-割れた鏡面-
最初に動いたのは加勢した第六部隊の隊員たちだった。がなる咆哮を上げ、彼らは築かれた水の壁に拳を打ち付ける。精霊族がその攻撃に反応して銀矢と魔力弾を放ち始めた。
「派手にやってんな、アイツら。オレらも負けてられねぇ。正面へ行くぞッ!」
合戦の音が響く中、紅葉は時平たちと共に水鏡の覆う正面へ走った。同時に反対側から牙雲が兵を引き連れて合流する。視線を交えた二人の動きに敵はまだ気付いていない。
「時平! 一時的でもいい、その壁を薄くできるか」
「あ? んなもん全部ブッ壊すに決まってんだろ。テメェの出る幕なんざねぇよヒョロガリ!」
時平がぱきぱきと無数の鱗を顕現させる。彼は構えていた大鎚を壁面の前で振るった。黒鋼が打ち込まれたそこから水圧が弾け、白い飛沫が周囲を夥しく濡らす。
それでも水鏡は外圧からの干渉を拒もうとしていた。しかし、波紋の浮かんだ場所を狙い、第六部隊の精鋭たちが間髪入れずに拳を叩き込む。
無数の打撃を浴び、水鏡の表面が白く波打った。さざめいた壁には攻撃が通っている。
「頃合いだ。第五部隊、撃てるだけの魔力弾をッ!」
「えっ! 魔法は反射するから危険なんじゃ」
動揺した自分に、牙雲は珍しく口の端を横に引いた。
「案ずるな。アイツに華を持たせてやるだけだ」
紅葉は唖然として目の前を見つめていた。自軍の後衛が放った魔力弾は水面に吸い込まれ、発光する球体となってこちらに吐き出される。
「牙雲テメェッ! 予定外のことしやがって……ったく、性格悪りぃヤツだな!」
反射された魔力弾が最前線に立つ時平へ高速で向かう。しかし、悪態をつきながらも彼は牙雲と同じ笑みを浮かべていた。
低い姿勢から黒鋼の鎚を構えるや、吼えた彼は迫る魔力の球体を打ち据える。鱗と筋肉に覆われたその豪腕が大きく震えた。
大鎚を支える柄がみしみしと音を立ててしなる。武器の方が壊れそうになり、思わず視線を逸らしかけた時。
「っらああぁああッ――!!」
時平が渾身の一撃を持って大鎚を振り抜いた。どぉん、という腹部に響く重低音を伴い、魔力弾が向かってきた倍の速さで打ち返される。
凄まじい速度で衝突した球体は水鏡に減り込み、端まで巨大な亀裂を走らせた。
「わっ! ヒビが入った!」
「ここまでやれば十分だろう。前衛は俺に続け!」
牙雲が蒼い裾を翻し、壊れかけた水鏡にハルバードの鉾先を突き立てる。そこへ第五部隊や水神の兵が次々に加勢し、流水に逆らって果敢に壁を崩していく。
ハルバードを押し込む上官の横で、紅葉も真紅の拳を振るった。全身を濡らす水流の奥に、確かな手応えを感じる。
「突破するぞッ!」
指揮官の咆哮に呼応して、後ろの兵たちも士気を上げる。頬へ水圧を浴びながらも、ハルバードの柄を握った紅葉は、牙雲と共にそれを勢いよく押し込んだ。
鈍色の矛先が通る。その一点から視界を覆っていた水面が割れる。水鏡の奥でネフライトが翠碧の瞳を見張った。
「まさかこの陣が破られるとは。だが、貴殿らを討つ策は既に揃っている」
白銀の矢が向けられる。隙間なく組まれた隊列は、全ての死角をことごとく潰していた。
「全軍、射出用意!」
ネフライトの号令に、紅葉は赤い鱗の腕を上げようとした。だが、ハルバードを振りかざした牙雲が兵を先導する。
「怯むなッ! 進め!」
つがえられた銀矢に纏いついているのは、鋭利な輝きを放つ風の魔力だ。
