-水神池-
* * *
「ここが噂に聞いた《水神池》か」
目の前に浮かぶ広大な水面を見て、紅葉は思わず瞳を見張った。
その名に冠された池とは名ばかりで、湖だと言っても差し支えない。淵からは清く澄んだ透明な水が湧き出ており、周囲の緑豊かな大地と相まって、見ているだけで心が洗われるようだ。
しかし、清廉な湖畔に刻まれていたのは、戦火に巻き込まれた民とそれを守る義勇兵たちの壮絶な戦の爪痕だった。
「……お父さんっ! いやだっ、死んじゃダメだよ!」
「止めなさい。お父さんは、私たちのために命を懸けたのだから」
「でもっ……まだ、生きてるよっ! お父さん、死んでないのにっ」
嗚咽交じりに叫ぶ少女の声。その前には集落の民と思しき男が、真紅に染まった身体を地面に横たえている。辛うじて呼吸はあるが、もう誰が見ても助からない傷だった。
「そんな顔したらお父さんが悲しむよ。落ち着いて、いい子だからさ」
「う、えぐっ、……お、とうさんっ、」
あまりに悲痛な慟哭に耐え切れず、振り返った紅葉はつい手を差し伸べた。泣き叫ぶ彼女を宥めながら、ここへ辿り着く前の記憶を思い返す。
――偵察を終えた飛翼が戻って来た後。各部隊は行軍を進め、水神池の本陣にまで到着した。だが、一人で事態の全容を見てきた幼馴染はひどく青ざめた顔をしていた。
敵の本陣を見て回った彼は、この陣営付近にも降りて状況を確認したらしい。話によれば、ここで陣を敷く兵は近隣の集落に住まう分家の者で、彼らは極限状態で敵の侵攻を阻止していた。
「――全身に敵の矢を受けて負傷した兵がいる! 誰か、手当を頼む! おれの兄なんだっ!」
少女を慰める傍らで、幾本もの銀矢が突き刺さった兄弟を抱える青年が助けを求めている。彼らは先に出会った水神の兵と同じ紺の着物を纏っていた。しかし、混乱する陣内でその叫びは空しく一蹴される。
「駄目だ、医術の心得がある者が足りていない。この出血ではどのみち助からないだろう」
「そんな……兄貴は、皆のために戦ったのに!」
「これは分家の者の宿命だ。弔いは戦の後にしろ」
結局、青年は兄が息絶える様をその場で静かに看取っていた。絶望を露わにした彼の背中には、もう声をかけることさえできなかった。
「紅葉、何をしている」
泣き崩れる民に寄り添っていると、上官に声をかけられる。動乱の中でも牙雲は毅然とした佇まいを保ったままだ。だが、その口元だけはひどく歪められている。
「今、第五部隊と第六部隊の一部に対して、民間人を拠点側へ避難させるように伝えた。掃討作戦を実行する我々の部隊が前線の穴を埋める分、分家の者も協力して護衛を行ってくれるそうだ。救出作戦の指揮は土地勘のある彼らに任せたから、お前もそこの支援に向かえ」
「でも」
「先にも言ったが、前衛は時平の部隊で足りている。お前がわざわざ危険な場所へ出る必要はない」
加勢する時平の部隊はもう本陣に配置済みだ。時平自身は救出作戦を担う隊員の指示でまだ近くに残っているが、それが終われば自ら最前線で武器を振るう。また、伝令役の腕を買われた飛翼もこの場に残るという。そんな中で、自分は本当にここを離れてもいいのだろうか。
「紅葉。気持ちは理解するが、俺はお前の身を守るために」
ああ、いつものズルい理由だ。渋っている自分に向けた台詞へ反発しようとした時だった。
「牙雲様! どうしてこんな場所にいらっしゃるのですか!」
後ろから水神池の守り手である分家の数人がこちらへ駆け寄って来る。彼らは牙雲の前で跪くと口々に述べた。
「ここは危険です。宗家の皆さんは避難しましたので、早く安全な場所へお逃げください」
「もしも戦火に巻き込まれたら、我々は立つ瀬がありません」
「皆、貴方様の命を守ろうと必死なのです。ここにいてはなりませんぞ」
「お前たちは、どうしても俺をここから退かせたいんだな」
牙雲はハルバードの柄を指の骨が浮き出るまで握り締めていた。自分には今の彼の気持ちが深く理解できる。
「――少佐だってここを守ろうとしてる仲間なのに。牙雲少佐が皆と戦っちゃいけない理由が、どこにあるんですか!」
上官の身体を押し退けると、紅葉は彼らの前に進み出た。牙雲にあらゆる立場があることはわかっている。だが、この戦に赴いた彼自身の覚悟や義侠心は、誰にも踏みにじられるべきではない。
「少佐やオレたちはココを守るために来たんスよ。土地だけじゃない、取り残された人や、今も前で戦ってる人、それにアンタたちを心配して来た。なのに一方的に逃げろだなんて!
