-同胞の誓い-
「威勢が良いな。しかし、大局を見誤っているぞ」
振るわれた刃の前で、ネフライトが魔力の水壁を築き上げる。牙雲が裂いたのは水鏡の表面だけだ。異変を感じた彼が間合いを取る。青い双眸の先を追いかけた紅葉は、右手に広がる光景に息を呑んだ。
「時平さんッ! ダメだ、あのままだと呼吸ができない……!」
第六部隊の精鋭と彼らを連れた時平が、水泡の集中砲火を浴びている。彼の率いていた隊列には水神の兵が少なかった。また、牙雲から預かった第五部隊の後衛を多く抱えており、その盾になろうとしていたのだ。
時平はまだ大鎚を振るっているが、その表情はいつにも増して険しい。纏いつく水の呪縛が幾重にも増え、本来扱える武器の重量を大幅に超えているのが想像できた。
「水神の兵! 時平たちの援護を、」
「――貴殿らの守るべき将を見捨ててもいいのかい?」
号令をかけようとした牙雲を遮るように、ネフライトが細い剣先を突き出した。
咄嗟に斧の側面で胸部を庇うと、牙雲が身を翻して武器を振りかざす。だが、魔力で築かれた水鏡が刃を滑り落とした。一方、刺殺を目的としたネフライトの剣は牙雲の張った水の膜を貫通する。
初撃は軍服の裾をさらっただけだったが、牙雲はそれよりも兵の動きに焦りを見せていた。
「俺を利用して、水神の兵をここへ張り付けるのが狙いか」
「我々も女王に仕える身だ。彼らの動きを見ていればおのずと目的が分かる。私は貴殿に対する彼らの“忠誠心”を買っているよ」
「……違う。水神の兵が持っているのは忠誠などではない。共に戦う者としての尊厳だ」
「そう考えているのは高みにいる者だけだろう。従属を求められてきた者がそれに適応することは易しくない」
ネフライトの言葉通り、水神の兵はその場を離れることを躊躇っていた。牙雲を庇うためにここまで来ている以上、彼らが責務を捨てることは難しい。だが、今は時平たちの方が死地の手前にいる。
「時平はこの水源を守る仲間だ。俺の盟友を、お前たちの同胞を、このまま見殺しにするつもりか! 水神の兵であればその義を果たせ!」
将の檄に水神の兵たちはわずかに足を踏み出した。だが、牙雲の胸に突き立てられようとする剣先から、まだ視線が動いていない。
「少佐のことはオレが、ドラーグドの仲間が、代わりにちゃんと守るから! 時平さんたちのところへ行ってあげてください!」
闘志の鱗が頬へ浮かび上がる。握り締めた真紅の拳を胸に、紅葉はその場から駆け出した。踏みしだいた泥が跳ねる。牙雲と刃を交えていたネフライトに肉薄すると、咆哮と共にその懐へ潜った。
「食らえッ!」
不意を突かれた敵将は身をかわそうとした。しかし、体格で勝っていた自分が裾を掴む。力の限り引き寄せた弾みで、空いた腹部へ鋭い正拳を叩き込んだ。華奢な胴に一撃を減り込ませようとする。だが、翠碧の双眸はぎらりとした輝きを宿したままだ。
「愚かな輩め」
耳元で囁かれた嘲笑。次の瞬間には目の前が朧げな光彩に包まれる。横で青い瞳を見開いた牙雲が叫んでいるが、ごぼごぼと湧く泡が視界と聴覚を覆っていく。
「……うぅ、……っ!」
声を出そうと思った時にはもう遅かった。水泡と同じ性質を持つ水鏡が自分の顔に押し付けられている。
――呼吸ができない。足掻くほどに酸素が奪われて、苦しさだけが増していく。
だが、ここで倒れては牙雲や時平たち、そして水神の兵も助けられない。共に戦う仲間として、自分はどうしても彼らの力になりたかった。遠ざかる意識を手放すまいとした時。
「お前も同胞だろ。水神の兵は決して同胞を見捨てない」
視界に一閃が走る。抜刀された峰の煌めきが、閉じかけた瞼を再び開かせる。水を纏う刃で紅葉から水鏡を引き剥がしたのは、兄を失った分家の青年だ。
「ごほっ、……うっ、」
「敵将に一人で立ち向かうお前の覚悟、皆が見届けたぞ」
