-泥塗れの進軍-
* * *
澄んだ水面が軍靴の行進に揺らぐ。その先に広がる湿地帯では、うねる樹木の根が張り巡らされ、苔むした地面と共に足場を不安定にしていた。
湿った土の匂いに混じり、同胞の流した血潮のそれが辺りに充満している。沼地の淵に靴底を取られかけながら、紅葉は最前線へ向かう上官の後を追った。
「全軍、止まれ」
少し先で牙雲が足を止める。地面に刻まれていたのは精霊族の靴底だ。泥に呑み込まれていないので、直前にこの道を通ったのだろう。
「敵が近いぞ。警戒体制へ移行しろ」
牙雲の横顔に青い鱗が浮かび上がった。それを合図に紅葉も自らの手足を竜の鱗で覆う。しかし、その前に時平たちが進み出た。
「コソコソして無駄な神経を使うことはねぇ。敵の矢ならオレたちが全部引き受ける」
「えっ、でも精霊族の銀矢は竜人の鱗も貫通するって聞きましたよ?」
偵察の際、牙雲からは何度もその危険を注意されていた。精霊族の銀矢は特殊な製法で作られており、他軍の物と比べて格段に質が良い。また、軽さを伴いながらも矢尻は鋭利で、刺さったら抜けにくい構造になっていた。
だが、自分の心配を第六部隊の精鋭たちは一笑に付す。
「オレらの鱗をバカにすんな、第五部隊のひよっこが!」
「コイツ刺さっただけでピーピー言いそうだもんな」
「なっ、言わないっスよ!」
「心配無用だ、紅葉。オレらは鱗までがっちり鍛えてる。普通の竜人みたいに柔じゃねぇ」
「おっかしいな。鱗を鍛える方法なんて聞いたことないんスけど」
「オレが初めて考案したんだ。『鱗は殴れば強くなる』!」
「……それ、もしかして合同演習の時に時平さんがやってた腹パンのことっスか?」
「竜人にも防衛本能があるらしいって話を本で読んでな。これは毎日オレがどっかしらを殴ってりゃ、身を護るために鱗が硬くなるんじゃないかと仮定して、コイツらで試してみたんだ。そしたら本当に硬くなった」
「信じられないっス。だって、さっき陣営でケガしてた人や、亡くなった人にも矢が刺さってたし」
竜人が持つ鱗の強度に個体差があることは知っていたが、後天的にそれを硬質化できるとは初耳だ。半信半疑で時平たちの様子を眺めていた時だった。
「わっ……!」
ひゅ、と音を立て、耳の横を何かが高速で通り過ぎる。それは湿った空気を裂いて、時平の肩に突き刺さった――ように見えたのだが。
「あ? 誰だ、オレの肩を叩いたヤツは」
「違います、攻撃です! というか例の銀矢っスよ……!」
目の前でからん、と音を立てて弾き返されたのは、特殊なしつらえの銀矢だ。だが、破れた時平の軍服から覗いていたのは、流血ではなく煉瓦色のごつごつとした竜の鱗だけだった。
「やっとお出ましか。待ちくたびれたぜ」
担いでいた大鎚を振り上げると同時に、時平の背筋から両腕にかけてが倍の厚みへ膨れ上がる。筋肉と鱗を急速に隆起させた彼は、その身体を鋼の肉体へ変えた。
「テメェら、さっさと装甲固めて陣形を組め! 刺さったら死ぬようなヤツらを前に出すんじゃねぇぞ!」
「押忍っ! 時平少佐!」
号令と共に時平と精鋭たちがすばやく第五部隊の隊列を囲う。その間にも銀矢が横殴りの雨のごとく飛び交ったが、彼らの身体は全てを弾き返した。
「すげぇ、ホントに誰も傷付いてない!」
「さすがだな。第六部隊も伊達に侵攻専門を名乗るだけではないようだ……後衛、すぐに応戦しろ!」
盾になっている第六部隊の裏から、牙雲の指示で後衛が茂みの向こうへ魔力弾を放つ。鈍い音を立て、爆ぜた閃光が次々と目標へ命中した。
「うっ……!」
放った気弾に呻く声を上げ、泥の中へ細い肢体が転がる。横に吹き飛ばされてきたのは精霊族の兵士だ。
彼らは竜人と同じく長耳を持つが、男女を問わずすらりとした華奢で優美な体格をしている。人族で最も美しいとされる儚げな容貌も、戦闘とは無縁な姿に思えた。しかし。
「射抜くっ!」
視線が交錯するや、白い軍服を纏った彼女が、倒れ込んだ姿勢から即座に矢を放つ。頬の横を抜けたそれに怯んでいると、ハルバードの刃先が視界を遮った。
景色一面に鮮血が飛び散る。腕を斬り落とされた精霊族の兵が淡い色の瞳を見張った。
「くっ、死なばもろ共だ!」
隻腕で懐から小刀を抜いた彼女が牙雲の首を狙う。しかし、振り被った刃が先に相手を屠った。靴先に転がった仇の首を前に、上官が頬の返り血を拭う。
「無事か、紅葉」
「ううっ、どうにか生きてます」
「面と向かって精霊族と戦うのは初めてだったな」
「今までは遠くから見てただけなんで、こんなに狂暴だとは知りませんでした」
