-すれ違う正義-
「アイツのことは気にすんな。そのうち戻って来る」
そう声をかけられ、紅葉は強張っていた表情を何とか戻した。すると、時平が眉間に寄った皺をいくらか和らげる。
「実は、お前らが監視塔へ来る前にオレと本部の調査班で話をつけておいた。今回の騒ぎは当事者のお前と飛翼、そして上官の牙雲とオレから顛末書を提出するだけでいいってことになってる」
「えっと、規律違反のお咎めは?」
「お前らが反省してるって伝えたら『この経験自体が罰になるだろう』ってな。飛翼も普段は真面目だし、お前も牙雲の部下だから再発は無いって見られたんだろ。オレも多少の罰は覚悟してたが、この程度で済んで良かったな」
「はい。時平さん、色々とありがとうございました」
組んでいた太い腕を解くと、監視塔の階段を見据えた彼ががなり声を抑えて呟く。
「……もしオレの部下がそいつ自身や味方の命に関わることをすりゃあ、さすがにオレだって怒る。だから牙雲のヤツが言ってたことは正論だ。だが、お前らが規律違反を起こした原因は、遅刻するとこっぴどく叱られるかもしれないって思ったからだろ?」
「ハイ。最近、牙雲少佐もピリピリしてたし、ちょっと気まずくて」
「オレはそうやって変にビビられて失敗を隠される方が非効率だと思ってる。問題児ばっか相手にしてるから指摘もキリが無くて、つい大目に見ちまうのもあるが――正直、牙雲のヤツが他より厳し過ぎんだよ。
アイツに全部従うのだけが正しい訳じゃないっつーか……その、うまく言えねぇけど、とにかく今日の件は顛末書でケジメつけときゃいい」
時平の不器用な慰めは決して間違っていない。だが、牙雲の叱責も心の中では必要なのだと理解している。何が正解なのか分からなくなって、結局、時平に肩を叩かれるまで黙っていた。
「紅葉、お前は飛翼と先に本部へ戻れ。他の隊員には《戦況管理部隊》から今日の演習中止について伝達がいくはずだ。オレは牙雲に顛末書の話をしてから戻る」
「今日はご迷惑かけました」
階段を下りて行った広い背中に、紅葉は最後に頭を下げた。
「紅葉、ごめんね。ぼくがあの時、余計なこと言ったせいで」
「へーきへーき。どのみち遅刻確定だったら、オレ一人でも同じことやってただろうし。色々あって疲れちゃったし、早く帰ろうぜ」
負い目を感じている幼馴染にぎこちない笑みを見せ、階段を下りていく。だが、帰路へ差し掛かった靴先を不意に留めた。
「悪りぃ、飛翼。やっぱり先に戻っててくれ。用事があったのを思い出したんだ」
「……うん。じゃあ、また後で」
幼馴染の彼はきっと自分が何をするのか薄々わかっていたのだろう。だが、彼は何も言わずに自分を送り出した。
監視塔の下で飛翼と別れると、紅葉は霧の覆う林道へ向かった。気になったのは他でもない。監視塔から一人で出て行った牙雲のことだ。白い景色に埋もれた蒼い軍服を探していると、近くから言い争うような声が耳に入ってくる。
「――どうして俺に何も言わず、勝手に沙汰を決めた? この規律違反は顛末書で許される範囲の話じゃない」
「勘違いすんな。調査班が顛末書で問題ないって言ったからそうなっただけだ。元からこの件の罰則を決めるのはオレたちじゃねぇだろ」
対峙しているのは牙雲と時平だ。木立に身を潜め、続く会話に聞き耳を立てる。
「大体、テメェは部下にガミガミ言い過ぎなんだよ。だから今日みたいに下が失敗を隠そうとして、揉め事を起こすんだ。今回は反省してんだからもういいだろ。今度やったらそれこそ一発殴ってやりゃあいい」
「そんな考えが戦場で通用すると本気で思っているのか? 何事も一事が万事だろ。部下のためにも規律違反には必要な罰則を与えるべきだ。この単細胞め」
「誰が単細胞だヒョロガリ! そうやって規律規律ばっかり言ってるくせに、テメェの足元にいる部下こそ遅刻常習犯じゃねぇか。オレに口出しするよりも先に自分の部下を教育しとけ!」
「アイツは俺の想定を遥かに上回る不出来なヤツなんだ。だが、俺はお前のように暴力まがいのことはしない。ゆえに矯正に時間がかかっているだけだ。いずれはまともに育てる」
「はん、半年経ってもまだ言うこと聞かねぇヤツがいるなんて、そりゃ上官が無能の証だな。あと、オレはパワハラなんてしたことねーっつの」
「なら、なぜ演習中にお前の部下が白目を剥いて倒れたんだ? 卒倒なんて頻繁にある話じゃない。指導と恫喝の差がわからないなら、お前に部下を持つ資格は無い」
「あれはアイツの体質的なことだ! 倒れる頻度は減ってるしアイツも努力してんだから、テメェに難癖つけられる筋合いは、」
「もういい。こんな話はするだけ無駄だ。顛末書で本当に済ませるべきか、俺が再度確認しに行く」
「だったら勝手にしろ。テメェの都合で型にはめられる部下が気の毒だな――いいか、一つだけ言っておく。アイツらはテメェが出世するための道具じゃねぇ。見栄のためにイイ子ぶるのは止めておけ」
「……別に、お前に俺のことを理解してもらおうとは思っていない。だが、俺には信念がある。譲れない物がある。俺はそれを貫くだけだ」
それだけ残すと、牙雲は時平の手から顛末書の一つを奪って本部へ戻った。
