-かつての英雄-
「ただいま。久しぶりに会えて嬉しいよ、照」
『照』。聞き覚えのない名前だった。ただ、前に立つ上官が尖った魔力を発していることから、誰に宛てられた言葉かは明白だ。
「お前の顔がふと懐かしくなって挨拶に来たんだ。ここなら誰にも邪魔されないだろう?」
この場所はドラーグドで《大》の位を得た者しか存在を知らないはずだ。しかし、この黒衣は監視の目をすり抜けて、平然と機密区画に足を踏み入れている。
「あの人物は何者ですか」
「《かつての英雄》とでも言えば聞こえはいいだろうね。キミは下がっていてくれ」
周囲の草木がざわめく。脅威と対峙したスマイリーの頬には、淡く光る黄緑の鱗が浮かんでいた。
「まさかアナタが直接来るとは思わなかったよ。この敷居を跨いだ以上、《謀反人》がどういう扱いをされるかは分かっているはずだ」
「そう怖い目をしないでおくれ。少し見ない間に“上官”の顔を忘れてしまったのかい」
相手がおもむろに白磁の面を外した。微笑みを湛えた容貌は、聖よりも少し若いぐらいだろうか。しかし、細められた翠瞳の奥には老獪な光が覗く。
「15年も逃げ隠れていたのに、今更になって我が物顔でココに入れるとでも?」
ばちん、と爆ぜる音。乾いた笑いが打撃に掻き消された。白い調度品を無残に砕いた茨の鞭が、黒衣の裾を引きちぎる。
「落ち着きたまえ。僕が無益な争いを嫌うのは知っているだろう」
「アナタはもう“上官”じゃない。史上最悪の《謀反人》――楼玄だ」
鞭の先端が再び旋風を生んだ。身を翻した弾みで黒衣の被っていた頭巾が肩の上に落ちる。赤銅色の髪がかかる横顔が露になった。尖った右耳にあったのは、ひどく見覚えのある黒環だ。
「あの耳飾りは……!」
「牙雲少佐! 避けて!」
深く思考する前に耳元で甲高い奇声が上がる。反射的に掲げた矛先が褐色の葉を貫いた。満ちた殺気で頬の鱗が痛いほどに逆立っている。斬り捨てた枯れ草を踏みしだき、牙雲は伸びた蔦を迎撃した。
「この子たちに一体何を食べさせたんだ」
「とびきり上質な餌、とでも言えば満足かい?」
「ボクの手足を止めるため、毒を含んだ囮をわざと食らわせたのか。アナタがやりそうな手口だ」
暴走した草木を打ち払ったスマイリーが苦々しげに口を開く。しかし、吐き捨てられた台詞に楼玄は変わらぬ微笑を浮かべていた。
「キミは急いでその裏にある貯水槽を浄化してくれ。水質が戻れば植物たちを制御できるようになるはずだ」
「はっ!」
暴走した植物が増える前に対処しなければ、取り返しがつかなくなる。水槽に辿り着いた牙雲は、急いで水を汲み上げた。
「これは、」
いくら掬っても澄んだ色を保つそれに、動揺が走る。植物に供給されているこの水は――あまりに清過ぎるのだ。
「養分の供給が完全に止まっています!」
「そういうことか……!」
スマイリーの視線が敵から外れた。その途端、青々と茂っていた草木に異変が走る。脈動と共に急速に季節が移ろい、錆びついた色の落葉が下草に降り積もっていく。見る間に増えていったのは、第二研究室で暴走していた植物たちと同じ色の個体だ。
「本当に疑いが過ぎるな。これも貴重な資源だ。少なくとも人体に有害な物を仕込むつもりはない。でも、飢えれば彼らは本能的に捕食行動を取るだろうね」
「ッ!」
赤褐色の茨がスマイリーの身体を狙う。応戦する緑の蔓が強靭な棘にことごとく荒らされていく。防ぎきれなかった一つが鞭を握る手を捉えた。だが、棘に抉られていく鱗にも構わず、スマイリーは武器を握り締めたままだ。
「そんなに血を流しては気の毒だな。緩めてやろうか」
「情けなんて必要ない」
膠着を破ったのは糸目の上官だった。後ろに蹴り上げた踵から鈍色の刃が覗く。それを自由な片手で握ると、茨を断ち切ったスマイリーが反撃に出た。
「『根付け』」
振るった茨の鞭から淡く光る棘が横一線に射出される。着弾した場所からは新たな緑の茨が生え、楼玄の周囲に格子を築いた。赤い茨が駆逐しようとするが、根を張ったスマイリーの植物たちが先に辺りの養分を吸い尽くす。朽ち果てた無数の茎が足元でくたりと萎びていた。
「植物たちを暴走させたつもりかもしれないけど、場の養分には限りがある。必要以上に動かせば、どれだけ魔力を注ぎ込んでも枯れていくだけだ」
