-臆病者-
* * *
差し出された茶器を前にして、紅葉は遠慮がちにそれを啜った。華やかな芳香とまろやかな苦味が舌に残る。小皿に載った色とりどりの茶菓子を見つめていると、向かいの相手がようやく口を開いた。
「急に呼び出しちゃってごめんね。今、討伐隊の編成で大変でしょ?」
「大丈夫っス。バタバタしてたとこだったんで、天音ちゃんのおかげでようやく一息つけました」
廊下を歩いていた時、自分は天音に誘われて第四部隊の応接間に招かれた。少しばかり居心地の悪さを感じるのは、軍事機関とは縁遠い淡い色の壁紙に囲まれた空間のせいだろうか。それとも、彼女の冴えない表情を見たからだろうか。
「あの、今日呼んでもらったのって、澪のことですか」
「ええ。実は昨晩、彼と食堂で会ったから立ち話をしてて。でも、あんまり紅葉に変なことを言わないでほしいって釘刺されちゃったのよねぇ」
「いや、アイツ、ド直球にも程があるだろ……!」
柔らかな質感の金髪を指先に巻きつけ、彼女が小さな溜息を零す。物怖じしない彼は上官にも詮索しないように言ったらしい。
「彼はとっても正直な子だから言葉自体については気にしてないのよ? ただ、近くを通りがかったスマイリー大将が用事でアタシに声をかけてきた時、澪が明らかに怖がってる音になって」
「まあ、あの人の前だと、変に緊張しちゃうのはわかります」
余計な悪戯で目をつけられたのだろうか。あまり関わりのない人物だと思っていたが、澪の反応を聞く限りではそうでもないらしい。
「それで、気になったのがその後なのよ! 普通、人が出す音ってその人の感情によって徐々に大きくなったり、小さくなったり波があるんだけど……昨日の彼の音は、一瞬大きくなった直後にプツンと全部が消えちゃったのよね」
「動じない顔してて、意外とビビりなんスかねぇ? アイツ」
「アタシもこんなパターンを聞くのは初めて。昨日の澪は使う楽器が一緒でも旋律自体が変っていうか? あの顔だけ男も竜人にしてはおかしな音がするんだけど、それとはまた別ってカンジ」
天音によれば、人族ごとに奏でられる音は異なるという。種族が違えば、音を出す器官――たとえば楽器が異なるようなものであり、同じ音階でもまったく別の音がするらしい。そして、竜人は同じ音質を持っているが、個人によって発される旋律が違うという話だった。
音楽に詳しくない自分にはさっぱりだが、その繊細な聴力には舌を巻くばかりだ。
「それと、もう一つ。アタシが大将に呼ばれる前に彼から聞き出したんだけど、アナタに関することで悩んでるみたい」
「えっ、まさかオレが原因なんスか?」
どうりで澪が自分に口を割らないわけだ。しかし、自分の言動を振り返っても、あまり思い当たる節がない。
「あ、誤解しないでね。彼はアナタのことを嫌っているわけじゃないのよ? どっちかっていうと、対応に戸惑ってるって言えばいいのかしら。ただ、中身を聞く前にどこかへ行っちゃったから、結局わからずじまいなのよねぇ」
「あー、お節介し過ぎてうざったがられたのなら、心当たりありますけど」
「きっとアタシが余計なお願いをしちゃったせいね……当分は見守るだけがいいのかも。彼には普段通りに接してあげてくれる?」
「了解っス。じゃあオレはそろそろ戻ります。お茶、ごちそうさまでした!」
「アタシのワガママに協力してくれてありがとう。今度こっそりS席チケット渡すから、牙雲くんや澪と一緒に観に来てね! ――無事に帰ってきてくれるの、待ってるから」
飆の討伐では、武力の要となる多くの将校や精鋭たちが本部を離れることになる。そのため、第四部隊は本部の治安維持でここへ残るのだろう。実力があり、人員も多い彼女の部隊が常駐してくれるなら、討伐任務の間も安心だ。
「オレも少佐たちとぜったいに本部へ帰ってきます。美人を泣かせるワケにはいきませんからね!」
あの華やかな笑みを浮かべた彼女を見て、紅葉もその場で力強く頷いた。
* * *
