-踏みにじられた矜持-
* * *
「飯の時間だ」
四肢に絡む鎖がざらりと鳴く。床に置かれた質素な膳を前に、牙雲は身を起こした。食事と監視役の交代だけが、窓のない独房で時間感覚を取り戻す数少ない機会だ。
数えが正しければ、楼玄に交渉を持ち掛けられてから三日は経っていた。他の捕虜たちとも引き離され、完全に外部との接触が断たれている。服以外で与えられたのは、古い毛布と手足の枷。そして――身内からの手紙だけ。
『牙雲よ、お前を守れなかったことを後悔している。この至らぬ父と母を許してくれ。家に置いていれば、決してこのような目に遭わせなかったのに』
『どのような困難があろうとも、水神家が必ずやお助けします。牙雲様、どうかもう少しだけご辛抱ください』
渡された中身にはノーバディを刺激する内容こそ無かったものの、筆を取った者たちの怒りが端々に感じられた。楼玄の予言通り、状況は悪い方向へ傾いている。
そして、その焦燥は己の肉体をも蝕んでいた。自由を奪われ、身を横たえている時間が長くなってきた。傷は定期的に手当されているが、枷で擦れる場所が特に痛む。ここ数日は意識が勝手に落ちることも少なくない。
「オレらの分け前をくれてやってんのに。下げちまうぞ」
皿の前で打開策を考え込んでいると、監視役が苛立った声を上げた。不機嫌な相手は獣人だろうか。食事から見張りの交代まではまだかかる。刺激するのは得策ではない。枷のついた腕で仕方なく食器を手にしようとした時だった。
「……ッ!」
「オイオイ、何をお上品に食おうとしてんだよ」
鋭い爪の生えた掌に頭を押さえつけられる。睨めばさらに負荷がかかった。完治していない腕には力が入らない。
「はっ! “犬”らしくていいザマじゃねぇか」
いよいよ捕虜らしい扱いになってきた。感情を押し殺し、這いつくばりながら皿に載った物を食らう。この程度のことは予期していた。それでも込み上げてくる惨めさはやはり耐え難い。
「喉も乾いてるだろ? 水もあるぞ」
「っ、」
「ぴちゃぴちゃと音なんかさせて行儀悪りぃな。まあ、畜生に言っても仕方ねぇか。オレが位持ちだったなら、こんな扱いされた時点で喉でも掻っ切って死んでやるけどよ」
当然、自害という手も何度か思考を過った。だが、自分が戻って来ないと分かった時点で、水神家は間違いなく報復に動く。誇りや矜持で人を救えるなら良かった。しかし、この命すら争いの道具として使われているのが現実だ。
「……己の都合しか考えられぬ者に、俺の立場が分かるものか」
「保身すらできねぇヤツがナメた口利いてんじゃねぇ!」
がしゃん、と派手な音を立てて食事が撒き散らされる。踏みにじられたのは皿の上にあるものだけではない。
「――ぐっ、!」
「そら、犬にも食いやすくしてやったぞ。ロクに飯ももらえねぇようなヤツだっているんだ。ワガママ言っちゃダメだぜ」
汚れた靴先が頬を小突く。拒めば唇をこじ開けられた。ああ、誰が見ても無様なものだ。唯一の救いはこうした辱めを他に見られていないことか。
「ぎゃはは! テメェ将校なんだろ? そのくせに地べた這いずりながら、喜んで敵の靴なんか舐めてやがる。こいつは傑作だ!」
下卑た嘲笑が静まり返った部屋を埋め尽くす。なめし革へ触れる舌を噛み切りたい衝動に駆られた。高潔さはこの身を守るのに何の役にも立たない。牙を抜かれ、爪も鱗も剥がされた竜は、他者から踏みつけにされるだけだ。
「あーあ、テメェらに殺された仲間に今のザマを見せてやれないのが残念だなァ……ちっ、休んでねぇでちゃんと舐めやがれ! 床もキレイにするまでツラは上げさせねぇぞ」
何度も濡れた床へ頬を押しつけられ、逆立った鱗が肌を刺す。脳裏に浮かぶ無数の命が抵抗という選択肢を奪っていく。いくら屈辱を抱いても、この拳が決して届かないと分かっているのに。
「――余計な手は出すなと、あれだけ忠告しただろ」
手折られた矜持が、瞳の縁から溢れかけた時。近付いてきた靴音に大柄な体躯が引き剥がされる。弾みで投げ出され、牙雲はむせながらその場に蹲った。頭上では仮面越しのくぐもった口論が遠巻きに続く。
「うるせぇな、ちょっとぐらい痛めつけたってお咎めなんかねぇよ。コイツに何人殺されてきたのか、お前も知ってんだろ」
「それを言うなら、多くの犠牲を払ってこの人質を連れてきた目的を忘れるな。作戦が失敗したらどう償うつもりだ」
「こんな輩に情が湧いちまうなんてなぁ。トカゲ同士だから憐みでもしたんじゃ……ッが!?」
鈍い音と同時に喧騒が止んだ。だが、長く伏せさせられて強張った肉体がうまく動かない。どうせ汚れた床ごと水でもかけられて起きる羽目になる。目の前で起きたことでさえ、今の自分には現実を直視する気力がなかった。
「起きてください、牙雲少佐」
淡々とした声音がすっと耳の奥を抜ける。その呼び名に瞳を開けば、床には黒い軍靴が佇んでいた。
「澪、か」
自分をいたぶっていた看守は靴先の横で伏したまま、ぴくりともしない。ひしゃげた面の隙間からは血が流れている。その視線に気付いた澪が吐き捨てるように告げた。
「いくら下賤な輩でも、頭数なので殺しはしません。ただ、命令を破った罰は与えます。後でこの者に掃除させますので、それまでは別の部屋に」