「ほう、園主として管理を怠っていた訳ではなさそうだな。成長を認めよう」
「ココはいつまでもアナタが好き勝手できる場所じゃない」
頑強な茨の生垣を挟んで交わされる言葉の応酬。息を潜めていた自分の青い鱗は、ずっとささくれたままだ。園主が持つ強い憎しみの感情が草木を伝って大地にまで溢れている。だが、その覇気に晒されているはずの楼玄は意にも介していない。
「そうだね。一時的とはいえ、まさか僕が出し抜かれるとは思っていなかった。今回はお前の放った斥候が有能だったおかげで、計画外の動きをせざるを得なかったからな。手を下せるタイミングで始末しておくべきだったと後悔していたところだ」
「アナタの口からその言葉が聞けて良かった。ボクの『計画』が完全に成功していたら、それを聞く機会もなかっただろうし」
「ふふ、綻びが生じることは折り込み済みか。現に今頃は我が軍の長が白銀へ挨拶に行ったはずだ。彼女がいなければ、お前の『計画』は決して叶わぬだろう」
「どの段階で気付いたの? ボクが討伐隊を使ってノーバディに仕掛けようとしたことを」
牙雲は思わず上官に視線を送った。自分たちは飆の討伐任務で集められたはずだ。ただ、楼玄は追及を煙に巻く。
「ふふ、今日は挨拶だけだと言ったはずだ。もし続きが聞きたければ、その些末な策を通じてこちらまで会いに来たまえ。望むなら昔の好で歓迎しようか」
「アナタの手は二度と掴まない。ボクが従うのは、輝月サンだけだ」
「ああ、彼はまだ『生きて』いたのか。そういえば顔を見ていなかったな。会えば僕のことを懐かしんでくれるだろうか」
「……アナタが殺そうとしたくせに」
「妄言ばかりだな。実際に壊したのはお前じゃないか」
返事は鋭利な一撃だった。逆鱗に触れられたスマイリーが咆哮を上げる。しかし、赤茶けた草木が茨の一振りを阻んだ。拘束の棘が再び地表を這って伸びる。咄嗟に水槍を放つと、牙雲はスマイリーの死角から襲いかかる棘を全て撃ち落とした。
だが、黒衣の姿がいつの間にか枯葉の向こうに消えている。気配を探る彼の後ろにつくと、スマイリーが努めて落ち着いた声音で指示を下した。
「ボクが解決すべき話に巻き込みたくない。キミはここを脱出して、侵入したノーバディの排除を進めてほしい」
「しかし、あの者が高い実力を有しているのであれば援軍が必要です」
「あの人が相手では兵を犬死にさせるだけだろう。ただ、今の段階で離れればキミが殺される可能性は少ない」
中佐の位を経たスマイリーでさえ対等に争えないのであれば、自分は単なる足手まといだ。それでも、仮に彼の口が封じられれば、ここで見聞きした真実を知る機会がなくなってしまう。
「牙雲少佐。これは『命令』だ」
「……必ずやお戻りください」
「キミには色々と説明が必要だからね。善処しよう」
ドラーグドを統制する彼が自分を逃すことを最善策だと判断した。この組織にいる以上、拒否権はない。ならば今は敵による本部の占領を防ぐべきだ。そう言い聞かせ、牙雲は隠し扉へ向かった。
「彼を逃したのは正しい判断だ。お前の本性を知られてはその立場にいられないだろう」
「……ねえ、いつまで上官面するつもりなの? ボクは本気だよ。アナタを殺すまでは死にきれない。道連れにしてでも、その首を獲る!」
淡い黄緑の光が生命の息吹となって空間に満ちた。激情を乗せた鞭の先が、薔薇の花弁に似た血潮を伴って楼玄へ向かう。しかし。
「《出来損ない》に殺されるほど、まだ落ちぶれてはいないさ」
黒衣を捉えた攻撃が跡形もなく消える。スマイリーが瞳を見開いた。刹那、がしゃん、と派手な音が轟く。気付いた時には天板が破壊されていた。
煌めく巨大な破片が上官に降り注ぐ。放たれた攻撃は楼玄に触れていない。だが、明らかに軌道を無視した打撃の力が衝撃波を生んでいた。流れ込む冷気が自分の思考までも硬直させる。頭上に落ちる先端を防ぐにも、この距離では間に合わない。しかし。
「おや、噂をすれば」
落下する破片が不自然に宙に浮く。そこへ映った人影に反逆者が好奇の声を上げた。長い蒼の裾が乱反射する天板の中で翻る。浮遊する破片を大剣の一振りが打ち砕く。途端に高速の礫と化したそれが、緑を引き裂きながら撒き散らされた。




