-難攻不落-
塵が降り積もる大地で、犀臥が伸びている岩の腕の一つに触れた。前触れもなく崩落した岩肌の断面から、どろどろと黒い液体が噴出する。
「っ、く……!」
血潮のごとく流れ出たそれが鎧を捕える。白銀を襲ったのは粘度の高い黒土だ。逃れようと泥を掻くも、武器ごと銀の手甲がさらに奥まで呑まれていくだけだった。銀翼が完全に動きを止める。重力に抗えず、硬質な体躯が黒い粘糸に絡まりながら緩やかに沈んでいく。
「他は庇えても、己までは庇えなかったようだな」
墜落した白銀の前へ黒衣の裾がゆっくりと向かった。その掌が鎧へ触れた途端。煌めく鋼が硝子細工のようにぱりんと砕け散る。
「わたしの鎧をここまで剥がしたのは、あなたが初めてね」
「それは名誉なことだ。では、ぜひとも貴殿の首を持って祝そう」
断頭台の刃が鎧の継ぎ目へ落ちる。阻む竜の尾が武骨な得物を弾いた。だが、柄を逆手に持ち替えられ、無情にも空いた胸部が貫かれる。噴き上がる鮮血を予見し、紅葉は咄嗟に妹の顔を伏せさせた。
――がきん。
「なるほど、これが貴殿の持つ真価か」
金属同士が派手に噛む音。犀臥の声が露骨に曇った。分厚い刃先がきりきりと鳴く。薄目を開けば、なぜか彼の武器が刃こぼれを起こしていた。
破れた軍服の下から覗いたのは、彼女の持つ第二の《鎧》だ。多くの竜人の鱗は胴まで庇えない。ただ、白銀の全身は鉄板を重ねたような装甲で覆われている。彼女が《最強》と謳われる理由――それは物理手段での討伐が困難を極めるからだろう。
「おあいにくさま。その程度の得物では、わたしを殺すどころか傷つけるのも不可能よ」
下ろされた刃が長い尾に弾かれる。黒く染まった甲冑を脱ぎ捨てると、難攻不落の女傑が再び砂を踏み締めた。素顔を覆う兜から下の身体は鱗特有のぬらりとした光沢を放っている。硬質さを持ちながらも命の熱と躍動を感じさせる体躯は、人と竜の境を曖昧にさせた。
「砕けるものならやってみなさい」
白き竜将の咆哮が上がる。あらゆる重石を捨てた肉体から繰り出される拳は残像を生む速度だ。打ち据えられた太刀からは大きな火花が散っていた。受ける刃は見る間に欠け、削られた鉛の歪な悲鳴が木霊する。
「っ、この調子で付き合っていては持たないな」
砂岩の巨腕が地割れから生えた。圧殺の拳が将の頭上から迫る。しかし、自らの体躯を包むほどのそれに向かい、彼女は真正面から己の鉄鎚をぶつけた。
「らああぁッ!!」
振り抜いた手甲が巨大な岩壁を穿つ。爆ぜ飛んだ黄色い礫が周囲でからからと踊っていた。
「う、ウソだろ? いくら岩だからってあのデカさのとぶつかって当たり負けしないとか……あの人の身体、どうなってんだよ」
今度は目の前で岩が二つに裂ける。とても人の為せる技とは思えない。唖然とする自分をよそに、白銀は次々と砂岩を破壊し続けている。砂を溢す不完全なつくりを見る限り、相手の魔力が追いついていない。
砕けた場所から黒い粘土が噴き出すも、生成された円盤状の盾がそれを受け流す。銀に輝くその身はまさに不撓不屈を体現していた。
「無駄な抵抗は止めなさい。結果は見えているわ」
「戯れに勝敗など存在しないさ」
間合いを取っていた犀臥が崩壊してきた砂岩に触れた。ぱんと弾けた瓦礫から、再び乾いた砂塵が巻き上がる。
「わたしがこの世で一番嫌いなのは、あなたのような意気地なしよ」
眉庇の奥、冴えた光が白縹の双眸へ宿った。鋼鉄の尾が周囲に生えた砂岩の腕を根元から薙ぎ払う。鋼の爪先が黄土色の砂を蹴った。瓦礫を弾き、邪を砕く音速の拳が砂塵に紛れる影を追う。煙る視界を裂いた向こうにあったのは、窪地の淵とそれを背にした仇の姿だ。