「……俺も恨みの一つや二つは買っている。丁重に扱えなどと言う方が無理な話だ。次の看守にはきっと毒でも盛られるだろうな」
「ならば、今後はおれがあなたを見張るようにします」
「閉じ込めたくせに、今更になって俺を案じているとでも?」
「こうして接するのは命令だからです」
「それなら放っておけばいい。お前が止めたところで、また同じ目に遭うだけだ」
「力なき者は全てからこうして足蹴にされる――でも、あなたは強いはず。それなのに下等な存在からこんな扱いを受けて、ただ耐えるだけなんて。将校ならば多少の抵抗ぐらいしたらどうなのですか」
「踏みにじられたのは俺なのに、どうしてお前が憤る」
「……そう、か。おれがこれまで抱えていた物は、憤りだったのかもしれません」
白磁の面の裏でわずかに言葉を詰まらせた相手が、思考を拾い集めるようにして先を紡ぐ。
「以前、聖大佐から『あなたの若い頃に似ている』と言われたことがありました。おれはそれがとても嬉しかった。あなたはおれが欲しかったものを全て持っている。強さも、優しさも、誇り高さも。だからこそ、第一に超えるべき相手だと思っていたのに。目指してきたものがこの程度だったのかという失望――そして、今の己ではそれすら超えられないのかと思うと、おれは自分が許せない」
これは単なる逆恨みだと、彼は乾いた声で笑った。いや、笑いという表現もきっと間違っている。引き攣った不自然な声音は、感情そのものを忘れてしまった雑音でしかない。
「幼い頃に目の前で姉を殺された時、無力は罪だと思い知った。だから、おれは強くなるためにズルをしました」
「《覚醒》ができたのは、そのせいか」
「そうです。以前は魔力を扱うこともできませんでした。でも、力の必要性を理解していたからこそ、誰よりも必死になってそれを求めたのです。それでも頂に立たない限り、あの日の悪夢から解放されることはない。いつ彼女のように嬲り殺されるのかと、おれは常に怯えている」
澪はドラーグドに入る前から楼玄に加担して能力を得ていた。そのために彼が刺客だとは誰も気付けなかったのだ。同時に思う。もし、彼のような存在がどこかに潜んでいるのだとしたら――どうやって救えばいいのかと。
「このまま争いが止まらなければ、必ず誰かに踏みつけにされる。おれが“おれ”のまま生きるためには、もう時間がない。こうした弱者の苦しみは、決してあなたには分からないでしょう」
「……弱さを自覚しているからこそ、俺も力を得ようと足掻いてきた。この手で多くを救おうと、己の持つ全てを投じてきた。それでも届かず、奪い去られていく口惜しさも知っている。だから、お前が力に縋りつく思いも理解しているつもりだ」
「弱者面しないでもらえますか。望んだ力を自らの手で掴もうなどと考えられるのは、あなたが恵まれているからだ。おれのように資格さえない者は、夢を見ることすら叶わない。だから、自分の手で真っ当に強くなったあなたを、おれは認めたくなかったッ!」
咆哮と共に澪が白磁の面を床に叩きつけた。直後、彼の動きがふつりと止まる。激情を見せながらも、覗いた群青は虚ろに染まっていた。唐突な静止は紅葉や天音が言っていた彼の異変と合致する。感情を昂らせた瞬間に、何かの力で情緒を抑え込まれているのだろう。
「……少し、取り乱しました。片付けが終わるまで、こちらへどうぞ」
しばらく石像と化していた相手が、何事もなかったかのように転がった白磁の面を拾い上げた。つながっている鎖を軽く引かれ、牙雲は柄にもなくそれに従った。
なぜなら、彼の頬には殴打の跡が刻まれていたからだ。薄暗い廊下を歩きながら思う。先の看守と同じように、彼は何かしらの罪を犯したらしい。
「おれが呼ぶまで待っていてください。もし勝手な行動をすれば、」
「言わずとも分かっている。俺もそこまで愚かではない」
こく、と澪が頷いた。促された入ったそこは倉庫のような場所だ。閉じた扉の外から鍵がかけられる。監視の目が外れた途端、身体がその場へ崩れ落ちる。
「くそ、まともに立てもしないとは」
衰弱していく心身が恨めしい。傷ついた手足の痛みは癒えないままだ。たとえ解放されても、戦えなければ行きつく先は檻の中と変わらない。役割を果たせないまま生かされていることに、何の意味があるのだろうか。
『貴殿は自分が真にやるべきことだけを考えたまえ』
ここで自分が折れれば、少なくとも水神家は存続できる。並んだその札は残された可能性の一つだった。澪の言っていた通り、力なき者に選択肢は与えられない。それならば、手の届く物を選ぶというのも致し方ないのか。
『オレは、オレが正しいと思う方法で、少佐やみんなを救いたいんです』
今は遠く離れた場所にいる部下の言葉が脳裏へ蘇る。身内か仲間のどちらかを救ったところで、自分は救えなかった立場を必ず悔やむだろう。
「生きている限り、自ら納得のいく選択を探し出せ――お前がそう言うのならば、俺も応えるべきだな」
初めから結論は出ていた。悔やみたくなければ、双方を救う策を捻り出すしかない。自身が築いてきた軍からの信頼と、送り出してくれた身内の気持ちに応えるために、己が何をすべきかを。
扉越しに行き交う軍靴の足音を耳にしながら、牙雲は抱えた膝にしばらく額を押し付けていた。