賑やかな食堂の中。湯気の立つ料理を口にしようとして、紅葉はふと手にしていた食器を置いた。傍らにいた澪が皿に載った馳走をじっと見つめていたからだ。事前に天音の話を聞いていたものの、気になるものは仕方ない。
「澪、どうした」
「何でもない。考え事をしていただけ」
「えー、苦手なもんがあったらオレがもらおうと思ったのに」
群青の瞳を細めた彼がすっと皿を自分から離す。ただ、口をつける気配はない。いつものように修練場で遅くまで稽古をこなしてきた上、自分の誘いに応じたぐらいだから、すっかり空腹だと思っていたのだが。
形ばかり手にしていた食器を澪が皿の淵に乗せる。しばらくして、彼がやっと口を開いた。
「……紅葉は死ぬのが怖くないのか」
「なんだよ、いきなり」
「今日、討伐隊の出兵日が決まったと聞いた。だが、紅葉はいつもと変わらない。だから死ぬのが怖くないのかと思った」
牙雲に志願を認められてから、もう数日が経っている。人員確保が難航していたこともあり、具体的な出立の日取りが決まったのは今朝だった。
この話はまだ表立って通達されていない。ただ、自分の背中を押してくれた澪には、牙雲にも許可を取って伝えていた。
「そりゃあまったく平気なわけじゃないけど。アイツに一発でもやり返したい気持ちの方が強いんだ。アイツのせいで多くの仲間も失ったし、オレも少佐もひどい目に遭ったから」
「なら、次こそ本当に殺されるかもしれない。なおさら怖いと思わないのか」
「だからってアイツを止めないと、またどんな被害が出るかもわかんないだろ? 家族とか仲間がいなくなっちゃう方がオレにとっては辛いよ」
「紅葉は牙雲少佐と同じように、誰かのために戦っているんだな」
「少佐は生まれからして、家の責任があったのも影響してるんじゃないかな。オレはそんな大した話じゃないけど、これまで色んな人に助けてもらったし、軍でその恩返しをしたかっただけ」
自分がここの扉を叩いた理由。そして、高みに向かおうとする理由。始まりの蒼い背中がぼんやりと目の前に浮かぶ。
もし飆の討伐を終えた暁には、あの恩人――楼玄とも会えるのだろうか。叶うなら、自分は彼に尋ねなければならない。とても心優しかったはずの彼が、自分を導いてくれた彼が、どうして軍を裏切り、自分たちを苦しめているのかを。
「――誰かを案じたり、守りたいと言えるのは、真の強さの証だと思う」
うつむいた相手の耳元で藍色の房が静かに揺れる。
「紅葉たちのように、誰かのために自分の命を懸けることは、おれにはとてもできそうにない。おれは死ぬのが怖いから強くなりたいだけ。本当のおれは、誰よりも臆病者だ」
掠れた声が卓上へ落ちる。その唇から溢れたのは、己を心底蔑むような言葉だった。
「おれは、自分を守るために強くなりたかった。強さを得られれば、おれは何者にも害されない。この争いが終われば、おれは理不尽に殺されずに済む」
彼に才能があり、実力を持っていることは紅葉も知っている。ただ、澪は他と比べて異様に死というものを恐れていた。軍に入れば、彼が忌避すべきあらゆる事が訪れるというのに。
「澪は精鋭でいられるぐらいに強いだろ? 何でビビってるんだよ」
「そんな程度の力でこの争いを止めるのは不可能だ。少なくとも、どこかの頂にまで昇り詰めなければ――いや、たとえ辿り着いたとしても、おれがこの恐怖から逃れる術はないのかもしれない」
澪がぎゅ、と胸を押さえた。落ち着いた声音に不規則な呼吸が混じる。宥めようと肩に触れると、彼は小さく震えていた。
「なあ、マジで大丈夫か? 気分悪いなら医務室へ行った方が」
「――紅葉。優しいだけでは何も守れないんだ。おれは、彼女のような死に方だけは、絶対にしたくない……!」
澪がばっと顔を上げた。強い恐慌が群青の中へ浮かんだ瞬間。ぷつん、と全ての表情が消える。問いかけにも応じず、彼は石像のように一切の動きを止めた。唯一、その両耳にある藍の房だけがゆらゆらと揺れている。
これが天音の言っていた異変だったのだろうか。彼の瞬きが戻ってくるのを、紅葉はただ待つことしかできなかった。




