-藍の思い出-
「紅葉、ここで会えてよかった!」
駆け寄ってきた飛翼が小さな掌で自分の手を取る。
「南西部が襲撃されたって話は聞いてるよな」
「第六部隊が鎮圧のために出撃するって時平少佐から言われて。ただ、引き継ぎがあるから、出るのは明日の朝になるみたい」
「じゃあ、準備は今晩からか」
「ううん。ぼくは伝令班の人と一緒に今すぐ現地へ出発する予定なんだ。人手が足りてないみたいだし、一刻も早く故郷の様子を見に行きたくて」
幼馴染は自身の機動力を買われたと言っていたが、内実は時平が彼の気持ちを汲んだからだろう。そして。
「もしお前が飛翼隊員へ託したいことがあればと思って、声をかけた」
討伐任務へ編成されていた自分に、牙雲は言付けを残す機会を与えてくれた。頷いた上官の前で、紅葉は必死に言葉を探した。
「なあ、飛翼。すげぇカッコ悪い頼みだけど、オレの代わりに家族のことを守ってやってくれ。あと、みんな無事でいてほしいってのと、親には顔も見せられなくてゴメンってのと、弟や妹にはいい子にしてたらお土産いっぱい持って帰るぞっていうのと、ええと――」
思いつく限りを口にすれば、飛翼は一つひとつに頷いていた。置いてきた家族には伝えたいことがたくさんある。同時に、最も必要とされている時にそこまで赴けない口惜しさも。
「わかった。ぼくが紅葉のご両親や兄弟に全部伝えるよ。みんなの安否が確認できたら、伝令班の人にすぐ連絡してもらうように頼んでみる」
「ああ、頼んだ! それと、約束してた今日の夕飯の件は、」
「うーん、この状況だと一か月ぐらい先になりそうかな?」
「……はは。じゃあ今度は休暇でも取って、オレたちの家族も呼んでさ。みんなで一緒に食おう」
微笑んだ飛翼が自分の両手をぎゅ、と握った。細い指先に篭められた想いの強さが確かに伝わってくる。
「うん、必ずそうしよう。ぜったいに!」
互いに抱き合うと、紅葉は小さな背中を何度もさすった。肩口では鼻を啜る音がする。怯えているばかりの幼馴染はもういない。今の彼は故郷を救う英雄だ。
「紅葉、もう時間だから行かないと」
「みんなのこと頼んだぜ」
「任せて。じゃあ、またね」
「飛翼、気をつけてな!」
手を振った飛翼が吹き抜けから飛び降りていく。広がった白い翼は覗き込んだ手すりの向こうへ消えていった。
「本当に行かないでいいのか」
「……オレは、少佐と討伐任務に行くって約束したんで」
「身内を想う気持ちは理解できる。必要なら時平が声をかけろと言っていた。討伐任務の編成についても俺の方で工面する」
腹は決めていたはずだった。しかし、不意の選択肢を提示された時にばかりその決断が揺らぐ。ああ、情けないほどに何も決められない。ここまできても踏ん切りがつかないのか。すると、長く逡巡している自分へ牙雲が告げた。
「討伐隊の行き先はどのみち中央区画だ。南西部からはそれほど離れていない。時間が許すなら、俺はお前が来るのを待っている――だから、今はお前にしか守れないものを優先しろ」
牙雲は故郷を救いに行くよう背中を押してくれた。だが、討伐任務が先に進めば、到着が間に合わない可能性もある。あの鬼神を相手にするのなら、下手な介入は全滅を引き寄せかねない。
「……少しだけ考える時間をください。すぐには決められそうにないんで」
「わかった。だが、遅くとも明日の朝一番までに結論を出せ」
立ち去ったあの背中へ無数の赤を滲ませる様が、今も網膜の裏に強く焼き付いている。
自分たちから仲間を奪い、傷つけた仇へ報いるためにも。己の正義を貫くためにも。自分は牙雲の隣で彼を支えるべきだと思っていた。
しかし、戦火の上がる故郷では、今も幼い弟や妹が怯えて泣き叫んでいるかもしれない。両親も混乱の中で必死に家族を守ろうと手を尽くしているのだろう。
『失ったら戻らねぇものがある。俺は取るべき選択を誤った。テメェはどうだろうな』
――去り際に残された飆の言葉がふと脳裏を過ぎる。
蒼き御旗とこの先の平和のために、禍根を絶ちに向かうべきだろうか。だが、未来のために動いたところで、守るべきものを失ってしまえば意味がない。
決断の時が迫っている。答えが見つからないまま、紅葉はしばらく廊下に立ち尽くしていた。
* * *
「飛翼のヤツ、大丈夫かな」
呟いた言葉が殺風景な天井に吸い込まれる。誰もいなくなった寄宿棟の部屋で、紅葉は残された書き置きを握り締めていた。
そうして寝台の上で長いこと項垂れていた時。鬱々とした真夜中近くの葛藤を断ったのは、玄関口で鳴る呼び鈴だ。押し開けた扉の先には軍服を羽織った同僚が立っていた。
「遅くにすまない。今から少し話せないか」
「まだ起きてたからいいよ。入って」
驚く自分には目もくれず、澪がのそりと室内へ足を踏み入れる。近くの椅子へ腰かけると、彼は寝台にいた自分へ唐突に切り出した。
「身内と会えるなら、会っておいた方がいい。紅葉は必ず故郷へ帰るべきだ」
見たことのない相手の剣幕に気圧される。彼が何も決められない自分を咎めに来たように思えて、紅葉は唇を噛んだ。
「悪いけど、簡単に結論が出る話じゃない。急かさないでくれ」
