-生命の庭園-
* * *
冴えた煌めきが黒衣を屠る。緑の蔓が捕らえた兵を隊員たちが駆逐していく。中央の螺旋階段から屍を払い落とすと、牙雲はようやく血染めの斧を下ろした。
「困ったね。上に行くのも一苦労だ」
返り血を拭った自分の横で、踊り場にいたスマイリーが肩をすくめていた。道中では参謀の彼を狙った刺客だけでなく、暴走する隊員が後を絶たない。伝令兵を通じ、回収した鎮静剤を各階に配布したのは正解だった。
スマイリーは本部全体から発せられる敵対反応への対処や、瞬発力が問われる眼前の荒事までこなしている。あらゆる物事を同軸でこなす頭脳は、もはや畏怖さえ覚える域だ。ただ、本部内に植物たちを張り巡らせているせいで、彼の力は大きく分散している。聖の言っていた通り、自分たちがいなければ危うい場面もあっただろう。
「他の状況はどうなっているのでしょうか」
「中層階では第四部隊が警戒を敷いている。下も聖サンが掃討してくれたおかげで、大規模な侵入経路は塞がったようだね。でも、まだ間者が紛れているだろう。細かい場所に入り込んだ者はボクの植物で駆逐したかったけれど、一部の制御が効かない」
「そうなると、我々が向かっている上層階にその問題の解決手段があるということですね」
「その通りだ。読みが正しければ、キミの手を借りる必要がある」
金の癖毛を掻き上げると、スマイリーは石畳をまた駆け上っていく。自分が呼び立てられた理由はわからなかった。だが、参謀の彼は言っていた。必ず本部を守り切るのだと。どれだけの犠牲があったとしても、必要だったと割り切るしかない。頭ではわかっている。ただ、これまでに見てきた光景を考えると、本当に部下たちを先へ連れて行くべきかの判断がつけられなかった。
「――牙雲少佐。ここからはボクとキミだけで行こう」
石畳を駆けていた足音が止んだ。響き渡る剣戟の狭間で、牙雲は上官の顔を見つめた。塔の天蓋から差し込む光が先を照らしている。だが、冷徹な選択を厭わない彼は、単に自分の気持ちを汲んだのではない。
「この先は上層階の中でも最高機密のある場所だ。本来ならば少佐でも立ち入ることは許されないが、今回はボクの判断でそれを許可する」
「お待ちください」
抑揚のない声音に振り返ると、群青色の双眸がすっと細められる。引き留める前に澪が口を開いた。
「僭越ながら申し上げます。調査班の執務室にも多くの敵が入り込んでいました。これまでの襲撃回数を考えると、上層階といえどもお二人では危険です。せめて精鋭は同行すべきでしょう」
スマイリーの視線がゆっくりと動く。見えない茨がするりと伸ばされた。
「澪、上官の判断に口を出すな」
「おれは事実を言ったまでです」
「……キミの部下はとても忠誠心が厚いようだ。それであれば、ボクが悪者になろう」
薄く開かれた上官の瞳には、ぎらぎらとした冴えが宿っていた。割って入ったが一歩遅かったらしい。
「先に告げた通り、ここからは《大》の位を持つ者だけが立ち入れる場所だ。もしもキミたちが軍規に反する行いを取るようであれば、相応の処分をせねばならない」
「スマイリー大将、何を……!」
青ざめた自分の前で、どこからか現れた蔦が澪や隊員たちの間に茨の生垣を築く。悲鳴はなかったが、動揺する彼らの気配が空気を伝ってきた。だが、生い茂る隙間から睨み据える群青だけは決して動かない。
「諸君、ここまでの護衛に感謝する」
スマイリーが階段の先に足をかける。見えなくなった部下に向け、牙雲は叫んだ。
「澪! 俺が戻るまで、この場にいる彼らの指揮を頼む!」
返事はなかった。だが、蠢く蔦の奥で小さな頷きがあったと信じるしかない。置き去りにした彼らの無事を祈りながら、牙雲は未知の領域へと足を踏み入れた。
* * *