「ったく、昔から頭の固いヤツだな」
霧で見えなくなった背中に時平がぼやく。居ても立っても居られなくなって、紅葉は腕組みしている彼へ声をかけた。
「時平さん、ちょっと時間いいっスか」
「うおっ! ……なんだ、紅葉か。さっき飛翼と一緒に戻ったんじゃなかったのか?」
「実は、牙雲少佐のことが気になって帰ってきたんですけど……いやぁ、二人して見事にオレのことけなしてくれてましたね?」
「あー、その、悪りぃ」
「いや、ぜんぜん。むしろ時平さんに感謝してるぐらいっス」
「どういう意味だ」
「……オレ、牙雲少佐にもう愛想尽かされたかなって思ってて。でも、やっぱり違ったのがわかって安心しました。ただ、今の話で他に聞きたいことができたんです」
時平が眉間の皺を深くする。すぐにでも話を終わらせたいような雰囲気だったが、紅葉は怯まずに先を告げた。
「時平さんと牙雲少佐って、どうしてそんなに仲が悪いんスか? お互いの部隊の方針が違うのは知ってますけど、オレや飛翼を心配してくれてるのは同じですよね? 二人とも考えてることは一緒なのに、普段から言い争ってるのは何でかなって」
「お前なぁ、オレ以外の上官にそんな話を吹っかけたら怒られるぞ」
「無茶言ってすんません。けど、時平さんなら本音で話してくれそうだと思ったで」
自分がこれ以上退かないと理解したのか。盛大な溜息の後に、時平が重い口を開く。
「お前の言うように、考えの根っこが同じだからこそ、許せないことがあるんだよ」
「許せないこと?」
「お前、そもそも牙雲のヤツがどんな生まれか聞いたことあるか?」
「いや、家とか住んでた場所とか、そういう話は全然」
「アイツは竜人にとって貴重な水資源を代々護ってきた一族の生まれで、しかもその宗家の一人息子だ」
「へえ、牙雲少佐っていいとこの“お坊ちゃま”なんスね」
「そうだ。だからアイツは暮らしに困ってねぇし、そもそも軍を辞める未来が決まってる」
「……跡継ぎは牙雲少佐だけってことっスか。どんな地域でも水資源って重要だし、それを守ってる一族だなんて言ったら普通は家も捨てられないっスよね」
「だが、アイツは知らぬ顔でオレたちみたいな戦で生計を立ててるヤツらの元にのこのこやって来た。で、オレが一番気に食わないのは、どうせ軍を出るくせにあんなに部下を抱えているところだ。本心では見栄のために半端な気持ちで軍に入ってるんじゃないかと、」
「そんな……そんなのは絶対にありえないっスよ! 牙雲少佐はオレのこと、何度も身体張って助けてくれましたし」
初陣の際、彼が本気で自分を庇ってくれた姿をこの目に焼き付けていた。だが、遮られた時平が顔をしかめて問う。
「じゃあ、アイツはどうしてこの軍に来たんだ? 金のためでもなけりゃ、住む場所や身内を失った訳でもない。残る動機としちゃ、見栄や名声、権力ぐらいだろ」
「それは、」
「アイツは自分の家柄の力を誇示したいんだよ。今は当主の親父が存命だから、軍やココにいるヤツらに恩を売って、自分の地域以外にも影響力を持とうとしてるんだとオレは疑ってる。そのためにはお前を庇った骨の一本や二本、安い犠牲だってことだ。
もし、オレがいつ軍を抜けるかわからない立場だったら、仲間の命は絶対に安請け合いしない。だからアイツが本気で下のヤツらを大切にする気があるのか、疑問に思ってる」
紅葉は何も言い返せなかった。だが、その憶測が間違っていることを強く願った。この乱世で生きるに困らない牙雲が軍に入った理由と、そこで手に入れたかったもの。こればかりは本人へ聞くしかない。
「そら、お前んとこの上官をボロクソに言ってやったぞ。欲しい答えになったか」
「十分っス。ありがとうございました」
「お前も変なヤツだな。自分のとこの部隊長についてこれだけ言われて、怒ったりしねぇのか」
「そりゃあ言い過ぎな部分もありましたけど、時平さんが言ってることもわかるから、なんとも」
「別にフォローする訳じゃねぇけど。曲がりなりにも、オレはアイツの戦については認めてる。指揮官としての勘も悪くねぇし。良い指揮官ってのは、作戦を遂行しながら、部下も自分も死なないようにできるヤツだ。そういう意味では、アイツの慎重な戦い方だけは見習う部分も……だあもう、なんか恥ずかしいこと言っちまったなぁ、くそ! さっきのは全部忘れろ」
「大丈夫です、牙雲少佐には言いません」
「テメェ覚えてたらぶん殴るからな」
背中を小突かれた紅葉は、照れ隠しでしかめっ面を作った時平に一つ頷いた。
今は闊達に見える性格の時平も、隊員時代は規律の中で生きてきたはずだ。だが、様々な背景を抱える問題児たちの上官として、部下を守るために本当に必要な物を見極める割り切りをしていたのだ。一方の牙雲も、彼なりの考えを持っているはずだろう。
「そら、さっさと戻るぞ。昼を過ぎたら食堂が閉まっちまう」
「あっ! それはヤバいっス」
「あれだけこってり絞られてたくせに、まだ食欲あんのかよ」
「へへ、なんてったって牙雲少佐に面倒見てもらってる育ち盛りっスからね」
他愛のない冗談を交わしながら、二人は霧の立ち込める林道を歩いて行った。