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蒼い背中  作者: kagedo
EP.8 本部急襲編
149/160

-根比べ-

「牙雲くん!」


 曇りかけた視界が晴れる。蒼く燃え盛る炎の勢いが弱まっていく。暴力的な冷気が、いつの間にか包み込むような質感に変わった。冷たくなった身体へ寄り添う相手に、牙雲は瞬きを返した。


「……天音、さん……」

「ずっと守ってくれてありがとう。一人で辛い思いをさせたわね」


 生成りの鱗を頬に浮かべた彼女が静かに告げた。温もりに溢れた白い光が、凍えていた体に一片の羽根のごとく舞い落ちる。その背からは竪琴のような翼が広がっていた。皮膜を震わせながら奏でられる調べで、内側から湧き上がる穏やかな熱が戻ってくる。


「牙雲くんが必死で立ち向かっている音には気付いてたわ。でも、途中まで怖くてずっと動けなかった。アタシがいても何もできない、誰にもこの歌は届かないんだって。だけど、牙雲くんと同じように、アタシも大切な仲間を失いたくない」


 その視線の先には、音の障壁に氷刃を突きつけている澪がいた。わずかに眉根を寄せているところから、《覚醒》した天音の力が一時的に彼の攻撃を凌いだのだろう。


「澪はどうしてアタシたちを襲ってきたの?」

「深くは分かりませんが、彼はノーバディに加担していたようです」

「……そう。この襲撃が起きる前から様子がおかしかったのも、悩みがあるのにアタシや紅葉に何も話してくれなかったのも、そういう事情だったのね」


 以前、紅葉からも彼の様子に異変があったと聞いた。淡く虹彩の色を変えた彼女は、いち早く悪い予兆を感じ取っていたらしい。


「それと、彼が魔法を発動させる度にずっと変な音が聞こえるの。その音に引きずられておかしくなっているみたい。姿形は澪なのに、今はまるで彼の物とは思えない音ばかりだわ」

「その話が事実なら、《覚醒》で大きな心理的負荷をかけ続けるのは危険です」

「少しだけ彼と話をさせて。今ならまだアタシの『声』が届くかも」


 羽毛の生えた手が肩に触れる。武器を構えかけた自分を下げると、天音が口を開いた。


「澪、アタシたちはアナタとは争いたくない。だってアナタは優しい子だもの。ホントは望んでいないのに、どうしてこんなことをするの?」

「……まだ《覚醒》ができるとは、完全に見誤りました。とうに心が壊れたと思っていたのですが」

「壊れかけているのはアナタの方よ。牙雲くんがここに来るまで、アナタの音はずっと苦しがっていたじゃない」


 群青の瞳が見開かれる。腕の炎がふつ、と勢いを弱めた。息を呑んだ相手に確信する。一瞬だったが、制止を望む声が届いたのだ。


「でも、今はそれすら消えてしまうぐらいに小さくなってる。ねえ、アナタ自身の音はどこに消えてしまったの? どうしたら取り戻せるの?」

「干渉しないでください。その声は耳障りです」

「耳障りだということは、まだ『聞く耳』を持っているのね」

「……!」

「ほんのわずかだけど、アナタの音が反応してる。アタシも牙雲くんも、アナタを個人として助けたいだけ。事情があるならちゃんと聞くわ。だから、お願い。まずは矛を収めて」


 長い沈黙だった。腕を覆う蒼い焔が大きく揺らぐ。天音が祈るように手を組んでいた。竪琴の音色が震えている。すると、俯いていた双眸がようやく彼女に目を留めた。


「これだから、あなたには必要以上に近付きたくなかった。深くまで触れなければ、目を瞑るつもりでしたが――このまま軍人として生かしていれば、今後の災いになる」


 澪の瞳から淀んだ光が放たれる。無を貫く表情に反し、魔力の出力が一段と強まった。蒼炎がごう、と激しく燃え上がる。だが、天音は何かを聞き取ろうと集中している。


「させるかッ!」


 凍結した音の膜に大きな亀裂が入った。漏れた隙間から尖った冷気が拡散する。これ以上は危険だ。抉じ開けようと突き立てられた氷刃を見て、牙雲は前に出た。安息の音色を振り払い、ハルバードで刺突を受ける。一撃が重い。受けた凍傷がかなり響いている。