「彼らは自身の軍、特にそれを統括する《女王》へ忠誠を誓う気高き武人だ。元々は大人しい種族だが、殊に戦となれば先のように腕を落とされても向かってくる。見た目に惑わされると簡単に死ぬぞ」
「……ああ、これまで楽しい任務だったのに」
「お前、本当に偵察をしていたんだろうな?」
「もちろんですよ! キレイなおねーさんを合法的に見つめ放題なんスから、当然楽しいでしょ!」
「お前にまともな成果を期待した俺が馬鹿だった」
大きな溜息の後に周囲の喧騒が止んだ。近くに潜んでいた兵は一掃できたらしい。
「おい、牙雲。被害はどうだ」
「お前たちが盾になってくれたおかげで皆も無事だ。助かった」
「そいつは何よりだ」
「時平さんたち、マジで装甲ハンパ無いっスね。金属の合板でも入ってるんじゃないんスか?」
「がははっ! これだけ鍛えておけば、並みの攻撃じゃ死なねぇよ。死ななきゃその分だけ戦に出られるし、強くもなるからな」
「はいっ、時平少佐のおかげでおれらもメッチャ強くなりました!」
「おれなんか彼女もできました!」
「そこ関係なくないっスか? でもホントに彼女できるんだったら時平さんに鍛えてもらっても……って、なんで少佐はそんなに冷たい目でオレを見るんスか」
「お前の言動に呆れているだけだ。このままだと手柄も無く終わるぞ」
不純な動機に軽蔑の視線が刺さる。だが、前衛に時平たちが揃っていては活躍の出番はないかもしれない。
「せっかく来たんだし、少佐にイイとこ見せないと」
成果を出せなければまた偵察任務に逆戻りだ。真剣に敵との戦いで役割を果たせないか考えていると、不意に片足が深いぬかるみに嵌まる。
「わっ! ここ、スゴい泥で……え? あれ? 抜けないっ」
「まったく、何をやっているんだお前は」
「いや、これっ、なんか変です! 底が無いみたいな」
「大げさな。そんなはずがあるか」
紅葉が埋まったぬかるみに、牙雲がハルバードの柄を入れた。だが、そこで彼も異変を察する。
「この見た目なのに深過ぎる――これは罠だ!」
牙雲が叫んだ途端、彼らの後ろにいた隊列を割るように泥水が地面から湧き上がる。驚いた隊員たちが左右に分かれ、苔むした窪みに足を踏み入れた瞬間。
「うっ、うそだろ、抜け出せないっ」
「何だこの泥は……!」
自重で沈み込む泥に食われた蒼い軍服がそこかしこで悲鳴を上げる。狙われたのは後衛の隊員だ。
「立ち止まるな! 捕まった者をすぐに引き上げ、」
「――無駄な足掻きは止めた方がいいだろう」
淑やかな侮蔑の声が喧騒の中へ木霊する。鬱蒼とした緑の奥から、白い軍服を纏う隊列が一斉に現れた。
弓を構えた一団を率いるのは、透ける翡翠色の長い髪を持つ精霊族の将だ。その胸には宝石を散りばめた勲章が煌めいている。牙雲と時平が同時に息を呑んだ。
「あの勲章、本物なら格上じゃねぇか。マズいぞ」
「我々の軍で言えば《中佐》と同等だな」
戦況は悪い方へ振れたらしい。泥に浸かっている片脚をどうにか自力で引き抜くと、紅葉は息を切らせて牙雲へ尋ねる。
「少佐っ、どうするんスか! 後衛は動けないし、そこに矢が飛んできたら全滅ですよ」
「落ち着け。どんな困難にも必ず打開策はある」
後衛の隊員が人質に取られている状況下で、牙雲は予想に反して取り乱さなかった。深く息を吸う音。決意を秘めた青い水面が煌々と輝く。
「……これでどうだ!」
かざした斧の刃先へ牙雲が水流を纏わせる。間髪入れずに振り下ろしたそこには、自分が嵌っていたぬかるみがあった。
直後、激流が一気に泥の中へ潜っていく。次の瞬間、後衛を捕らえていた泥が間欠泉のように吹き上がった。水圧の助けを借りた隊員たちが窪みから這い上がる。湧いた水が澄み渡る頃、蒼い隊列は元の形に戻っていた。
「やはり地下で繋がっていたか」
「これはなかなか賢い将だな。そういう芽は摘んでおくに限る」
「俺の仲間を殺し、多くの血を流させたのは貴様か」
「そうだとしたら?」
「必ず償わせる。その命を持って、だ」
殺気立つ牙雲の頬へ浮かんでいた鱗に、精霊族の将がす、と翠碧の双眸を細める。
「おや、とても綺麗な鱗だ。先に集めた物よりも深い色をしている。良かったらいくつか私にくれないか? さすれば捕虜として貴殿を厚遇してもいい」
「断る。貴様にくれてやる義理はない」
「そうか、残念だ。では――帝国聖騎士団 《エトワール》第四師団、師団長のネフライトが命ずる。あの青い鱗の将を生け捕りにせよ。あれを一枚ずつ肌から引き剥がし、我が女王の御身に纏う飾りとして献上しようではないか」