-寄らば大樹の陰-
* * *
「あー、いつもの流れで来ちゃったけど」
待ち合わせ場所に人影がないのを見て、紅葉はようやく澪が不在だったことを思い出した。
ここ数日、自分は同僚の彼と共に夜間の地下修練場へ足繁く通っていた。にも関わらず、牙雲のホログラムにはまだ一勝もできていない。対戦数に比例して打ち身や生傷が増えるばかりだ。
今日の修練場は他の隊員にも開放されている。ただ、澪は別の用事で顔を出せないと言っていた。それでも地下を訪れただけで帰るのは忍びない。
一人で軽く汗を流すぐらいの気持ちで、紅葉は最下層にある拓けた空間へ向かった。そこでは数人の隊員が模擬戦を行っている。自分より厚みのある体格をした彼らの傍では、ごつごつとした背筋を持つ上官が声を荒げていた。
「おい、テメェ! そんな動きで敵に突っ込むつもりか? 獣人相手ならカウンターで腹を食い破られるぞ! ……あー、右のヤツも防御に移るのが遅せぇな。あっという間に銀矢で針山じゃねぇか。明日までに直ってなかったら、夜まで外を走らせるからなッ!!」
「押忍ッ、時平少佐!!」
素人目には双方ともよく動けていると思ったが、時平にはまったく評価できない内容だったらしい。あれだけ恵まれた体格を持ってしても、第六部隊の精鋭で居続けるには血の滲む努力が必要なのだろう。
激しい拳の応酬をじっと見つめている最中、ふと振り返った時平と視線が合う。
「紅葉? そんなところで何やってんだ」
「どうも。ちょっと身体でも動かそうと思ってたところに先客がいたんで、様子を見てました」
「根性あんのは認めてやるが、全身包帯だらけじゃねぇか。修練なんかムリだろ」
「見た目より元気なんでぜんぜん問題ないっス。でも、なんでココに来ちゃったのかわかんないんスよねぇ、オレ」
両頬に増えた絆創膏に視線が行くのがわかり、紅葉はつい愛想笑いを浮かべる。
「んだよ、らしくねぇ雰囲気だな」
そんなことはない、と口にしかけた否定を呑み込む。部隊の指導に当たっている最中に、彼はわざわざ声をかけにきてくれたのだ。昨日、部屋に戻ってきた自分を見て驚いていた飛翼が、心配を伝えたのかもしれない。
「時平さん。今、困ってることがあるんで、話聞いてもらえますか」
頷いた彼に促され、紅葉は控え室へ足を運んだ。更衣室や大浴場に通じるそこへ入ると、時平が水の入った容器を寄越す。
「で、何があったんだ」
「ええと、実は、ここしばらく牙雲少佐のことが気になってて」
「あえてオレにその話を振ってくるってことは、相当な事情らしい」
太い腕を組みながら、時平が眉間の皺を深める。ただ、紅葉は意を決してこれまで見聞きしたことを伝えた。
――牙雲が《覚醒》を制御する訓練で思い悩んでいること。課せられた《課題》をこなすには、時間が限られていそうなこと。その中で、精鋭として己を止められるように紅葉自身に命じたこと。そして。
「……《覚醒》を制御するには、牙雲少佐が信頼できる強さを持った相手を傍に置いた方がいいって、血炉さんにアドバイスされて。もちろんオレが力になれれば良かったんスけど、この通りです」
「そりゃ当然だ。一朝一夕の訓練で隊員に倒されるようなタマじゃ、位持ちなんざ務まらねぇし」
「誰か訓練に付き合ってくれそうな人はいませんか? ウェスカー中佐は興味なさそうだから、聖大佐はどうですかね」
「大佐の指導なら悪かねぇと思うが、上官総出で自分の世話してもらうなんて話、アイツは絶対に断るだろうな」
もっともな答えに紅葉は肩を落とした。このままでは八方塞がりだ。しかし、もう自分の中で思い当たる適任者は――
「……あっ、そうだ! 一番イイ人がいたじゃないですか!」