「死んだ者は帰って来ない。どれだけ会いたくても、決して会えない。行かなければ後悔する」
「――オレだってそれぐらいわかってるよッ!」
布団に拳を打ち下ろす。焦燥から来る苛立ちを前に、向かいに坐す相手が群青を伏せる。
「紅葉が決断できないことも、おれは理解している。だからこそ伝えに来た」
自らの耳に下がる藍の房飾りに澪がそっと触れた。
「おれは昔、目の前で姉を亡くした」
淡々と紡がれる事実に、昂っていた感情が薄まっていく。
以前、澪は「返事のない手紙なら書くだけ無駄だ」と言っていた。内にある事情を知らず、彼に声を荒げたことを紅葉は謝ろうとした。ただ、留める間もなく先が紡がれる。
「おれの姉はドラーグドの隊員だった。おれとは歳が離れていたから、彼女が軍で何をしていたのかはあまり知らない。ただ、模範的な隊員だとは聞いていた。姉はとても優しかった。人のためになることなら何でもやっていた。でも、結局、優しいだけの彼女は死んでしまった」
殺された澪の姉は、彼の誕生日に合わせて故郷へ帰ってきたらしい。彼の耳にある藍の房は祝いの品としてもらったのだという。
「その日、おれは彼女に『隣の集落を見てみたい』とねだって連れて行ってもらったんだ。その道中、運悪く数人の敵と鉢合わせてしまった。彼女はおれに集落へ戻れと言ったが、自分はそうしなかった」
「一緒に戻れば助けを呼べたのに、どうして」
「小さな集落だったから、そこにいる民間人を巻き込みたくなかったのだと思う。一人で戦った彼女は軍人として正しい選択をした。でも、残されたおれの気持ちまでは考えてくれなかった。その時は、こんなに辛い気持ちになるなら、いっそ《心》などなくなってしまえばいいと思っていた」
言葉の中身とは裏腹に、彼の声はまだ抑揚を思い出せずにいる。ただ、感情の起伏を排した口調からは、隠し切れない恐れと後悔の片鱗が覗いていた。
「おれは一人でいるのが怖くなって、途中で引き返したんだ。その時に彼女の最期を見た……軍に所属していた女だったせいか、口にできないような、むごい殺され方だった」
揺れる藍色の奥では、彼女の喉から漏れる苦悶の声だけが今も長く響いている。
「軍人になれば、同じ立場だった彼女の気持ちも理解できると思っていた。でも、結局わかったのは、弱者は淘汰されるということだけ。証拠に幼かったおれは、襲われる彼女を前に何一つできなかった――ただ、今は違う。少しだけ強くなったからこそ、初めて見えた選択肢がある」
紅葉は小さく息を呑んだ。群青の眼差しが捉えたのは、他でもない自分だ。
「おれは討伐任務に志願しないつもりだった。でも、手が足りないのであれば、紅葉の代わりにそこへ出てもいい」
「けど、それって澪のやるべきことじゃないんだろ? オレの勝手を押し付けるわけにはいかないよ」
「これはおれが自分で望んだことだ。だから気にする必要はない。紅葉は強いから、きっと故郷の人を守れるはず」
紅葉自身の憂いを払うこと――それが、臆病者の己に許された唯一の行いだと彼は告げた。
「明日、牙雲少佐に今の話を伝える。おやすみ」
自分の答えも聞かず、言いたいことだけ述べた澪が扉に手をかけた。
「澪、待ってくれ!」
振り返った彼の掌を掴むと、紅葉はそこに左耳にある黒環を握らせる。
「本当に討伐任務へ行くなら、このピアスを預かってくれないか」
「どういう意味?」
「オレ、決めたよ。故郷の戦線にも討伐任務にも必ず参加する。それはオレの大事なものなんだ。だから、取りに行くまでちゃんと持っててほしい」
これまでは二者択一の世界だと思っていた。だが、宛がわれた選択肢に納得できなければ、許される限りで別の道を探してもいいはずだ。
「明日から故郷の戦線に向かうけど、時平さんたちとすぐに片付けて《竜のとぐろ》に行くから。澪や少佐だけで向かわせたりしないよ」
「そう。だったら、」
黒環と引き換えに、澪が自らの耳飾りを掌へ置く。
「おれも、紅葉に姉さんの形見を預ける。会えたら返して」
「わかった。ちなみに、そのピアスはオレの命の恩人がくれたお守りなんだ。きっと澪のことを守ってくれるはず」
「紅葉は、お守りがなくて大丈夫なのか」
「へへ、代わりに澪の姉ちゃんに守ってもらうよ。『誰かを守りたいって思えるのは、強いヤツの証だ』って、澪も言ってただろ?」
「そうだね。確かに彼女は勇敢だった。おれを守ってくれたから」
「じゃあ、姉ちゃんができなかった分まで、オレたちでみんなを助けよう。澪も一緒に手伝ってくれ」
顔を出した廊下の向こうで、ちらちらと強い明かりが瞬いているのが見えた。もう夜間の見回りが始まってしまったらしい。
「最後に一つだけ。オレが戻るまで、少佐のことを頼むぜ」
こく、と小さな頷きが返ってくる。藍の思い出を懐へ収めた自分に向け、相手も口を開いた。
「紅葉、」
何かを思い直すように小さく首を横に振ると、澪は前よりもはっきりとした声で告げた。
「――大変だと思うけれど、紅葉が行くならきっと故郷は大丈夫だ。おれも、紅葉と会えるのを待っている」
薄氷色が薄明かりの廊下へ消えていく。その背中を見送ってから、紅葉はゆっくりと扉を閉じた。




