスか? 昼に見たのも黒い服の死体ばっかりでしたし」
「彼らはいわゆる《隠密部隊》のような組織に属しているのだろう」
「ふーん。そういうのってウチの軍にもあるんスかね」
「過去には存在した役割だと聞くが、そうした組織は上層部の直轄で、俺たちに存在が知らされることはないだろう。迂闊に身分を明かして色々な兵と関われば、お前のようなヤツが口を滑らせかねない」
「そんなことしませんってば! 相手がキレイなお姉さんじゃない限りは」
「……お前に機密を任せられないのは、そういうところだぞ」
「えー、でもウェスカー中佐との話はみんなにもナイショにしてますよ?」
「いいから黙って監視を続けろ」
脇腹を肘で小突かれ、やむなく口を噤む。篝火の揺らぐ灯りで遠くを見渡すも、開けた地平線の上には朽ちた廃墟がまばらにあるだけだ。人影の一つでも見えれば気の張りようもあったのだが――
「ねえ、少佐」
「先の命令が聞こえなかったのか」
「いや、ちょっと気になることがあって」
怪訝な顔をした上官へ、紅葉はふと昨晩の記憶を振り返りながら告げる。
「今思ったんですけど、昨日の夜は中佐が敵をバンバン撃ってたのに、今日は一回も発砲してないですよね? こっちで敵を見かけなかったとしても、中佐の方まで静かなのはおかしくないっスか」
荒野を吹き抜ける風が凪いだ。枯草を踏む軍靴の音が止まれば、辺りは静謐の空間に支配されている。昨晩はこのタイミングでウェスカーの弾丸が放たれていた。
だが、今日は自分たちが外にいる時間と、斥候が近寄ってくる間隔の辻褄が合わない。思いつく理由を探そうとした、その時。
「――貴様らは地上をほっつき歩いているだけか? ネズミ一匹さえ見つけられない無能共め」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこには不機嫌さに輪をかけた顔の上官が立っていた。
「わっ! なんで中佐がここに? もしかして生霊っスか!?」
「……せめてもの情けだ。鉛弾と魔力弾のどちらがいいか、選ばせてやる」
「撃つのは確定なんでしょうけどどっちもイヤです!」
黒鋼の引き金に手をかけた相手を見て、紅葉は慌てて両手を挙げた。だが、見かねた牙雲に後頭部を掴まれる。
「ご無礼の数々、大変申し訳ございません。この馬鹿はちゃんと躾け直しますのでご容赦ください……しかし、ウェスカー中佐はどうしてこちらに?」
その問いにウェスカーは無言で天を見上げた。
彼の視線を追いかけると、月の周りに厚い雲が流れ出していた。拠点の周りで篝火を焚いているとはいえ、これでは遠くまで見通せない。しかも、月の輪郭は昨日よりもさらに細くなっている。
「この天候では張っていてもろくな成果が得られない。だから策を変えることにした。それと、」
そこで言葉を切ったウェスカーはその場にいた隊員をじろりと一瞥した。思わず姿勢を正すと、宵闇に浮かぶ双眸が鋭利な輝きを放つ。
「先に敵が戦の準備を始めたという報せが届いた。明朝に大一番が来る」
急報を耳にした牙雲が横で息を吞む。昨晩の件もあり、砲台の機能停止を敵に気付かれてしまったようだ。
「敵はどの程度の規模でしょうか」
「少なくとも獣共と長耳共に動きがあったという話だ。兵の数は合わせて2000程度か。人間はどうせ尻尾が掴めないだろうから含んでいない」
「それが事実であれば厳しい局面です。今動ける兵は700から800と、敵の半分にもなりません。しかも両軍の戦法は真逆で、どちらの相手に重きを置くべきかも考えなければ」
《竜のとぐろ》は装甲の厚い壁を持つが、各方面から攻撃を受ければいつまで持つか分からない。
敵対する獣人軍は機敏さと個々の突破力で断続的に接近し、半ば奇襲のように戦線を崩していく戦法を取る。一方、精霊族は長射程から一糸乱れぬ魔法や銀矢を数の限り放ってくるだろう。人数差もあるため、すべての攻撃に対する守備体制を整えるのは至難の業だ。しかし。
「ふん、この程度で臆するぐらいなら“将”など辞めてしまえ」
牙雲の懸念を一蹴すると、軍帽を被り直した上官は驚くような命令を下す。
「これから敵を迎え撃つ準備を行う。だが、明朝は俺が指示するまで勝手に動くな。それと、外敵を排除する仕事は全て俺がやる――以上だ」
口応えは聞かないとばかりに腕組みしている彼を見て、紅葉は牙雲の袖を引っ張った。
「少佐。言っちゃなんですけど、中佐のあの目はマジのヤツですよ」
「俺たちの手出しを望んでいないのは分かったが、砲台が動かない今、この人数でどうやって戦況を覆すのだろうか」
「オレ、さすがにまだ死にたくないっス」
「――状況に手をこまねいてばかりの愚図共め。大した努力もしていないくせに無駄口を叩くな!」
騒然とする部下たちの前で、ウェスカーが地面へ弾丸を放った。漆黒の双眸を金色に変えた彼は、その場にいる一人ひとりへ硝煙の立ち昇る銃口を向ける。
「貴様らは何のためにここにいる? 己の《使命》を忘れているのであれば、その足りない頭で必死に思い出せ。群れるだけで隊員一人分の働きもしない木偶の尻拭いは、俺の仕事ではない!」
吼えた上官の気迫に、紅葉だけでなく牙雲や他の隊員たちも頬へまだらに鱗を浮かべている。ただ、彼の言葉は辛辣ながらも真理をついていた。
砲台が機能停止した時も、ウェスカーは白旗を上げるとは決して口にしなかった。彼は《拠点防衛》という課せられた使命を果たすため、たった一人で昼夜を問わず任務に当たっていた。
むしろ、砲台がなければ彼が使命を果たせないと考え、勝手に不安がっていたのは自分たちの方ではないか。
「いいか。もし貴様らが真の軍人だと言うのなら、明日は俺の指示通りに動け。頭数だけが“強さ”でないことを、俺が直々に証明してやる」
闇を裂く孤高の眼光に、隊員たちは小さく頷いた。
今は一番の戦力である彼を信じ、難局を乗り越えていくしかない。圧倒的な劣勢を物ともせず、己の実力と矜持を持って戦い続けるこの上官は、先の見えない暗がりを照らす確かな《暁光》だった。