水鏡を割った刀を振るうと、青年は飛沫を地表に叩きつけた。
「今、我々の半分が右の隊列に向かった。あちらの大きな御仁にも水神の兵が助太刀しよう」
「……皆、動いてくれたんだ。なら、身体張って良かった」
肺いっぱいに空気を吸い込み、紅葉が濡れた顔を拭っていた最中。本陣の後ろへ下がったネフライトの号令が響く。
「小癪な真似を。だが、向こうは長く持つまい。あの壁のような男へ――いや、その周囲へ攻撃を集中させろ!」
精霊族が一斉に攻撃の向きを変えた。ネフライトはあえて将を討たず、隊員たちをじわじわと弱らせる。銀矢は援護に向かった水神の兵を射抜き、水の呪縛で動けなくなった第六部隊の精鋭を水泡が襲った。
精鋭の一人が腕を上げられず、死の泡の直撃を食らう。ごぼ、と酸素を求めて喘ぎながら彼は膝を着いた。横にいた時平が咄嗟に大鎚を掲げたが、裏にいた第五部隊の数人が銀矢の餌食になる。
「くそッ、卑怯な輩だ。やるならオレを狙いやがれ!」
「それだけ大きな的は外しようもない。貴殿は後回しでいいだろう」
精霊族からの攻撃が増すごとに隊列が崩れていく。後衛やそれを守る中衛も次々と数を減らしていく。
「時平、持ち堪えてくれ! すぐに行く!」
敵との戦力差を理解していた牙雲は、白い軍服に紛れたネフライトの追跡を諦めた。しかし、煉瓦色の硬質な鱗を頬に浮かべた時平は苦境の中で呻る。
「テメェの手助けなんざいらねぇよ。己の武器も持てねぇようじゃ、第六部隊の名が廃るッ!」
ぱきん、という大きな音がした。時平の肉体を覆う鱗が、軍服を突き破らんばかりに逆立っている。修羅を彷彿とさせる形相の右半面は、完全に竜と化していた。
とうに扱いきれなくなった重さの鎚を、時平は渾身の力で振りかざす。鱗と筋肉の隆起が一層激しくなる。そして。
「砕けろッ!!」
打ち下ろした黒鋼が苔むした大地の深くまで減り込む。持てる限界までの重力が叩きつけられ、揺れた地面に巨大な亀裂が走った。
地表から噴き出した泥の罠が、精霊族の白い軍服に降りかかる。視界を覆われた敵の後衛が二つに割れ、全ての攻撃が一時的に止んだ。だが、今の反動で時平自身もすぐには動けない。
「残念だが、貴殿の負けだ。さあ、水泡を放て! 将を討ち取れば褒美を弾むぞ!」
今を好機と見たネフライトが被害を逃れた兵へ命を下した。しかし、時平はにい、と口の端を横へ引く。
「はっ、バーカ。討たれんのはテメェだよ」
「何っ……!?」
魔法を操る法衣の群れから、突如として悲鳴が上がった。動揺したネフライトの頭上を一陣の風が過ぎる。
「時平少佐っ! 救出作戦が完了したので、皆さんを連れて来ました!」
木立の奥から希望の翼が蒼い軍服たちを率いて現れた。
「お待たせしやしたッ! すぐ加勢します!」
「ったく遅せぇぞ、帰ったら走り込みだからな!」
「押忍っ、少佐!!」
動乱に紛れて現れた第六部隊により、精霊族たちはなす術も無く薙ぎ倒されていく。ネフライトの軍は両翼を牙雲と時平に、後方を第六部隊に囲われていた。今の急襲で統制が無くなり、末端にまで指揮が届いていない。
「いやはや、ここまでしてやられるとは。敵ながら称賛に値する」
「褒美はテメェの首で許してやるよ――全軍かかれッ!」
時平の号令に第六部隊が咆哮を返す。残っていた精霊族は弓をつがえたが、銀矢をことごとく弾き返す装甲に戦意を喪失しかけている。
蒼い群れが精霊族の本陣を取り囲んでいた。だが、全体の消耗を狙ったネフライトの巧みな策が尾を引いている。左右の隊列は既に疲弊した状態だ。
「我々も苦しい状況だが、ここが正念場だ! お前たちも気を引き締めろ!」
先陣を切った牙雲が、水神の兵とドラーグドの皆へ檄を飛ばした。激励に頷いた紅葉は、上官と共に見え隠れする翡翠の将を追う。
「やむを得ないな。兵の数で押し切れないのであれば、私が手を出すしかあるまい」