しかし、拳の先が触れる直前で、彼はその身を躊躇いもなく砂海に投げた。踏み留まった銀の体躯へぶわりと細かな砂が吹き付ける。湿り気を帯びた灰が舞い、それが隊員たちの構える盾にこびりついていた。
「少し様子を見るだけのつもりが、つい興が乗り過ぎてしまったな」
「負けを認めるのね」
白銀が淵を覗き込んだ。すると、窪地の底から細い柱が砂を掻き分けて競り上がってくる。その頂で追っていた黒衣がなびいていた。
「残念だが、俺と刃を交えた時点で貴殿の負けは決まっている」
「……どういう意味?」
「聞かずともそのうち分かるはずだ。では、有意義な時間を過ごせた礼に一つ忠告してやるとしよう」
渦巻く砂嵐に黒衣の裾が翻る。くすんだ緑の髪が砂へ埋もれていく。
「いつまでもそこに足をつけていない方がいいぞ? お前たちがいるのは《砂上の楼閣》だからなぁ!」
ぐらり、と足元に嫌な揺れが走った。流砂の狭間で嘲笑が反響する。それを皮切りに地層へ縦裂が広がった。
「総員ッ、即座に飛翔せよ!」
白銀が蒼い群れに叫ぶ。隊列を割るように辺りの地面から砂塵が噴き出した。辺りが竜の羽ばたきで埋め尽くされていく。
しかし、今度は欠けた土塊の掌が歪な音を立てて動き出した。黒く変質した屍のような腕が伸び、蒼の群れを地底へ引きずり込もうとする。
「柚葉、早く飛べ! ばあさんはオレが抱えていくから!」
老いた身体が飛ぶまでは待てなかった。一瞬の判断を求められ、紅葉は妹から老婆の身を預かる。だが、弾みで皺だらけの手に握られていた杖が窪地へ転がり落ちた。
「おばあちゃんと先に行って!」
「柚葉っ、ダメだ!」
自分の制止を振り切った柚葉がその場から引き返す。砂の上に刺さった持ち手を掴むと、妹は宙にいる自分を追いかけて大地を蹴った。しかし。
「っ!?」
近くの亀裂から放出された黒い粘土が、広げた被膜へ直撃する。叫ぶのも忘れ、紅葉は老婆を抱えたまま動けなかった。柚葉は黒土を拭おうとしている。だが、背後からは蠢く砂の波が迫っていた。
「誰か、頼むッ! 妹を助け、」
うねる砂海と地鳴りが救いの声を掻き消していく。蒼い群れはもう遥か上空だ。
「こんな老いぼれは荷物になるだけじゃ。降ろして行きなさい!」
――守るべきは《忠義》か《情》か。砂塵に紛れた嘲笑がまた脳裏で蘇る。老婆は自分の肩を何度も押していた。だが、妹が必死に守ろうとしていた命を見捨てることなどできない。
「手が焼けるわね」
真っ白になった思考を鮮明な銀が断つ。黄色い粉塵の中から現れた鎧の将が、柚葉の周囲に鋼鉄の盾を築いた。大量の砂を留めた彼女が、汚れた妹の身体を有無を言わさずに抱える。
「しっかり掴まってちょうだい」
「は、はい!」
頷いた相手を確認すると、白銀は砂が深く沈み込むほどの力で地面を蹴った。ひゅお、と音を立てて天へ昇った将の後を慌てて追いかける。銀に瞬く翼にはついていくのがやっとだ。
「総員、退避完了ね。伝令は先行して、被害状況の報告のために時平少佐へ召集をかけるように伝えなさい。残りは逃げ遅れた民間人がいるかの確認と、怪我人の輸送を優先するように」
宙にいた隊員たちへ次々に指示を出し終えると、白銀は兜に覆われた顔をこちらに向けた。
「紅葉隊員。あなたはわたしと一緒に民間人の護衛を頼むわ」
鋼の長い尾を波打たせると、白銀はしがみつく柚葉の背に掌を添えたまま、曇天を滑空していく。冷徹な色を纏いながらも、その内面は静かな温もりを抱えていた。ざらついた砂嵐が遠ざかる。砂の大地になった集落の跡を振り返ると、紅葉は強く光り輝く銀色を追いかけた。




