幕間 移ろうもの
地平線の向こうに一面の星空が広がっている。中央に坐す望月には薄い雲がかかっていた。夜営の篝火から少し離れた小高い丘の上で、何度目かもわからない溜息を宙へ溶かす。
自分が故郷を飛び出したばかりの時も、ここに座って空を眺めていた。南部から空路で移動する際は、この丘を境に日を跨ぐことが多い。視界が開けているおかげで宿営地として重宝されるからだ。
そう、今もあの時と同じ景色を見ていたはずだった。だが、黒い塔へ向かう心持ちは当時とまったく異なっている。
「少佐も澪も無事だといいんだけど」
飛翼が持ってきた一報は、自分を含めた現地の隊員たちに大きな衝撃を与えた。ただ、本部が機能停止に陥ったという以上の詳しい情報はない。
自分も第五部隊の安否を確認するべく、家族への挨拶もそこそこに故郷を発った。集落には第六部隊が残るので大きな心配はしていない。だが、自分にとって第二の家が窮地に追い込まれるとは考えもしなかった。
抱えていた膝にぎゅっと額を押し付ける。自分がここへ留まっている間にも、上官や仲間が危険に晒されているかもしれない。必ず戻ると約束したのに。最悪の結末を迎えてしまえば、本当に二度と会えない可能性も――
「隣、座ってもいいかしら」
悪い思考を遮ったのは、少し掠れのある声音だった。断る理由もなかったので横へ招けば、軍服を羽織った白銀がその場へ腰を下ろす。
「さっき紅茶を淹れたんだけど、一人で飲み切るには量が多くて。よかったら飲んでくれない?」
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」
差し出された水筒は煮出した茶でほんのりと温もりを感じる。一口啜れば、ふわりと鼻に抜ける優しい香りと、温かな熱が身体の奥に染みていった。
「いやぁ、美人からもらうお茶はやっぱりうまいっス」
「調子がいいわね」
「ここから見える星、結構キレイなんですよ。白銀さんはそれ以上ですけど」
「わたしを口説いているつもり? まあ、こういう場では『大佐』より『さん』呼びの方が気楽で良いわね。今度からそう呼んでちょうだい」
「へへ。じゃあ、今の話は聖大佐にもナイショにしておいてください」
口に人差し指を当てれば、淡い虹彩がすっと細められる。
「オレ、聖大佐がいつも白銀さんにお菓子を送ってるって聞いたことがあって。たしか甘いのがお好きなんですよね?」
「軍人が舌ばかり肥やしたらいけないでしょう。それでも送ってくるから仕方なく食べているだけよ」
そう言いながらも、彼女が持ってきた茶にはほのかに甘い味がついていた。が、そこをつつくのは部下としても男としても賢くないだろう。
「まあ、疲れてる時とか落ち込んでる時は、オレもときどき欲しくなりますし」
「じゃあ、あなたの気もこれで少しは紛れたかしら」
その返事に紅葉はつい頬の鱗を掻いた。自分がしばらく一人でここにいたことを見透かされていたらしい。長く埋もれていた本音が湯気と一緒に立ち上る。
「……さっきまで、牙雲少佐や本部に残った第五部隊のことをずっと考えてて。ここでうじうじしててもしょうがないっていうのは、わかってるんですけど」
「そうね。帰還を急いだところで起きてしまった《事実》は変えられない。唯一幸運だったのは、わたしたちがその《事実》を深くまで知る術を持ち合わせていなかったことぐらいかしら」
「はは、確かに。何が起きたのかもわからないのに、悪いことだけ想像して泣き言ばっかり言ってちゃダメっスよね」
「なぜ?」
白銀が澄ました顔でこちらを見ていた。考えもしなかった台詞に面食らっていると、握った筒で暖をとっていた相手が先を続ける。
「辛ければ泣き言ぐらい言ったっていいじゃない。皆には黙っていてあげるから」
「あー、だから困りますって、そういうの」
『この軟弱者め』なんて台詞が聞こえてきそうだから、必死に留めていたのに。忘れようとしていた心細さと不安が溢れて止まらなくなる。せめて聞こえないように小さく鼻を啜ると、顔を伏せた自分にまた声がかかった。
「向いてないのにそうして感情を抑えていると、必要な時にまで出せなくなるわよ」
「うっ……そりゃあ、オレなんかがすぐ白銀さんみたいに強くはなれませんし」
「ねえ。あなたが言う強さって、一体何を指しているのかしら」