精霊族の矢の恐ろしさは、魔力を乗せても元の形を保っていることだ。矢を介した魔法の射出速度は回避が至難の業だった。しかも、刺突の威力は時平たちの鱗さえ貫通する。
自軍は突破口を開くことに力を割いていて、攻撃を防げる余力がない。全ての可能性を天秤に掛けた結果、牙雲は危険を承知で進軍を指示したのだ。
だが、敵は蒼い群れが迫る中でも動じていない。ネフライトは後列で腕を組んだまま嘲笑を浮かべている。
「前列、俺に続いて跳べっ!」
先陣を切った将が苔むした地面を踏みしだき、窪んだぬかるみを飛び越える。隊員たちも敷かれた泥を避けて精霊族の隊列に迫った。ネフライトはそこで初めて大きな動揺を見せる。
「馬鹿な、罠を避けただと?」
「我々の動きを止めて射るつもりだったようだが、何度も同じ手は食わないぞ――そのまま畳み掛けろ!」
これ以上の妨害は無い。牙雲の号令で蒼の群れは完全に攻勢へ舵を切った。
「じゃ、そこはオレが一番乗りでッ!」
水飛沫の中で彼を追い抜くと、紅葉はそのまま高く跳躍した。迎撃態勢に入った前列に狙いを定めると、彼らを頭上から蹴り伏せる。鋭角に入った一撃は数人を弾き飛ばし、後方を巻き込んでいく。
「新入りに手柄を取られて堪るかっ!」
「おれらも行くぞ!」
自軍が士気を高揚させ、精霊族の陣を食い破ろうと迫った。狙撃を妨害された敵が後退する。本陣まで雪崩れ込む敵に向かい、翠碧の将が命を下した。
「――前列を犠牲にしても構わない! 全弾を放てッ!」
破壊の力を宿した矢が一斉に放たれる。空を裂いた矢はきりきりと不快な音を立て、烈風と共に蒼い軍服へ襲い掛かった。
殺傷能力を極限まで高めた攻撃で、膝を着く兵も多かった。だが、ハルバードを握った牙雲が頬から血を滴らせながら叫ぶ。
「敵は反動で動けない! 今だっ、行けッ!」
その咆哮に続き、隊列は再び前に走り出す。視線を交えた精霊族を殴り飛ばすと、紅葉はとうとう翠碧の魔将が立つ本陣にまで躍り出た。
「お前ッ、さっきはよくもやってくれたな!」
「浅はかなトカゲが何度来ようとも同じ話だ。立派な尻尾を巻いて逃げるといい」
その挑発に怒りを抑え切れず、紅葉はネフライトへ飛び掛かった。鱗で覆われた拳を叩きつける。突き出された剣先をかわし、胴へ蹴りを見舞った。ただ、攻撃は全て水鏡の盾に阻まれて通らない。
「こうも絡まれては面倒だ、先に片付けてやる」
「っ、くそ、!」
浮かぶ盾で身体を弾き返され、体勢を崩して転がりかける。辛うじて踏み止まると、ネフライトの剣先を腕で防いだ。
頑強な鱗が剥がれ落ちる。ひび割れた肌に血が滲んでいる。皮膚を抉られる痛みが襲ってきた。それでも相手に食い下がる。すると、後ろで矢の引き絞られる音が耳に入った。
「すぐにこの男を殺せ。でなければ、こんな奴を本陣に入れた責任を後で全員に問うぞ!」
細い剣身を振り解こうとしたが、飛燕の如く斬り返すそれに頸部を狙われる。刺突は欠けた腕の鱗を噛ませて防いだ。しかし、背面に対しては身動きが取れない。
照準が合わせられる感覚に、背筋を嫌な汗が伝う。翠碧の双眸が残酷な弧を描いて細められる。しかし。
「……っ!?」
弓を手にしていた精霊族の一陣が次々と弾き飛ばされた。吹きつける突風にネフライトは思わず顔を伏せる。
紅葉が天井に視線を移すと、広い空間を高速で過ぎる影があった。加勢しに来たのは飛翼だ。
「目障りな小鳥だ。さっさと撃ち落とせ!」
号令を受けた精霊族が一斉に上空へ矢を射出する。しかし、飛翼は身体を回転させながら矢の雨をかわし、空中を縦横無尽に駆け回った。
