-言葉なき抵抗-
* * *
「――澪、来るのが遅かったね。しかも大層な“荷物”を抱えてきたようだが」
翠の瞳が床へ膝を着いた自分を見据える。疲労で霞がかっていた思考が冴えていったのは、嫌な緊張のせいだろう。別の兵から呼び止められた澪が、自分を伴って楼玄の元へ訪れるとは思っていなかった。居心地の悪さに身じろいでいると、面を外していた相手の前で澪がやっと口を開いた。
「人質に狼藉を働いた者がおり、片付けを終えるまで居場所を移していました。ただ、先に声がかかったので、やむなく連れてきた次第です」
「そこまでして監視につくとは、お前も律儀なものだ。上官だった彼には恩義があるのかな」
「丁重に扱えという指示でしたので。ただ、このまま人質の身柄を他の看守に預けていれば、交渉に差し支えるかもしれません」
「ふむ。怪我の程度も大きかったし、弱っているのは事実か。これ以上の時間を置けば、お前の言う通り難癖をつけられかねないところだったよ」
どこか上機嫌な声音に、しばらく項垂れていた澪が顔を上げる。
「それで、ご用件は?」
「ああ、実は水神家の使者がここまでやってくるという報せが少し前にあってね。その対応を頼むつもりだった」
「条件に関するやり取りでしょうか」
「その前に人質の顔を見せろと言われていたんだ。彼らからの信用も必要だから、使者と会わせることは承諾した」
牙雲は後ろ手に縛られた掌を握り締めた。ようやく好機が巡ってきた。この機会に家の者が早まらないように説得できる。
「ただ、彼らの前で《水神家の子息》にみすぼらしい格好をさせておくのは憚られるな。拘束は最低限に留め、これから身支度を整えてもらおう」
「……抵抗されないとも限りませんが」
「だからこそ、何かあっても抑え込めるお前を呼んだ。とはいえ、彼自身も場を弁えているだろう?」
念押しに見せかけた脅迫に、牙雲はしばらく押し黙った。楼玄に近い澪の前であまり不用意な発言はできない。
「民間人が武力に敵うものか。それを言うなら、お前たちが無事に家の者を帰すつもりがあるのかと疑っているぐらいだ」
「ふふ、さすがに使者を害したりはしないさ。では、準備を進めてくれ」
「待て」
不躾な物言いに澪が鎖を引こうとする。しかし、楼玄がそれを掌で制した。
「水神家との面会は“正装”で臨みたい」
その要求に翠眼がぎらりと光る。睨み返せば、相手は小さく笑みを浮かべた。
「澪、彼に軍服を返してあげなさい」
「ですが、」
「いいんだ。久しぶりに気骨のある者を見た礼とでも言っておこうか。《少佐》の牙雲殿」
退出を促されてからも、内心では持ち掛けられた話を決めかねている節はあった。ただ、交渉における己の立場を示せたのならそれでいい。
「まだ諦めていないという顔ですね」
澪の呟きには何も返さず、牙雲は薄暗い廊下へと足を踏み出した。
* * *
「牙雲様! よくぞ、よくぞご無事で……!」
床に額付いている家からの遣いに牙雲は手を差し伸べた。外部の者と近い距離で触れているのにも関わらず、見張りについた澪は壁際から動かない。この程度は黙認しているのだろう。
「お目通りが叶って何よりです。当主も奥方も貴方様を案じておられます」
「すまない。俺が至らぬせいで心配ばかりかけてしまったな」
「そのお姿では酷い怪我もされたのでしょう」
「正式な場で身につけられる物がこれしかなかっただけだ。手当てはされているから問題ない」
数多の血を滲ませ、引き裂かれた蒼い裾が床へ広がる。見てくれだけ整えられ、やつれた様を押し隠す容姿とは裏腹に、血生臭い戦場を彷彿とさせる軍服は不釣り合いに映るだろう。
「面会の時間は限られている。まずは俺についてのやり取りがどうなっているのかを聞きたい」
「貴方様が捕らえられたと報せがあってから一週間ほどが経ちますが、依然としてドラーグド側が動くとの連絡は来ていません」
「理由は明かされていないのか」
「はい。いくらか条件の提示はあったものの、軍が表立って交渉を行うという話はありませんでした。代わりに、当主は貴方様が戻るなら何でも差し出すとおっしゃっています」
使者の話を聞き、つい眉間に皺を寄せる。水神家と協力関係にある軍が、彼らの要求を理由なく退けることはない。水面下で重大な機密に関わるやりとりが動いているはずだ。
――機密と言えば、飆の討伐は一体どうなったのだろうか。
「それと、外の様子はどうだ。この時期に家の周囲で戦闘が起きたら、危機的な状況になるのではないかと案じている」
「中央区画で休戦協定が結ばれたという話は風の便りで聞いております。また、家の周りでも目立った戦はないため、その点は問題ありません。貴方様の救出に全力を注ぐ所存です」