何度か口を開こうとして、うまく出ない答えに逡巡する。本部の状況を耳にした皆が動揺を隠せずにいる中で、彼女は一切取り乱すことなく手配を進めた。当然、内心では自分が思っていたような最悪の事態も想定していたはずだ。だが、常に落ち着き払ったその姿勢には冷たさ以上に、頼もしさを覚える。
時々熱くはなるものの、牙雲も似たような振る舞いを心がけていたし、同僚の澪に至っては感情のぶれがほとんどない。だから、それが軍にいる者としての正解だと思っていたのだが。
「そう言われると、強いってよくわかんないっスね」
「そのよくわからないものに心を縛られているのは、ばかばかしいと思わない?」
《最強》と称される彼女にあっけらかんとした声音でそう言われたら、不思議と頷いてしまう。
「人はよくわたしを『強い』と褒めてくれるけど、わたしは単に鱗が硬かっただけ。もし、わたしが軍に入らず、虫も殺せないような性格だったとしたら? 訓練についていけない病弱な身体だったとしたら? ここが平和な世界で、女は着飾って慎ましくしているのが美徳だったとしたら? ――きっと“お硬いだけの女”だって笑われていたでしょうね」
ああ、くだらない。誰かから与えられた《強さ》なんて、まるで意味がない。そう一蹴した彼女がからりと笑った。
「他人が評する《強さ》なんてものは、人の価値観や時と場合によって変わってしまう。けれど、自分の持つ可能性を信じ続けることができたのなら、いつかそれがあなたの持つ本当の《強さ》に変わるわ」
「そう、かもしれないっスね」
「あなたは自分の素直な気持ちを通じて、他者を動かせる力がある。それなのに、損得勘定や打算、今みたいな我慢ばかりの行動をしていたら持たないわよ」
「でもそれ、軍人っぽくないって言われませんか」
「だから『これが軍人だ』なんていう定義は誰が決めたの? あなたの目指したい姿が、いつも厳めしい顔して青筋立ててる人だっていうなら、否定はしないけれど」
どうにも似合わなそうね、という指摘にはぐうの音も出ない。ばつが悪くなってまた頬の鱗を撫でていると、白銀が温くなった茶を啜りながら呟いた。
「そうは言っても、この組織ではあらゆる局面で常に強くあることを求められる。そして、わたしにとって《強い》軍人であることは義務――いいえ、自分自身との約束だった」
見つめた瞳は淡く燃える星屑の輝きで満ちている。強さの本質を探し続けてきた彼女が臨んできた景色は、自分が思いもしないものだった。
「わたしの生家は軍の要人を多く輩出していたの。ただ、それは決まって男ばかり。首席でここへ入隊した時には『お前が男だったらどんなに幸運だったか』って家族からも言われ続けたわ。少佐の位を得た後だって、ほとんどの上官から『あまり多くの部下は持たせられない』なんて。努力や手腕を見せる機会さえ与えられないなんて、本当に笑えない冗談よね。
けど、わたしは絶対に軍人になるべきだと思っていたから、家に逃げ帰るなんて選択肢は最初からなかった。だって、こんなに《強い》鱗を持て余しているなんて、もったいないでしょ?」
銀の鱗を生やした掌が小さな焚火にかざされる。照らされたそれが星の瞬きのように煌めき出した。
白銀は自分の意思で、自分の力が必要とされているこの場所にやってきただけだ。他人から難癖をつけられても気にならないほどに自らを正しく受け入れていたからこそ、彼女は数多の白星を掴み取ることができたのだろう。
自分の信じた道が、いつか誰かの救いになるのならば――いや、必ずそう信じて進むことができた時に、初めて彼女の立つ《強さ》の領域に辿り着ける。
「がんばってた白銀さんのこと、ちゃんと見てくれた人がいたんですね」
「当時の上官だった聖には感謝しているわ。先にドラーグドへ入った兄弟たちは殉死していたから、彼が唯一頼れる先だったし。そんな時、遠征に行った彼から好きな土産を買ってくるって言われて、思いつかなかったから『甘い物がいい』と適当なことを伝えたのよ。それに味を占めたのか、事あるごとにお菓子を口実に呼び出してくるようになって」
はにかんだ白銀は、しばらく星降る夜を見つめていた。菓子を頬張りながら表情を和らげた彼女を見て、聖は些細な勘違いをしたらしい。とはいえ彼の持ってきた気遣いが、気鋭の指揮官として因習の狭間で思い悩む彼女の背中を支えてきたのは事実だ。
