-衝突-
* * *
「くそ、どうして俺は、天音さんから離れてしまったんだ……!」
第四部隊の遣いから連絡を受け、牙雲は安息の旋律が流れる吹き抜けを飛んでいた。
天音は中層階から移動しておらず、敵も居場所を把握している。それでも襲撃されなかった理由は、第四部隊の精鋭たちが代わる代わる傍で控えていたからだろう。彼女を中心に階層の守備を徹底しており、統制が取れている第四部隊には迂闊に手を出せなかった。
だから、彼らは周囲にいる兵を上手く誘導する必要があった。あの階層で突然起こった敵襲は、自分を見て安心した天音をその場から引き剥がすための陽動だったと考えるのが自然だ。注意が逸れた間に澪が彼女と接触したと知らされ、自分は兵も連れずにその場から飛び立った。
決して衝突を起こしてはならない。天音のためにも、澪のためにも。危険を背負ってでも、行かなければ後悔する。その時、図ったかのように乾いた銃声が何度も響き渡った。
「声の出方が不安定になっているな」
焦燥に駆られた心を鎮めるはずの調べがふつりと変わる。不自然に揺れる音色――慟哭へ変わるそれに、頬の鱗が逆立つ。破られた安息の中で隊員たちの喚き散らす声がした。だが、歌は止まない。それどころか音量を増していく。
「まずい、まだ天音さんがあの場に残っているのか!」
扇状に広がった踊り場から見えたのは、ひどく冷たい色をした蒼い炎だった。ハルバードを強く握り締める。流れる水の鎧を纏うと、牙雲は視界を覆う白い霧を突き抜けた。石畳の上で向かい合う蒼い人影に、スマイリーの推測が正しかったと悟る。
しかし、既に澪が歌う彼女へ氷刃を振り下ろしていた。この距離から間に合うか――
「――やめてッ!!」
絶叫。物理的な音の壁と化したそれが、振りかざされた死を留めた。直後、ぱぁんと炸裂した衝撃波が澪の身体を弾き飛ばす。瞬く間に拡散した嘆きの波動が、自分の聴覚をも麻痺させた。
長い耳鳴りが続いている。距離があったはずなのに、一時的に全ての音が消えた。下を見れば、彼女の後ろで恐慌状態だった隊員たちが全て気絶している。
「嫌よ、もう嫌なの! 誰かが苦しむ音は聞きたくないッ!! ……アタシはっ、止めたかっただけ……でも、この歌じゃ、何一つ止められなかった……!」
天音が血溜まりの中で崩れるように蹲った。彼女の感情が悪い方へ大きく振れている理由はすぐに理解できた。周囲にあるのは蒼の亡骸ばかりだ。
「天音さん、早く退避を……っ!?」
駆け寄ろうとした自分を阻むように氷柱が突き出す。蒼い炎が走った先で人影が動いた。膝を着いた彼女を挟み、薄氷色の髪がゆっくりと向き直る。
「ようやく来たのですね」
「一体、ここで何をしたんだ」
「彼女に生き残ってもらうため、おれは歌を止めて逃げるように促しました。それでも止めなかったので、暴走していた者や、暴走する可能性のある者を先に排除しただけです」
「お前が手にかけたのは、長く彼女を支えていた第四部隊の精鋭たちばかりだ。目の前で同士討ちなど起こせば、天音さんが傷付くのは分かっていたはずだろ!」
「この結末を選択したのは彼女自身です」
惨劇の舞台で淡々と返された台詞には、罪の意識どころか感情さえ含まれていない。
「……澪。お前にはノーバディと共謀し、本部の襲撃を手引きした疑いがかかっている。本来なら即座に討つべきだが、罪を問うために命までは奪わない。直ちに投降しろ」
「本当に慈悲深いのですね。おれが《内通者》だと思ったのならば、有無を言わさず殺すべきでしょう」
絶対零度を宿した右腕が差し向けられる。状況証拠は揃っていた。明確な殺意も覗いていた。いっそ錯乱でもしてくれていれば、割り切ることもできたのに。それでも部下の裏切りを信じたくない。
「もしや、おれの意思を確かめたいのですか。ならば――これが答えです」
これは何かの間違いだ。思考が揺れた瞬間、澪が地面を蹴った。たん、と軽い爪音が向かったのは、螺旋を描く石段で昏倒している隊員たちだ。
「やめろッ!!」
無防備な肉体へ氷杭が放たれた。貫かれた的には第五部隊の部下たちも含まれている。次々と噴き上がる鮮血に、全身の鱗がぶわりと逆立った。
「従順な部下を演じていたのは、あなたたちの懐へ入るために都合が良かっただけ。おれはこの組織に対する情など、初めから持ち合わせていません」
「お前ッ……!」
激昂が四肢の鱗をさらにさざめかせる。しかし、次の瞬間には頭上から氷柱が降り注いだ。回避の途中、側面から入った爪の刺突。腕へ走った痺れに歯を食いしばる。白波の斬撃で応戦するも、相手は氷結した床を滑走して逃れた。
「俺は、今の行いがお前の本心から来るものではないと信じたい」
「まだ目の前の出来事が見えていないのですね」
「ならば聞く。本気で我々を裏切るつもりだったのなら、どうして紅葉を外へ逃したんだ」
「それを確認するためだけに、おれの元へ?」
宙に浮いたままだった真実を問えば、真っ直ぐに合わせた群青の双眸が細められる。共に精鋭となって親しくしていた彼にまで、気持ちがないというのか。紅葉からも故郷へ発つ前に「澪が迷っていた自分の背中を押してくれた」という話を聞いていたのに。
「途中までは利用価値があったので、おれも紅葉に付き合っていました。彼が勝手をしてくれたおかげで、スマイリー大将の追跡を逃れられたというのもあります。ただ、深入りされると今後の計画に支障を及ぼすと考えたため、頃合いを見て追い払っただけです。我々の警告を素直に聞いていれば、命までは取られないでしょう」
「つまり、アイツはこの襲撃に関与していないんだな」
求めていた答えにようやく辿り着けた。紅葉の潔白は証明された。しかし、晴れた疑念と同時にやってきたのは、己にとって最も避けたい選択だ。
「お前が《内通者》だったとしたら、一つ疑問が残る。最初は散り散りになった将校たちの暗殺が狙いかとも考えたが、俺を殺せる機会はいくらでもあったはずだ。お前の役割は一体何だ? ここを襲撃した本当の目的を言え!」
この襲撃では命の危険を感じた場面が何度もあった。ただ、そのほとんどを澪自身が阻止している。そして、先の言動を聞く限り、天音のことも途中まで庇っていたのだろう。一方で、他の味方や道中で遭遇した敵は躊躇いもなく害している。その行動の矛盾が思考に大きな迷いを生み出していた。しかし。
「それを言う義理はありません」
「ならば、話は捕まえた後で聞く。部下の不始末を片づけるのが上官の仕事だ」
言葉でやり取りできる段階は既に終わっていた。やむなく鈍色の矛先を澪へ向ける。その奥では天音が泣き崩れていた。彼女は本部全体の争いを一時的に鎮めた。だが、それと引き換えに目の前で多くの味方を失い、今は完全に精神を折られている。
スマイリーからも念を押されていたように、一番の懸念は取り乱した彼女が予測できない事態を引き起こすことだ。戦火が弱まっている今のうちに、刺客たちの全貌を暴かなければならない。