最初に耳に入ってきたのは小川のせせらぎだった。さらさらと流れていく水路を囲うのは、一面に生えた若い草木だ。山岳地帯の冷気から切り離されたような、湿潤した温かな空間。目の覚めるような緑に出迎えられた牙雲は、しばらく面食らった顔で歩いていた。
「本部がこのような設備を有しているとは」
血生臭い戦場を忘れさせるこの場所は、たとえるならば『植物園』だ。上層階の隠し扉を潜って辿り着いたそこは、天井一面が透明な硝子板で覆われている。雲の上から出た塔の天蓋付近に当たるため、草木は恵みの日差しを一杯に浴びていた。中には果実や穀物の苗木も散見される。
「本部の食事や配給用の食材の一部もこの場所で賄っていたのですか」
「ここは山奥だし、平地での大規模な農耕は難しいからね。頻繁に食料を確保できない分、多少の自給自足ができる工夫はしてあるんだ。それに、あれだけの植物を動かす分、元の幹はちゃんと太くしておかないといけない」
スマイリーの操る植物たちは、この空間のどこかにある母体から枝分かれしているらしい。彼らは様々な場所に根を張って生息しており、本部内に張り巡らされた配管を通って移動しているのだという。
「彼らを大きくするためには水と日光だけでなく、養分も必要でね。ただ、薬品は汚染が怖いから使わないようにしているんだ」
「天然の物となると堆肥や腐葉土が一般的ですが、ここまで運ぶのは大変ではありませんか。代替手段でも?」
「そうだなぁ、もしキミが今後も本部で“美味しい食事”を摂りたいと思っているのなら……多分、聞かない方がいいと思うよ」
そこまで言うのなら、そんな薄ら寒い回答も伏せていてほしかった。つい苦い表情を浮かべていると、いつの間にか生い茂る緑の奥でスマイリーが手招きしている。
「早速だけど、下にいた彼らが『根腐れ』してしまった原因究明を手伝ってほしい」
密集した枝葉を掻き分けながら、微かな装置の駆動音がするそこを覗く。現れた物を見て、彼に同行を頼まれた理由がやっと理解できた。目の前には透明な水をなみなみと湛える水槽が置かれている。自分たちの背丈よりも随分と高い大きな代物だ。
「触れても大丈夫でしょうか」
「もちろん。サンプルを渡そう」
空の容器を拾った長い蔓が、貯水槽の水を掬って自分に差し出した。見た目には澄んでいる。草木の匂いは感じられるものの、異臭という程ではない。そっと指先を浸す。これは地中からの湧き水ではなく、露や雨水が主成分だ。ただ、滑らかな質感で特に異常は感じられない。
「この水は問題なさそうです」
「ありがとう。今のは生活用水の一部だ。目星をつけるとすれば、植物に与える給水管に接続した水槽と比べてみた方がいいね。溶かした養分も含んでいるが、人体には無害だ。仮におかしな物質が紛れていたら浄化してほしい」
「承知しました。案内をお願いします」
道中で聞いた話によれば、この貯水槽は飲料や生活用水、植物たちの維持などの様々な系統に分かれているという。上官は植物たちに異変が起きている原因が水にあると踏んだのだろう。
「この先に行けば管理している貯水槽があって、」
ぱたり、とスマイリーの足が止まる。水路を挟んだ小道の向こうには、草木を愛でるための華奢な白い机と椅子があった。だが、その座面には見知らぬ人影が腰かけている。
「……なぜ、ここに」
積まれた古書の表紙に触れた指先へ、スマイリーが掠れた問いを零す。その途端、一帯の植物たちが風もないのにぶわりと枝葉を波打たせた。
緑の息吹が離れた黒衣の裾を揺らす。直後、いやにゆっくりとした動きで白磁の面がこちらを振り返った。一般の兵がつけているそれとは違い、そこには複雑な模様が描かれている。立ち尽くす自分たちの前で、黒衣の相手が声を上げた。




