-狂乱-
「申し訳ありません。輸送班の屋外倉庫で襲撃に遭い、戻るのが遅くなりました」
淡々とした様子で澪がゆっくりと首を垂れる。倒れた敵の心臓からは赤く濡れた氷柱が突き出ていた。
「先は助かった。お前も無事で何よりだ」
「本部内はどうなっているのでしょうか」
「下層階から敵が侵入を試みているため、この場は第一部隊と第五部隊で対処している状況だ」
「外周にも敵が散見されました。今日は霧が多かったために監視役の反応が遅れたようです」
その報告に牙雲は眉間の皺を深めた。複数箇所の門番が同時に破られたとなれば、物音の一つぐらいはするだろう。だが、現実にはスマイリーの植物が駆逐されるまで異常を察知できなかった。
「侵入を許してしまった原因の究明も必要だが、まずは敵を食い止めなければ。第一部隊と連携して排除するぞ」
遠くでは何度も竜の咆哮が聞こえていた。中央階段付近で隊員たちが激しい攻防を繰り広げている。情報を集めるために最低限の人数を残し、牙雲は横で頷いた彼と共に元の道を引き返した。
「この回廊は奇襲される可能性がある。一部の者は右の通路から迂回し、経路確認を行うように指示を出せ」
「敵兵の動きを見たところ、多くは十数名で行動しています。兵を分けるなら十名は必要かと。また、飛び道具の対処で二人以上の後衛を入れるように指示します」
「了解。それと、伝令兵を見かけたら声をかけろ。今の状況を確認したい」
澪と実戦に臨むのは初めてだった。だが、彼はこの喧騒の中でも取り乱すことはない。それどころか、道中で受けた自分の指示を遂行すべく、他の隊員を適切に動かす冷静さを見せている。
兵の統制をしているうちに正面玄関へ差し掛かる。剣戟の音が強く耳朶を打った。開けた空間では、第一部隊が侵入者と応戦している。敵の数は時間を追うごとに増えていた。この場だけでも目算で百以上、別の通用門や外周の被害状況を考えると千近くの規模だろうか。
矢じりや火花が飛び交うたびに血飛沫が上がっていた。しかし、統率者となる聖の姿がまだ見えない。ならば、今は自分が対処するしかないだろう。
「牙雲少佐、伝令が来ました」
判断が急がれる中、牙雲は澪が連れてきた隊員を呼び寄せる。
「西門付近には救護部隊の病室へ通じる廊下があったはずだ。彼らの避難状況と、そこへ向かった第一部隊の消耗はどうなっている」
「非戦闘員は避難させましたが、一部が戦闘に巻き込まれた模様です。また、西側の通路で激しい戦闘が起きており、第一部隊が正面玄関側へ押されていると報告がありました」
「まずいな。傷病人の搬入口が占領されたかもしれない。外周から被害を確認して、すぐに聖大佐へ報告しろ」
侵入を手引きした内通者は自分たちの内情を深くまで知っている。脆弱箇所も一つだけではないはずだ。悪化の一途を辿る様に歯噛みしていると、控えていた澪が口を開いた。
「侵入経路が西側にあるとするなら、どのみちそこを塞がなければなりません。ただ、内部から押し戻すのは厳しいと考えられます。まずは動ける我々で援軍を要請しに上へ向かった方が良いのでは?」
「いや、大佐からの指示がない以上、持ち場を離れるのは憚られる。それに今の推測が正しいかも含めて確認が必要だ。道中の補佐を頼んだぞ」
ドラーグドで屈指の実力を持つ第一部隊の隊員たちとはいえ、想定以上の敵に囲まれている可能性もある。彼らの援護も兼ね、侵入元を断つ目的でも現場に向かうのは悪くない手だ。澪と数人の隊員を傍につけ、牙雲は西の通路へ駆けつけた。
「っ、助けてッ……!」
進行方向から掠れた悲鳴が上がる。動乱の中、迫る敵を斬り捨てて廊下へ足を踏み入れた牙雲は、その場で息を呑んだ。