家の決まりだか何だか知りませんけど、オレはそういうのズルいって思います。少佐もアンタたちも、同じ目的を持ってる仲間でしょ? 協力して戦うことの何がいけないんですか!」
その場へ集まって来た分家の者たちは、自分の問いに答えられなかった。しかし――
「お前はわかってない。そこにいる宗家の一人息子のために、どれだけの命が犠牲になったと思ってるんだ」
どこからか低い声が響く。振り返ると、掌を夥しい血で染めた青年が憤怒の表情を見せていた。
先に兄を失ったばかりの彼は、自らも四肢に傷を負っていた。だが、ふらつきながらやってきた彼は、自分の胸倉を凄まじい力で掴む。
「お前の後ろにいるコイツのせいで、おれの兄貴は死んだ」
「なっ、何を言ってるんスか。だってその人が死んだのは敵の攻撃で、少佐は何も」
「おれたちはコイツのせいで危険な戦に駆り出された。だからコイツが殺したも同然だッ!」
青年の持つ淡い水面は牙雲へ向けた憎悪で満ちていた。上官はその瞳を一身に受けたまま、今も沈黙を貫いている。相手の剣幕に先を言い淀むと、青年は勢いに任せてまくし立てた。
「これまでは敵襲があるたびに、宗家も前に赴いて我々と共に戦ってきた。宗家にも戦へ赴く子息が多くいたからだ。だから皆も納得し、一族の掟としてここを守り続けてきた。だが、今は嫡子が一人しかできなかったからと、いつしか血を継ぐことばかり考えて、前に出なくなった。代わりに犠牲になったのは分家のおれたちだ。望む、望まないに関わらず、おれたちはコイツを守るために危険な戦に出ざるを得なくなった。
――同じ命なのにっ、おれの兄貴とコイツの何が違うって言うんだ! わかるならお前が説明してみろよ!」
「やめなさい! 牙雲様の前で、軍の方にそんな狼藉を」
分家の者たちは慌てて青年を紅葉から引き剥がした。だが、彼は押さえつけられてもなお、牙雲を責め立てる。
「不敬で首を落とされても構うもんか。宗家の奴らは、分家を何だと思っている? どうせ取るに足らない命だと考えているんだろ。でなければ、皆が身を挺して庇ってきたその身体を易々と軍に置くような真似はできない。一族の責を弁えないまま、コイツは分家の命を無下にしている血も涙もないヤツだ!」
「……言い過ぎだっ! 牙雲少佐はそんな人じゃないッ!」
激昂している青年と同じ熱量を持ったまま、紅葉はその場で吼えた。牙雲の挺身により命を取り留めていた自分にとって、青年の言動は彼を侮辱されたに等しい。
いやに心拍数が上がっている。喧騒に包まれていた陣営内が一瞬だけ全ての音を消す。紅葉は青年に向かって自身の想いを吐き出そうとした。だが、感情のあまりに喉がつかえて声にならない。
すると、長く強張らせていた自分の肩を雪色の掌が掴んだ。
「家の事に巻き込んで悪かった。後は俺が話をつける」