「全ての矢は、ぼくが受けて立ちますッ!」
煌めく天蓋から急降下した飛翼は、精霊族の隊列を割るように突進する。線になって放たれた弾幕を軽々と回避する彼の姿に、遠くから快活な笑声が響く。
「おいおい、そんなシケた速さで飛翼のヤツに当たるかっての!」
そこには黒鋼の大鎚を肩に担いだ時平の姿があった。その背にあったはずの水壁の一面は完全に崩れて無くなっている。上空にいた飛翼もそこから飛び込んできたのだ。
「つか、新入り共が最初に本陣入りかよ。他のヤツらは気合が足りねぇんじゃねぇか? ……しょうがねぇ、道を開けてやっから存分に暴れろ!」
不敵な表情で大鎚を振るった彼が、泥の罠が仕掛けられた一帯を地面ごと吹き飛ばした。
次いで、飛翼が撹乱していた精霊族の兵に猛烈な一打を叩き込む。豪腕から放たれた攻撃は直接的な打撃だけではない。広がった衝撃波が隊列ごと敵を消し去っていく。
本陣までの道が大きく開いた。陣形を戻そうとする動きを第六部隊の精鋭たちが押し留めている。水神の兵は付近の敵を切り捨て、第五部隊は矢を放つ兵を魔力弾で仕留めていく。
「紅葉ッ! 将を押さえろ、すぐに向かう!」
その檄に応えようと、紅葉はネフライトの剣先を掴んだ。敵将が赤い鱗を蹴り飛ばそうとした。狙い通りだ。咄嗟に武器を手放して、相手の片脚を抱えながら地面へ引き倒す。
「ぐっ、……! 放せっ」
「イヤだね!」
泥に塗れながらも、紅葉は敵将の身体を放さなかった。矢が飛んでくるという想定も頭にすらなかった。逃れようとしたネフライトが水鏡の盾を操り、自分を水圧で押し潰そうとする。しかし――
「同胞の仇よ、同じ死をもって償え」
ばしゃん、と激しい水飛沫の音。同時に視界で鈍色の刃が振り下ろされた。
押さえ込んでいた肉体から全ての力が抜ける。顔を上げると、翠碧の双眸を見開いたネフライトの顔と胴が切り離されている。仇の首を屠った牙雲の頬には、昂る感情に共鳴する冷めた青の鱗が浮かんでいた。
しばらくして周囲の喧騒が収まっていく。投降した精霊族たちが次々と武器をその場に置いた。元の静寂に包まれていく湿林の中。ようやく訪れた安堵感から、紅葉は血と泥で浸った地面へ四肢を投げ出した。
「へへ。やりましたね、少佐」
「お前が水鏡を引きつけていたおかげで攻撃が通った。半分はお前の功績だ」
「オレ、大したことしてないっス。がむしゃらに前に行ったら、飛翼や時平さんたちが援護してくれただけですし」
「皆、疲弊した中で良くやってくれた。この場にいる誰が欠けても成し得なかった勝利だ。水神の一族として、ドラーグドの指揮官として――いや、同じ仲間として、俺はこの場の全員に感謝している」
刃先の欠けたハルバードを突き立てると、牙雲は大地に背を預けていた自分に呟いた。
「今後の戦闘任務では、お前の起用も少しばかり考えねばならんな」
「でしょ? 今日はちゃんとしょーさの言うこと聞いたし、役にも立ったし。それに3回も死にかけるほどがんばったんで、帰ったらいっぱいご褒美ください」
「では、普段のものとは別に、お前に合わせた訓練計画を立ててやる」
「……ご褒美って、そっちかぁ」
「上からの厚意はありがたく受けろ。それが礼儀だ」
こんな時まで小言とは、本当にとんでもない上官だ。それでも不思議と悪くない気分だった。差し出された白い手を掴むと、紅葉は長く埋もれていたぬかるみを後にした。