「……わたしもあの時は若かったし、うっかり『君を応援したい』なんて口車に乗せられちゃったのよ。しばらくして真面目くさった顔で『結婚してくれ』って言われた時には、こっちが驚いたわ」
「ああ、聖大佐は時期を見誤っちゃったんスね」
「あの頃はドラーグド全体に勢いもあって、前線にいた彼も格好良かったし、本音では嬉しかったわ。でも、そこで応じたら下心になびいたみたいじゃない? それに自分が権威ある彼と懇意にしていたから昇格したと思われそうでイヤだったの」
「タイミングが悪かっただけなら、なんで二回目のプロポーズも断ったんです?」
「そんなの、憧れの上官には自分よりも強くあってほしかったからに決まってるでしょ! なのに、わたしが歴代最強だともてはやされていたのを見て、本人が『自分は老兵だし、君を支えたいから役を譲ろうか』だなんて言い出したから、発破をかけるつもりだったのよ」
「なかなか手厳しいっスね……」
「そして、今回の遠征前に三回目も受けたけど――よく考えたら、軍人同士だと私が張り合っちゃってダメだと思って。だから、どれだけ熱心に口説かれても軍の関係者は全部お断りすることにしたわ」
とてもおカタい女でしょう、と悪戯っぽい微笑みが返される。自分が聖の立場だったらとうに折れていそうだ。ただ、彼が諦めきれない理由が今の話で理解できた気がした。
「どうりでオレが口説いてもダメなわけっスねぇ」
「素直に甘えてくれる坊やなら考えてもいいわよ? これでも子育て経験者だし」
「えっ!? お子さんいらっしゃったんですか」
「親は親でも育ての親だけれど。ただ、あの子は躾が足りなかったせいか、意地っ張りな上に好き放題ばかりして。いい歳になった今でも手を焼いてるの」
「いや、白銀さんが育ててダメなら、きっと誰でもそうなってますよ」
「少しでも聞き分けが良くなればいい子なんだけど。最近は顔も見てなかったから、そろそろ時間をとって接してみた方がいいかもしれないわね」
すらりとした足を投げ出すと、彼女は夜風に長い髪をそよがせていた。戦場で見せていた硬派な姿と違い、気を休めている今は穏やかな表情だ。自信に満ちた眼差しと気取らない人柄、嫌味のないあっさりした言動は、人を惹きつけてやまない。時平や他の隊員たち、そして柚葉がそんな稀代の名将に憧れるのも頷けた。
「そういえば、助けてもらったオレの妹も白銀さんみたいになりたいって言ってました。髪留めのお礼もさせたいんで、いつかアイツがドラーグドに入ったら、声をかけてやってくれませんか」
「もちろん。次の世代を受け入れるためにも、今は目の前の問題を解決しに行きましょう」
「そうっスね」
「さあ、あなたもそろそろ休みなさい。明日は早朝に出発するから遅刻は厳禁よ?」
「ハイ! お茶、ごちそうさまでした」
先に立ち上がった彼女が自分へ微笑んだ時。その後ろで長い銀の尾が墨の空を駆けた。平穏な時はいつもほうき星のように儚く過ぎる。だが、いつかどこかで燃え尽きるあの輝きように、この戦にも終わりが来るのだろうか。
星は移ろう。この目で眺めた景色、覚えた感情、抱えた悩みは、どれも決して永遠ではない。あの時と同じ空を見ることは二度とできなかった。時の流れは人の気持ちや世界の見方すらも変えていく。
「……さっきはそんなに好きじゃないって言ったけど。やっぱり甘い物も悪くないわね」
焚かれていた小さな篝火が消えた。闇に包まれたはずの世界で、唯一届く銀の星がそっと目の前に差し出された。
fin.
いつも作品をご覧いただき、ありがとうございます。
EP.8開始まで小休止を挟みます。
復帰は4月頃となりますので、よろしくお願いいたします。
(2025/3/2時点)
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今回のピックアップキャラは白銀です。
聖のおかげ(?)で今はわりと甘い物好きになりました。
生粋の軍家という補正もありつつ、対物理戦では破格のチート性能を誇ります。
この話の竜人はわりと通常の人間に近いというか、化け物的な竜になったりしないので、全身を鱗で覆えるというのは一種の身体的才能になります。
彼女もそれをわかっていたので、他者にどうこう言われようとも軍に入るという鋼の決意を固めていました。
なお、小ネタとしてEP.5で聖とヴァルフォードの会話に出ていた話で「かじったら歯が折れる」というのは比喩でもなんでもありません。




