-死にたがり-
* * *
「どうしたんだ、紅葉? 急にオレのこと呼び出すなんてさ」
等間隔にならんだ照明の下で、輸血パックの封を切った血炉が首を傾げている。
仕事を終える直前、牙雲から翌日も休むという連絡があった。その知らせに乗じて彼を尋ねようかとも考えたが、自分がいきなり訪れても突っぱねられるだけだ。
それもあり、最初は同じ所属の天音を頼ろうとした。しかし、牙雲の話が絡むと彼女まで部屋へ押しかけかねない。だから言い訳をつけて、輸送班が管轄する真夜中の備品倉庫を訪れたのだ。
水のように赤色を啜る上官に、紅葉は切り出した。
「実は血炉さんに聞きたいことがあって。牙雲少佐が体調不良で休んだ件で、何か思い当たることってありますか」
「それをわざわざオレに聞いてくるってことは、修練場に来てたんだな? 最近、天音やがうがうとは違う匂いが毎日してるって思ってたんだ」
「げ、そんな匂ってました? 修練終わったらちゃんと汗は流してるんですけど」
「吸血竜は他の竜人より嗅覚がいいんだぜ。それにウマかった相手の匂いは、基本的に覚えてるし」
ぎょっとした顔の自分を見て、血炉は横に引いた口元から鋭い犬歯を覗かせていた。
「それで、紅葉は自分の上官のことが気になってるんだっけ」
「言える範囲で構わないんで、事情を教えてください」
「うーん、一回齧っちゃった詫びもあるから、今回は特別な?」
ぺろ、と口の端を舐めると、隻眼の彼は夜な夜な行われている訓練について語ってくれた。
「今、がうがうはオレたちと一緒に《覚醒》を制御する試みをやってるんだ。でも、昨日は天音の歌が効き過ぎたせいか、最後の方はずっと暴れてて。オレが全力で押さえつけてたから、今頃は全身痣だらけのはず」
「そんなにボロボロになるまで訓練しないとダメなんですか」
「コレは軍でも初めての取り組みだからなぁ。今の方法で成功する保証はないって本人にも伝えたんだけど、上手くいかないのは、自分の実力が足りないせいだって思ってるのかも」
「少佐ってなんでも内側に抱え込むクセがあるんスよねぇ」
「数日で力の出力が安定してきたし、オレとしてはわりと上出来だと思うんだけどさ」
血炉によれば、《覚醒》の制御には段階があるのだという。一つは《覚醒》を発動させられるかどうかだ。ここは牙雲も感覚を掴むところまで辿り着いていた。
そして、次は全力を保ったまま、それを自在に操れるかどうかだった。しかし、闘争本能が優位になっている状況で、牙雲は力に歯止めが効かなくなっていた。そのため、血炉が物理的に意識を落とさなければ、暴走状態に陥ってしまうのだ。
「正直、オレと天音は訓練を続けるか迷ってたところだったんだ。このまま同じことやってたら、先にがうがうの身体が壊れちゃうよ」
積まれた木箱の上へ腰掛けた血炉が、溜息交じりに長い黒髪を掻き上げた。
牙雲本人からは『《覚醒》が制御できるようになった上で昇格したい』との希望があったのだという。それもあり、この《課題》の達成が言い渡されていたらしい。
ドラーグドの名将となることは、牙雲が何を犠牲にしても掴みたかった目標だ。だが、強者として持つべき力が、時に仲間を傷つける諸刃の剣となるがゆえに、彼は長く苦しんでいる。
上官が塞ぎ込んでいる理由は理解できた。ただ、同時にふとした疑問が頭をよぎる。
「そういえば、なんで血炉さんはこの《課題》に協力してるんでしたっけ? 同じ戦闘部隊の天音ちゃんが付き合うのはわかるんスけど」
「――ああ、実はオレも《覚醒》経験者なんだ。しかも二回やって、どっちも大暴れしてる」
「ってことは、血炉さんも死にかけるような目に遭ったんスね」
こちらを見つめる無邪気な瞳に、悪いものが宿っているようには見えなかった。だが、不意にその眼差しへ影が差す。
「オレはいつ死んだっていいと思ってるのに。どうしてか生き残っちゃうんだよなぁ」
内に潜む“竜”について、天を仰いだ相手が触れる。
「《覚醒》したオレのことは、いつもウェスが止めてくれたんだ。一回目はたまたま一緒の戦闘に出てたからなんだけど、もしあの時ウェスが近くにいなかったら――オレは間違いなく、他の隊員を襲ってたと思う」
自らが引き起こしかけた悲劇を思い返すように、彼は赤い瞳を閉ざす。
「オレ、人を傷つけるのは嫌いだからさ。本当は軍に行きたくなかったんだけど、色んな事情があってドラーグドに少年兵として入ったんだ。でも、やっぱり部隊のやることに慣れなくて、戦闘中に自分が抱えてた悪い感情が出てきちゃって」