「っ、俺も、あまり長くは持たないな」


 大きく薙ぎ払い、壊れた音の揺り籠から相手を引き剥がす。鈍色を握る鱗の手がまた凍りそうなほどに冷たくなっていた。だが、次の瞬間には氷杭が視界を埋める。身体を掠めた数発は、水槍で撃ち落とした。


「天音さん、鎮静剤はまだありますか」

「残念だけど、手持ちは使い切ったわ」


 最悪の状況で迫られた選択。いや、どの札を引いたところで、取るべき一手は決まっていた。


「であれば、すぐに高揚の歌をお願いします」

「でも、牙雲くんだって傷が、」

「このままでは誰かが命を落とします。天音さんの呼びかけでさえ効果がなかった以上、彼を止めるには実力行使しかありません」


 天音の歌は苦痛を和らげるために痛覚を麻痺させているだけだ。そして、既に精神を大きく摩耗している彼女自身の《覚醒》も、いつ解けてしまうかわからない。限られた時間の中で、皆が共に生き残るための選択をしたかった。


「この歌は下手をすれば澪も刺激してしまう危険もある。だから、歌うのは牙雲くんの《覚醒》が安定するまでの間だけよ。ある程度まで消耗させたら、アタシが鎮静の歌で《覚醒》を解除するわ。それまで耐えられる?」

「問題ありません。今は天音さんの歌だけが頼りです」


 天音は自分を信じてくれた。駆け出した彼女を視線で追った澪を、水槍で牽制する。そうしているうちに、中央階段の方から高らかな横笛に似た音が紡ぎ出された。


 握っていた武器に力を籠める。肌の裂けた部分からは血が流れていた。それでも永劫に続く喪失の苦しみとは、比べるまでもない。


 失われた兵の命と、背負った覚悟の重みを刃に乗せる。高揚の調べが背中を力強く押した。凪いだ水面の瞳に光が宿る。発せられた清廉な輝きがこの身を包んでいく。心を鼓舞する歌が、取るべき行動を教えてくれた。


「食らえっ!」


 仕掛けてきた相手に水弾を放つ。打ち払った飛沫を前に、澪がふと立ち止まった。


「これは、」

「魔法を使うたびに集めた水がそこへ蓄積される。安易に攻撃すれば、重みで腕が動かなくなるぞ」

「あくまで殺す気はないのですね。ですが、その程度でおれが諦めると思っているのなら間違いです」

「俺も諦めが悪い方だ。特に味方の命に関してはな」

「持久戦なら付き合いますよ」


 忠告は聞き入れられなかった。水泡に包まれた腕で氷結の力を発動させると、澪が集めた飛沫を氷の鱗に変えた。


「こちらの策を利用して装甲を固めるとは、強情なヤツめ」


 小言と同時に連続で水泡を浴びせる。澪が構わず右腕を掲げた。纏いつく水が瞬時に凍結する。直後、氷の重なる巨腕が石畳を抉った。砕けた氷塊が身体を掠める。それでも何度か繰り返すたびに、水泡を受け止める反応が鈍ってきた。


「もう止めろ。肩が外れかけているはずだ」

「腕一本で音を上げるぐらいなら、こうしてあなたに挑んでいない」


 全身に水を被らないよう、彼は片腕に攻撃を集約させている。だが、《覚醒》で身体能力が上がっていなければ、累積する水の重さで既に潰れているだろう。次に撃ち込んだ一発で、やっと澪の表情が歪んだ。氷で無理に固定していた腕も限界だろう。仕掛けるなら今しかない。


「いい加減にしろッ!」


 抉れた窪みを残す石畳の床を蹴る。鉄槌を潜り抜け、牙雲は前に踏み込んだ。振り抜いたハルバードが重なる氷の鱗を叩き割る。ぎらつく双眸がこちらを振り返る。だが、視覚で反応できても、防御は叶わない。


「がはッ……!」


 高揚の音色に乗せた渾身の一撃に、澪が大きく呻いた。氷の盾の合間から、完全に姿勢を崩した懐へ鈍色の柄を叩きつける。これで肋骨にひびぐらいは入ったはずだ。このまま畳み掛ければ――いや、何かがおかしい。高揚の歌が続いているのに、なぜ消耗しているのは彼だけなのか。

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