言葉を選びながら探った状況に、軍人としての勘が訴える。スマイリーは襲撃の際に『飆の討伐に乗じて、ノーバディの本拠地を討つ予定だった』と言っていた。ただ、仮に主力部隊がノーバディを制圧している間、中央区画に飆が現れたら対応に苦慮するだろう。無差別に人族を殺傷するような存在が、まさか襲撃の時期を調整するはずがない。
――いや、発想が逆だ。飆の出現時期を握っていたからこそ、スマイリーはあの計画を実行に移した。それなら彼の思惑に気付いた楼玄が本部へ出向いた理由にもなる。敵が引き出したいのは飆の動向や居所に関する情報だ。その前提なら、楼玄は不用意に自分を殺さず、揺さぶりをかけ続ける。そして、もし水神家が折れたらそれを足がかりに要求の拡大を続けていくはずだ。スマイリーが出てくるまで同じことが繰り返されるだけでしかない。
この段階では水神家とノーバディとの交渉を長引かせることが最適解だろう。楼玄の思惑を潰す手立てを取る時間を軍に与えれば、自分や水神家、ひいては竜人たちを守るための策につながる。
「……!」
突然、忙しなく扉を叩く音が室内へ響いた。澪は無視を決め込もうとしていたが、呼び出しは一向に止まない。使者が不安げに自分へ目配せをしている。
「すぐに戻ります。施錠しますが、くれぐれも疑われるような真似はしないでください」
壁際で佇んでいた澪がやっと声を上げた。図られているのかもしれないと考える程の幸運。ならば、このまま賭けに出るのも悪くない。監視の目が消えると、牙雲は急いで先を続けた。
「一つ意見を聞きたい。水神家を守るため、仮に俺が奴らの要求を呑めと言えば、お前たちは受け入れるつもりか」
「当然です。ただ、その選択が正しいのかと言えば、私めにもいくらか思うところがございます」
血染めの軍服を見た使者の表情が陰る。後ろ盾となる軍と袂を分かつ選択を、彼らも不本意だと思っているのならば。
「……見ての通り、俺はまだ軍に籍を置いている。お前たちに対する情はあれど、ドラーグドは第二の家だ。俺の身柄のことだけを切り取れば薄情に思えるかもしれないが、軍にも事情があるのだろう。彼らは広く民を守るために力を尽くしている。今は彼らの判断を信じたいと、父上にも伝えてくれないか」
「ご意向は理解しました。しかし、皆が納得するかどうかまでは分かりません」
「軍はお前たちとの協力を望んでいる。本当に俺を見捨てるつもりなら、便りなど来ないはずだ。敵はこれから俺の身柄を使って当主へ圧をかけてくるだろう。ただ、今はどんな話を出されてもすぐには応じるな。できるだけ時間を稼ぐことがドラーグドと我々の有利につながる」
「私めは貴方様の言葉を信じております。ですが、この件で双方に大きな溝ができているのもまた事実。貴方様の命を優先する我々の独断を、軍も快くは思っていないでしょう。軍の助けが無い中で、もしも貴方様に万が一のことがあり、さらに水神池まで失うとなれば、郷の者は生きる意味を奪われたも同然です」
「そんなことは分かっている。だからこそ冷静になるよう、皆を説得してほしい。可能性がある限りは全員で破滅の道を歩むべきではない。人命のためなら水神池は捨てて逃げろ。嫡子が当主を継ぐという掟を破ることになっても、まずはお前たちの命を優先すべきだ。軍がいれば土地や水源はいつか取り返せる。だが、失った命だけは戻らない。なぜ俺がドラーグドに行ったのかを思い出してくれ」
「……そこまでおっしゃるのなら、当主にもそのように伝えます」
「ああ、感謝する。それと、最悪の事態があった時に、必ずお前たちへ手を貸してくれる者が軍にいる。その者にも伝言を届けてほしい。不躾な頼みとなるが、俺が亡き後はお前たちや水神池を共に守ってくれるように、と」
「承知しました。その方の名は?」
「――紅葉という男だ。目をかけていた部下で、俺が軍に入った理由も知っている。もし彼が生きているのならば、ドラーグド側に掛け合ってくれるだろう」
「今のお言葉、必ずや紅葉殿へ届けます」
頷いた使者の後ろで扉が開く。しかし、戻ってきた監視役にふと違和感を覚えた。背格好が明らかに澪とは違う。
「面会は終了だ。使者は案内役が来るまでここで待て。お前はこちらへ来い」
「牙雲様。すぐに迎えに参りますので、それまでご辛抱ください」
深く頭を下げた使者の前で、監視役が首輪に取り付けた鎖を引く。家に対してはできるだけのことをやった。後は天命を待つだけだ。ただ、数分のうちに姿を消した澪のことは大きな気がかりだった。
「おい、どこへ向かっている」
前を歩く相手は一言もしゃべらない。元の独房がある階層を通り過ぎたことに気付き、嫌な動悸が続いていた。逃れる策はないかと周囲を見渡していた時。大きな鉄扉の前でぱたりと足音が止まった。