当時、戦闘部隊の隊員だった血炉は、劣勢となった自軍の援軍として参戦したという。だが、血の匂いで刺激された状況下で本能が優位に働いてしまった。そこに心情へ反する行為を求められ、その大きな心理的負荷が《覚醒》の引き金になったらしい。
「あの時、ウェスは他の味方を庇おうとして、暴走したオレの眉間を撃ったんだ。普通なら即死だけど、オレは特殊な身体だったから生き残っちゃった――ほら、これぐらいの傷ならすぐに治っちまうんだぜ?」
血炉が自身の掌へおもむろに長い爪を立てる。しかし、引っ掻いた場所は数秒もしないうちに、ぐちぐちと音を立てながら塞がっていった。
その光景に目を丸くすると、相手は悪戯を成功させた子供のようにケラケラと笑っている。土気色の容貌をぼんやり眺めていると、不自然な存在に目が留まった。
「はは、こんなの見せたらやっぱ気になるよな?」
自分の視線に気付いた血炉が、白い眼帯で覆われたそこへ触れる。
「右目、ずっと見えないんですね」
「うん。今なら頭を吹っ飛ばされても治るんだけど、ここに傷を“受けた”のは小さい時だったから。回復が追いつかなかったみたい」
「病気やケガとかじゃなくて?」
それまで落ち着いていた血炉の表情が露骨に曇った。ただ、歪な笑みを繕った彼は、どこか他人事のような口調で答えを濁す。
「……オレは生まれた時から《悪い子》だったから。ただ、運良くオレのお祖母様が助けてくれて、命までは取られなかった。まあ、今は身体の傷ならいくらでも治るし、右目がなくたってピンピンしてるから問題ないよ」
屈託のない笑み。潰された右目の裏にある本音が見えず、返す言葉を迷っていた時。引きずるほどに長い裾を手繰り寄せた彼が、そっと膝を抱えた。
「自分がいくら傷付いたっていいけど、オレは誰かを傷つけたくない――二回目の《覚醒》では、ウェスがその想いを汲んでくれたんだと思ってる」
彼の話によれば、次の《覚醒》は、戦友である亜久斗やウェスカーと共に赴いていた任務の途中で起こったという。
「その時は敵に悪いもの食わされたおかげで暴走しちゃってさ。けど、亜久斗が持ってた鎮静剤を打つために、ウェスはオレのことを惹きつけて、間違いを犯さないようにしてくれたんだ」
「……味方を庇うだけじゃなくて、血炉さんのことも考えてくれたんスね」
「普段はつんけんしてるけど、そういうところもあるから、オレは勝手にウェスのこと友達なんだって思ってる。それに、あの時ウェスが近くにいてくれたから、オレは辛うじて自我を保てた。もし本当におかしくなったら――きっと、彼がオレを"助けて“くれるって信じてたから」
泡沫の微睡にいるような声音が耳元へ落ちる。壊れかけた己を保つ存在は、いつも望んでやまない終の弾丸と、硝煙の匂いだけ。
「がうがうはちゃんと戦闘の場数も積んでるし、自制心も強いから、オレよりも早く《覚醒》を使いこなせる気がするよ。ただ、扱う力に対する恐れが大きくて、自分には制御できないって思い込んでるんじゃないかな」
「それはあるかもしれないっスね」
「だろ? で、ちょっと思いついたんだけどさ。今のがうがうが一番信頼できる相手を連れてきたら、訓練が上手くいくんじゃないか?」
「少佐が一番信頼できる相手、ですか」
「オレの場合、ウェスといれば正気を保ちやすくなる。だから、絶対に自分を止めてくれるって信じられる存在が近くにいたら、がうがうも自分の力を恐れずに正しく認識できると思うんだ」
彼の心の枷を外すための策を考え込んでいた時。外からガタガタと重たい荷台を動かす音がせわしなく流れてくる。
「やっべ! これからデカい搬入物が来る予定だったの忘れてたわ! オレが引っ張らないと時間かかるし、もう行かないと」
「あっ、仕事中に話し込んじゃってすみません。色々と教えてもらってありがとうございました」
「がうがうに無理させないようにだけヨロシク。何かあったらいつでも呼んでくれよな!」
「ハイ! 失礼します」
ぴょん、と箱の上から飛び降りた彼は、長い黒髪をなびかせながら去っていった。
「昼になったらぜったい少佐のところへ行かなきゃな」
牙雲がその背に負った重圧は理解していた。今はそれが一気に押し寄せたように見えて、彼も不安に駆られているのだろう。ただ、ひとりで背負うのは難しくても、その周囲には自分を含めた協力者がたくさんいる。
何でもいいから力になりたい。ひたむきに前を目指す上官の背中を、自分は追いかけていたかった。ぎゅ、と拳を握り締め、紅葉は静かになった倉庫を後にした。