「なんだよ、急にデカい声出しやがって。で、誰なんだそいつ?」
「今、オレの目の前に座ってる人です」
水を流し込んでいた時平が盛大にむせる。慌てて口元を拭った彼は、鋭い瞳をすっかり丸くしていた。
「はァ? テメェ本気で言ってんのか? オレとアイツが仲悪りぃの知ってんだろ」
「そりゃあもう十分過ぎるほどに」
「それでアイツの昇格試験に協力しろって言ってんなら、大した度胸だな。オレの方がどつかれた気分だ」
「すんません。でも、これしか方法を思いつかなくて」
後ろに撫でつけた橙の髪をぐしゃぐしゃにしながら、時平が天を仰いでいる。
「仮にオレが承諾しても、牙雲のヤツが拒否するんじゃねぇか? アイツ、頑固な上に石頭だし。他の方法を探した方がきっと早ぇぞ」
「ダメならすぐに諦めます。でも、オレが少佐を説得できた時には、協力してもらえませんか?」
普段の相手なら隊員の頼みには快く応じてくれる。ただ、今の件については長く考え込んでいる様子だった。眉間の皺だけを増やしていく時平の前で、紅葉は祈るような気持ちで返事を待った。そして。
「お前が苦労してんのはよくわかった。困ってるヤツはオレも放っとけねぇからな」
「じゃあ、協力してもらえるんスね? 時平さんっ、ありがとうございま、」
「――礼を言うのは早いぜ、紅葉?」
瞳を輝かせた自分の前で、時平が厳つい表情を崩さずに告げる。
「今の話を吞んでやるためには二つの条件がある。一つはアイツの説得方法だ。オレたちから話が来たと知れたら、絶対に突っぱねられる。だから、血炉の旦那に口利きしてもらって、そこ経由でオレに話を通すように仕向けろ」
「わ、めっちゃ頭イイ方法っスね!」
「伊達にアイツと長い付き合いやってねぇからな。扱いはわかってる」
「マジで頼りになります。それで二つ目の条件は?」
「二つ目はテメェのやる気次第だ」
ぽかんとした顔で相手を見つめていると、時平がのそりと立ち上がった。
「身体は普通に動くって言ってたよな」
「え? ああ、それは大丈夫ですけど」
「ならついて来い」
修練場へ戻る広い背中を追いかけると、彼は手を叩いて修練の手を止めさせる。すると、集まった隊員の一人に指示が下った。
「おい、左端のお前。手合わせの順番はまだだったよな」
「うっす! まだです!」
「よし、今からオレの後ろにいるコイツの相手をしろ」
「……へ?」
何度周囲を確認しても、顎で示された方向には自分しかいない。
「えっと、なんでオレが第六部隊の人と戦うんスか?」
「お前の頼みを聞けば、牙雲のヤツが抱えている話を一時的に解決することはできる。だが、戦場ではいつもオレが近くにいるわけじゃない。実戦もやらねぇような訓練で昇格して、本番でなんかあったらどうするつもりだ?」
「それは、」
「人命が懸かってる以上、《課題》を手伝ってハイおしまい、なんて無責任なことはできねぇ。手を貸すってことは、貸したヤツも責任を負う。だからこそ、テメェ自身が将来的に牙雲を抑えられるかどうかを、この手合わせで判断する。テメェに素質がなければさっきの話は全部ナシだ」
射竦める黄色の瞳が自分を貫く。牙雲を支援するのであれば、彼は自分が動くに値する力を示すように告げた。
白線の外へ下がった彼を見送ると、紅葉は軍服を脱いで脇へ放る。解けかけた腕の包帯は全て取り払った。戦いの痕跡はまだ薄らと残っているが、四肢の可動に支障はない。
本来立ち向かうべき相手は遥かに力のある存在だ。目の前の者を下せなければ、きっと次もないだろう。意を決して前を向く。拳に力が入る。
「――さあ、紅葉。テメェの漢気を見せてみろ」