「これは、」
充満した錆鉄の匂いに、ぶわ、と頬の鱗が粟立つ。石畳の上に広がっていたのは夥しい赤だ。敵味方の骸が敷かれた血のぬかるみを進むと、角を曲がった先で白衣をまとった女性隊員が蹲っている。
「い、痛いッ、か、らだが、……い、たい、……た、すけ、……」
その細い手足からは隆起した竜の鱗が次々と肌を突き破って生えていた。ごぼ、と口から血の塊が吐き出される。か細くなる呼び声。このままでは――
「しっかりしろ!」
彼女に駆け寄ろうとした時、澪が自分の腕を強く引く。その理由は聞くまでもなく理解できた。
「――グオおぉオオッ!!」
一帯に響いた嘆きの慟哭。鱗の発現で不自然に隆起した四肢を引きずる彼女が立ち上がった。刹那、血走った目がぎろりと自分を睨む。
「くっ!」
振りかざされた咄嗟に爪を叩き落とす。錯乱した相手をどうにか武器で抑え込んだが、自分を味方だと認識していないようだ。
「っ、一体何が起きて、」
ハルバードを握る掌が青から鮮血に染まる。視界が赤一色に塗り潰される。かかっていた力がふつりと抜けた。
「これ以上進めば、おれたちも巻き込まれます」
冷めた群青の眼差しが自分を見据える。浅葱色の鱗から伸びた鉤爪は、頸から噴き出した色に染まっていた。
投げ捨てられた亡骸の奥からは竜の咆哮が漏れ聞こえてくる。だが、報告で聞いていた敵の気配はほとんどない。士気を高揚させる兵の声はなく、あるのは耳に堪えない苦痛の叫びだけだ。
「牙雲少佐、ここは危険です。すぐに退避を命じてください」
澪が微かに震えた声で促してきた。視界に入った大半は既に自我を失っているのだろう。生に取り憑かれた亡者のように目の前の存在を見境なく襲っている。
理性を失った彼らの肉体からは、紛れもなく“竜”の様相が覗いていた。暴発する力の制御ができなくなっているらしい。しかし、まだ何人かの味方が積まれた骸の狭間で正気を保っていた。
「西門付近には近づくなと、聖大佐へ伝えなければ」
「こちらも全滅だ。どこかに伝令兵はいないのか!」
「この先の通路はもう防衛線が――」
聖の直属たちが狂乱する蒼い群れの中で必死に危険を叫んでいる。その一人がやってきた自分に目を留めた。見開かれた瞳が確かな安堵の色を見せる。あれは西門から入ってくる敵の制圧に向かわせた第一部隊の隊員だ。
「俺が時間を稼ぐ! 急いで退避しろッ!」
部下の制止を振り切り、牙雲はハルバードを携えて血の廊下を駆けた。暴走する隊員を水圧で壁に抑え込み、取り残された味方へ道を開ける。
「牙雲少佐っ、救援に感謝します!」
褪めた青の一団が濡れた床を駆け抜けていく。築かれた水壁の間を最後の一人が通り過ぎた時だった。
「うッ……!」
横を抜けようとした隊員の肩口へ細い針が刺さる。後ろには薄緑の薬液が入った小型の容器がつながっていた。射出の軌道を追えば、遥か遠くで黒衣の兵が長銃を構えている。
「逃がすものか」
逃げる敵を仕留めようと、牙雲は水槍を放った。しかし、着弾を確認する前に視界を遮られる。
「ガ、あぁあァッ、!」
「くそっ……!」
目の前にいた隊員が急速に表皮へ無数の鱗を顕現させた。皮膚を突き破られ、血の涙を流す相手が縋るように爪のついた手を突き出す。
がり、と音を立てて隊章の塗装が剥がれた。化け物と化していく《味方》を前に正常な思考が働かない。覚悟は決めていたはずだった。しかし、警鐘を鳴らす本能に反して、武器を握る己の手は微塵も動かずにいる。
この身を庇うためには、もう目の前にある命を奪うしか――
「大丈夫だ、君が手を汚す必要はない」




